27 不意打ち
城内の大浴場とは別に、城主一家の私室にはそれぞれ小さな浴室が設けられている。
日頃から節制を心掛けているハインツは私室で沐浴を済ませることが多いのに比べて、その娘のリチアは大浴場を使うことが多く、そのうえ一日二回のお風呂癖までついていた。
しかしここ最近はその大浴場の使用頻度がめっきりと減った。
本人曰く、「一人で静かに入りたいから」ということだが、もちろんそれは建前に過ぎない。
「はぁ~‥‥‥あなたがまさかダンス音痴だったなんて」
少年騎士ことリチアは、目の前の華奢な背中を泡で擦りながら、盛大に溜息をついた。
リチアに身体を洗われている少女ことスノウは、リチアの落胆を聞き申し訳なさそうに肩を竦めた。
「社交ダンスなんて生まれて初めてだったので‥‥‥」
例によって目隠しをされているスノウが小声で呟く。
二人以外、密室の浴室。心と体が入れ替わってしまって以来、毎晩リチアがスノウの沐浴の面倒を見ていた。
「だからって、もう少しどうにかなるものでしょ?」
下手くそすぎて話にならないんですけど。リチアが憮然と文句を突き付ける。
「‥‥‥すみません」
返す言葉もない、と項垂れるスノウ。リチアは短く嘆息する。
「ゴートがせっかくミネルヴァ家の情報を教えてくれたんだから。元に戻るためにも、なんとか明後日の舞踏会には行かないと。壁の花になってるだけじゃ、シャイリーンには近づけないんだから、絶対に」
言葉を固くするリチアに、
「‥‥‥そうですね」
やや間を開けてからスノウも同意した。
――本当にミネルヴァ家の仕業だろうか?
少なくともリチアはそうだろうと思い込んでいる。だが、スノウには不安があった。
一週間前のことだ。約束通りゴートのギルドマスターがオーディン城にやってきた。幹部の団員を数名引き連れて。――そこに、リチアとしてスノウも同席した。
ハインツと面会し、彼らが真っ先に口にしたのは感謝だった。
リチアがギルド全員の命を救ったことは紛れもない事実。ハインツとの対話を経て、やはりオーディン家が魔獣事件と何の関わりもないことを再確認したうえで、根拠のない誤解をし、あまつさえ侮辱した公女本人が侮辱した側のギルドを見捨てず、不眠不休で恩義を尽くしてくれたことで目が覚めたという。
「なぜそのような誤解を?」
そう訊ねたハインツに、白髪白髯のギルドマスターはしばし瞑目し、やがて嘆息した。その姿はまるで、自分自身を戒めているようだとスノウは感じた。
「‥‥‥密書が、ミネルヴァの名で届いたのだ」
顔をしかめたハインツの後ろで、スノウも同じように眉を顰めた。
――話はこうだ。
国有地のブレア地区に様々な魔道具を与えたのが、前管理者のミネルヴァ家である。利益は全てブレア地区に還元される手筈であったが、その一部が密かにミネルヴァへと流れていた。
オーディン家がそれを知っていると脅し、「現行の管理者は我々である」と現在渡っているはずの利益を寄こせと要求があった。渡さなければ王室に密告する、と。
しかしミネルヴァ家がその要求を「事実無根」と退けたため、怒りの矛先がミネルヴァの傘下に入ったばかりであるギルド・ゴートに向いてしまった。用心するように‥‥‥ここまでがミネルヴァ家から届いた密書の内容である。
その後、事件が起きたのだ。
魔獣が出没した橋は、そのミネルヴァ領へと向かう街道と繋がっていた。ギルドのみならず賄賂を生むブレア地区をまとめて急襲する‥‥‥そのためにオーディン家が数あるギルドの中でも敵勢にあるゴートに依頼をしてきたのだろう――団員たち全員がそう考えてしまった。
――だが、そこに公女が来たため、話が変わったのだ。
父親の愚かな目論見を知ってか知らなかったのかまでは、その場では判断できなかったそうだ。けれども、人の命を簡単に奪うような計画を立てた人間の娘が無償で、しかも平民の命を救うなど本当にあるだろうか?
それに、今回命を落とした二名はどちらもオーディン家の騎士団だった。彼らが本気で人々を守ろうとしたことは見るまでも無く明らかであり、とても謀計に加担しているようには見えなかった。
‥‥‥話を終え、ギルドマスターは深く頭を下げた。
「まだ団員の中には疑惑が拭いきれない者がいる‥‥‥ミネルヴァとの面目もある。協定を結ぶことはすぐにはできないが、何かあれば我々を頼ってほしい。お前とは昔のよしみもある、その時は最大限の手は貸そう」
それと――と、ギルドマスターはスノウに視線を向けた。
「多くの貴族は身分を持たぬ我々を使い捨てる。まして我らはお嬢さんとその父親に一度は背を向けた存在だ‥‥‥そんな私達に手を差し伸べてくれる御方がこのオーディン家に――ハインツの元に生まれてきてくれた事を、誇りに思う」
“『スノウ、早速この人たちを助けてくれないかしら』”
あのときのリチアは少しも躊躇う素振りなど見せなかった。けしてもったいぶる態度もとらなかった。
(誇りに思う――‥‥‥僕もだ)
ギルドマスターの言葉を聞き、スノウは誰よりも誇らしく思った。
――これがブレア地区の顛末だ。しかし、
「‥‥‥その密書、本当にミネルヴァ家のものでしょうか」
スノウはいった。
「彼らの地位と名誉はどの公爵家よりも上です。国中誰もがそれを知っている‥‥‥なのになぜオーディン家を狙う必要が? 何かメリットがあるのでしょうか?」
疑問を吐露したスノウに、リチアはムッとして言い返した。
「‥‥‥ちょっと! 我が家を馬鹿にする気?」
「あ‥‥‥い、いいえ! そうではなくて――!」
慌てたスノウに、意外にもリチアは苦笑した。
「冗談よ、冗談。別にそんなことで怒んないわよ‥‥‥まぁ、ミネルヴァ家とは昔から何かと対立してたからね‥‥こっちにその気がなくても」
言いつつ、困ったものよと呆れた吐息を吐いた。
「聖女信仰と魔法信仰――ですか?」
スノウが問う。
「‥‥‥そんなところよ」
リチアは少し曖昧に答えた。
「でも、決定的だったのは私の婚約だったかしら」
声にわずかな影が差したような気がする。スノウは閉口し、リチアの言葉の続きを待った。
「これまで王太子の結婚相手はみんな国外の王族だったのに、突然私が候補に上がったから‥‥‥それからはトントン拍子に何もかも決まっちゃってね」
思い出すと胃が痛くなるような話だった。婚約者が王子だと知って、浮かれていた頃の自分が恥ずかしくなる。
リチアは目線を床に落とした。
「国内で妃を選ぶのも無かったわけじゃないけど、貴族社会で浮いてたオーディン家からわざわざ私が選ばれた。――王族にとって血筋は何よりも大事よ。それなのに聖女とはいえ平民の血が混じった私を皇后の座につかせようとしたんだもの‥‥‥反発があったって仕方がないわ」
「でも‥‥‥それは陛下の意思ですよね?」
「まあね――でも、最古の大魔法使いの家門として王家に一番貢献してきたミネルヴァからしたら‥‥‥屈辱だったはず」
さぞ裏切られた気分だったことであろう。
婚約者候補なら、それこそシャイリーンも候補の中にいたのだ。それなのに実質格下のオーディン家が権力を得るのだから。むしろミネルヴァに限った話ではなく、他の貴族達でさえ同じように感じたはずだ。
「‥‥‥しかしお嬢様。その婚約は‥‥‥」
最後まで言えずに言い淀むスノウに、リチアは暗い笑みを顔につくった。
「ええ、その通りよ――」
リチアの婚約は一年前に破談となっていた。
それも、王太子ルーベンスから唐突に破棄されたのだ。
理由は諸々突き付けられたが、大まかに言うと“リチアが皇后として何一つ相応しくない”という言い分だった。ショックを受けたもののリチアは必死に反論をしたが、最終的には顔も見たくない、今すぐ消えてくれ‥‥‥と、にべもなく突き放されてしまった。
「破談になったのは‥‥‥ルーベンスが勝手にやった事よ」
言いながら、自嘲気味に笑む。
‥‥‥スノウに目隠しをさせていて良かった。リチアは心の中で苦笑した。
「――問題はこの先の王位継承者の方よ。世間で私がどういわれようと、陛下は私達オーディン家に借りを作ったの。来るべき未来‥‥‥私に子供ができたら、また婚約者に選ばれちゃうかもしれないでしょ?」
だから今のうちに消そうと思ったり、没落させようとしたり、相手は必死なのよ――と、リチア。
何せ事が私的な恨みが原因なのだ。ルーベンスはその時点で実の父親から即時首をたたっ斬られても文句は言えない立場になったはずだった。
当然、王室からは謝罪があった。しかし世間ではどういう訳か、王太子が愛想を尽かすほどの悪女としてリチアの名前が広がってしまった。
「それでミネルヴァ家が一番怪しいとお考えなんですね」
そうよ、とリチアは首肯した。
――確かに、疑う理由としては成立する。だが、いささか計画としてはかなり粗雑過ぎるのではないか。‥‥‥これがスノウの疑念だった。
(密書のことをゴート側に口止めしなかった‥‥‥しかも公表も、そのための偽装工作も何もせず? こんなことが世間に知れ渡ったら信用を失いかねないだろうに‥‥‥)
何かあったらすぐに揉み消せる算段でもあるのだろうか、本当にミネルヴァ家が関わっているから? それとも――。スノウが思案していると、背後から取ってつけたような明るい声でリチアが言った。
「ま、何はともあれシャイリーンに直接ふっかけてやるわ! 舞踏会ならいくら人目があっても暗殺みたいな大事は起こせないでしょうし――むしろいい機会よ、ブレア地区を救った聖女として堂々とアイツの前に立ってやるんだから!」
スノウが、だけど。と付け加えたリチアだが、嬉しいことには変わりないようだった。
「もしかしたらこの舞踏会で色んな人にダンスを申し込まれるかもしれないわよ? ――あ、ひょっとしたらモテ期ってやつがきちゃうかも!?」
‥‥‥ディアムだな。モテ期なんて言葉を教えたのは、とスノウは即座に思った。言い慣れない言葉なのかちょっと訛っているところをみるに、きっとそうに違いない。
とはいえ、ちょっと内心びっくりしているスノウである。
「‥‥‥お嬢様は、ご結婚されたいんですか?」
率直に訊ねる。リチアがあまり気取らない性格のせいか、結婚に興味がないタイプだと勝手に思い込んでいたのだ。
「え? 当たり前じゃない。普通にしたいけど」
スノウからは見えなかったが、リチアは「何故?」と、むしろキョトンとした。
「私はオーディン家の後継者よ? どのみち誰かとは結婚しなくちゃいけないし、だったら早く結婚してお父様を安心させてあげたいじゃない。お母様の墓前にだって夫と‥‥‥まだ早いけど、子供と一緒に行ったらきっと喜んでくれるわ、きっと」
リチアが楽しそうに語る。それは、夢見がちな乙女といった口調なのに、自分が誰なのかをけして忘れてはいない女性の言葉でもあった。
「‥‥‥そう、ですか。そうですね‥‥‥」
スノウは曖昧に言葉を濁した。訊ねたのは自分のくせに、上手い返しが思い浮かばない。
「‥‥‥では、例えばどんな人がいいですか?」
話題を逸らそうとして思いついたのは、結局そんな女々しい問いだった。
さり気なく好みのタイプを聞いてしまうあたり、我ながら未練がましい奴だな、とスノウはつくづく思ったが、訊ねられたリチアは素直に取りあってくれた。
「どんな人かぁ‥‥‥」
(――そういえば考えたことなかったな‥‥‥)
オーディン家のために――幼少期からそう教育されてきたから、考える余地がなかったのだ。
改めて聞かれると困る。横領とかずるいことはせず、領民から無理な搾取をしない人‥‥‥? しばらく考え込み、そこでリチアはハッ!とそれ以前の問題に気が付いた。
(ちょっと待って! なんでスノウがそんなこと訊くの!?)
忘れていたが、スノウは異性である。友達‥‥‥という仲でもなければ、もちろん家族でもない。悲しい事に親しい女友達がいないのでよく分からないが、異性とこんな突っ込んだ話をするのは少し変ではないだろうか――と。
(ティティとでさえこんな話はしないのに!? ま、まさか――!)
‥‥‥リチアは気付かない。今の気持ちを仮に側使えのティティが聞いたら間違いなく、
『いまさら何言ってるんですか? 異性の下事情を面と向かって本人に詰問したくせに』
こんな感じの指摘を受けるということに――。
困惑したリチアはやがて、斜め上の思考に辿り着いた。
(まさか――私の身辺調査!?)
頭上に雷が落ちたような衝撃を覚えた。
(そういえば‥‥‥スノウって実はお父様と仲がよかったんだった!)
ますますハッとなる。スノウの弟の発言と、実はハインツが過去にゴートに所属していた云々に対する反応が気になり、父と交流があるのか、というか借金ってどういうこと? と問い詰めたのである。するとどうだろう、
『ええとその‥‥‥家族の生活費や学費の足りない分を旦那様が肩代わりしてくださっていて‥‥‥いやっ、もちろん将来きっちりお返しするつもりですからね!? それで取引と言いますか、時折旦那様の相談役を引き受けていたんです』
スノウは白状した。そしてその白状した内容の大体が呆れたことに、『年頃を迎えた娘と上手に付き合うにはどうしたら良いか』というものだったりする。
(まさかお父様の言いつけで探りを入れる気じゃない!?)
好きな人とか、好みのタイプとか、隠れて付き合っている人がいないかとか――未婚の侍女たちが、そんなことをやたらと訊ねてくる父親がウザい、と時々話しているのをこっそり耳にしていた。
(――これはそう、きっとそれだわ!)
そう思うと、背筋がぞわっとする。別にハインツのことが嫌いではないのに、なんだか物凄く嫌な気分になった。
「‥‥‥そうね」
スン、と表情が無になるのが自分でも分かる。すっかり興覚めだ。
「あの‥‥‥お嬢さ――」
「身分は大事かしら、それとオーディン家を公爵家として重んじてくれる人、当主が女性であることを理解してくれる人。あと横暴な態度や領民を虐げる人間は論外。お母様の遺産狙いはもっと論外ね」
いっそ呆気にとられるほど矢継ぎ早に言い捨て、さらに続ける。
「性格は――そうね、優しくて、思慮深くて、でも時には厳しくて、辛いときに側にいてくれる人。きちんと私の話を聞いてくれる、そんな温かい性格の人がいいわね」
思い浮かぶ限り言い終えると、リチアはフゥと息を吐いた。言った、言ってやったわ。これならお父様も納得するしょう、なんて考えていると、
「‥‥‥なんというか、かなり中身重視ですね」
いきなりの饒舌だったのに、スノウは引くどころか少し安堵したふうに言う。
「いけない?」
「いいえ全然。大切なことだと思います」
「そうでしょう?」
「でも、そんな聖人君子を今の貴族の中で探すのは骨が折れそうですけど」
「それがね‥‥‥実はそんなことも無いと思っているの、私はね」
「‥‥‥と、いいますと?」
「あった事があるのよ、そんな男の子に、しかもこの城の庭で!」
ピクッと白い肩が動き、スノウの様子が変わる。しかし、想い馳せるように目線を上げていたリチアはスノウが今どんな顔をしているのか見ることはない。
「あれは私が八歳になった誕生日でね‥‥‥」
「っ! それって――!」
直後、スノウが咄嗟に振り返り、その肩に偶然手をかけていたリチアはわずかにバランスを崩してしまった。
不幸にも滑りやすい風呂場で、なおかつお湯と泡だらけの大理石。それらはいとも容易く、卓越した動体視力をもつ騎士の身体の自由を奪った。
――倒れる‼
スノウを押し倒すような形で倒れ込む。床に頭が届くか届かないかの瞬間、「自分の頭が危ない!」とスノウの頭の下に咄嗟に手を差し込み、逆の手を床に付く。これで倒れた衝撃を、少しは和らげたはずだ。
リチアはすぐさま「私の頭、大丈夫よね!?」と聞こうとした。が――
「‥‥‥!」
はらりと、布が落ちて、
「‥‥‥え?」
目を開いた瞬間、そこには優しい面立ちの少年しかいなかった。リチアは秒で凝固する。
「私が消えた!?」
すっとんきょうに叫ぶ。
「違います、お嬢様‥‥‥」
少年の口がゆっくりと動く。それはここ最近ずっと耳にしてきた、少年の声で。
「‥‥‥元に、戻ったようです」
「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」
しばらくお互いを見つめ合い、そこでスノウの瞳の中にリチア本来の顔を見つけた。
ホントだ!と感動する暇もなく、どうしよう、という混乱が頭の中を駆け巡る。
その時だった。
「――お嬢様、何か物音がしたのですが‥‥‥」
ティティが浴室に入ってきた。
「――は?」
ティティの表情が一瞬にして強張る。まさしく戦慄の瞬間だった。
「!?」
「‼」
リチアが瞬時に「これは違うの!」と起き上がろうとして、またしても運の悪いことに、「痛っ!」「うっ!」――互いの額を強打してしまった。
‥‥‥‥‥‥‥‥これが、いけなかった。
「~~~~っ‼」
額を押さえた少年騎士の顔に朱に染まる。
恥ずかしさのあまりティティを押しのけて浴室から飛び出していくのだが。
「お嬢様! 待って――‼」
制止をかけたのはお嬢様――入れ替わったスノウで。
元に戻れたのはほんの一瞬だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
今にも鬼と化そうとしているティティと二人、浴室に残されたスノウは、呆気にとられたままそっと己の唇に指先を当てる。
(いま‥‥‥触れたよな‥‥‥?)
気のせいでは、ないような――。
だが余韻に浸る暇などなく、
「――そこに座れ」
ティティの尋問が始まった。
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