後編
今日はユーリック殿とのお茶会の日だ。
私とユーリック殿は婚約者同士なので、週に一回はお茶会をして親睦を深めている。が、私はユーリック殿と会うのがいつも苦痛だった。
会う度にユーリック殿との価値観の違いを感じて、前のお茶会があった日、とうとう私は乳母や母上にユーリック殿と婚約破棄できないかと悩みを相談した。そのことは父上の耳にも入り、私は父上から、私とユーリック殿が婚約したのはユーリック殿が私のことが好きだと言ってきたからだと教えてくれた。……のだが、それは、本当のことだろうか。半信半疑である。
父上が詳しく教えてくれなかったから余計だ。
母上にも聞いてみたがやはり教えてくれなかった。
二人とも「ユーリック殿に聞きなさい」と言うだけだ。
なら、本人に聞くしかない。
私は今日、ユーリック殿に直接聞こうと思っている。
* * *
「ごきげんよう、アリシア様」
「ごきげんよう、ユーリック殿」
いつものように向き合って座る。
ただ、場所はいつもの応接間ではない。
わたしの一番好きな場所に席を設けさせてもらった。
「今日はいつもと場所が違いますね。この庭には初めて入ります」
それはそうだろう。
手入れはしていても、ここは客を通すほどの庭ではない。
それでも、ユーリック殿は楽しそうに初めて入る庭をキョロキョロしながら興味深げに見ている。
そんなユーリック殿に私は話しかけた。
「今日はユーリック殿に訊きたいことがあるのだ」
真剣な顔をした私を見て、ユーリック殿は笑顔を止め、姿勢を正した。
「な、何でしょうか。僕に訊きたいこととは」
何を言われるのか、ユーリック殿は緊張しているようだ。
それも仕方がないかもしれない。
何故なら、私も心臓が口から出てきそうなほど緊張している。
こんなに緊張するのは生まれて初めてだ。
口の中はカラカラ手足もガチガチで、そんな私を前にユーリック殿が緊張するのも当然だ。
沈黙が流れ、昨日あれだけ練習した台詞が上手く出てこない。
ゴクリと唾を飲み込む音が大きく感じる。
「アリシア様、大丈夫ですか?」
声のする方を向けば、ユーリック殿は私の横に立って背中を擦ってくれていた。
天使の手は優しく温かい。
その温かさに私の緊張が少し解れていく。
「……大丈夫だ。すまない」
「いいえ。それより、アリシア様はお加減が良くないのでは。どうぞ横になってください。医者を呼びますから」
ユーリック殿は私の体調が良くないと思ったらしい。
「そうではないのだ。私は今、とても緊張していて……」
「緊張…ですか?」
ユーリック殿は意外そうな顔をした。
「そうだ。私は今、とても緊張している。こんなに緊張するのは生まれて初めてで、ユーリック殿に訊きたいことがあると言ったけれど、どうユーリック殿に切り出せばいいのか自分でも分からなくて……」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
頭の中がグチャグチャになる。
そんな私の背中をユーリック殿がまた優しく擦ってくれた。
「落ち着いてください、アリシア様。僕は何を問われても構いません。だから、貴方が胸の中にしまっている想いを全部吐き出してください」
ああ、天使は声さえも優しい。
その声に私の気持ちは少し落ち着いてきて、私は深く深呼吸した。
* * *
「それで、アリシア様は僕に何を聞きたいのですか?」
私が落ち着いたのでユーリック殿は席に戻り、私たちはまた向かい合って座っている。
「その、話せば長くなるのだが、それでもいいだろうか?」
今日は私が婚約破棄を考えていることも全部話そうと思っている。その方が良いと思うからだ。
「もちろんです」
ユーリック殿は私の目を真っ直ぐに見つめて頷いた。
私はふぅと息を吐き、話を始めた。
「まず初めに、私はユーリック殿はとても素晴らしい青年であると思っているを伝えておきたい」
素晴らしい青年と言うと、ユーリック殿の頬が赤くなり、嬉しそうに笑いながら「ありがとうございます」と言った。
そんなに喜ばれると辛くなるのだが……
それでも、ここで止める訳にはいかなかった。
「ユーリック殿は素晴らしい青年だ。……だけど、私とは合わないと思うのだ」
「合わない?」
ユーリック殿はキョトンとした顔をしている。
ちゃんと順を追って話を進めようと思っていたのに、私は緊張のあまり、かなり話を飛ばしてしまった。
「そうだ。つまり…合わないということは、その価値観が違うというか……」
価値観が違うとは、相手を傷付ける言葉だ。
正直に気持ちを伝えようと思っていても、やはり面と向かって言うのは嫌なものだ。
「価値観が違うとは、具体的にどういうところでしょうか?」
ユーリック殿を傷付けることを言ってしまったと罪悪感を感じでいたが、当のユーリック殿の声は落ち着いていた。
怒っている風でもなく傷付いている風でもなく、冷静に私に質問してきた。
しかも、具体的に説明しろと言う。
これは……どう答えるべきか。
すぐに言葉が出てこない自分が不思議だった。
あんなに、ここが合わない、あれが合わないと思っていたのに、いざそれをユーリック殿に伝えようとすると中々言葉にできないのは何故だろう?
「アリシア様、どうぞ遠慮しないでください。僕は貴方が、僕と合わないと思う理由を知りたいのです」
自分の思いを上手く纏められない私と違ってユーリック殿はやはり冷静だ。
意外だった。
傷付きやすい人物だと思っていたが、どうやら、そうではないようだ。
「私は嘘は嫌いだ。だから、正直に言おうと思う。その事でユーリック殿を傷付けてしまうかもしれないが、それでもいいだろうか」
「はい。もちろんです」
やはり、ユーリック殿に迷いはない。
なら、私も迷いを捨てよう。
「ユーリック殿も知っているように私は王宮で育っていない。二年前までヨーシェンの田舎で育ってきた。今は豪華なドレスを着て化粧をしていても、中身は王族としての教育も心得も何も分からない、ただの田舎者だ。そんな私が、公爵家の嫡男として育ったユーリック殿と合うはずがない。私はがさつで女らしくなく、マナーもよく分かっていない。けれどユーリック殿は生まれたときから公爵家の嫡男としての教育も受け、マナーも完璧で、つまり何が言いたいのかというと、私は王女ではあるが中身は平民と同じだ。そんな私と貴族の最高位に就くであろうユーリック殿では合わないのも当然だと思うのだ」
嫌な汗がじんわりと身体中から浮いてくる。
迷いを捨てようと決めたのに、私の心がゆらゆらと揺らぐ。
それでも、私は踏ん張った。
「具体的に言うと、私は食事は大きな口を開けて食べるのが好きだ。お腹いっぱいになるまで、友人と笑いながら食べる。そんな生活をしていたからユーリック殿のような上品な食べ方に違和感を感じてしまうんだ。言葉遣いもユーリック殿の方が綺麗で……私はいつも気後れしてしまって本音で話すことができない」
「こんな私とユーリック殿が結婚してもお互い幸せになれるだろうか?私は……なれないと思ったのだ。『王女』、ただそれだけでユーリック殿を縛り付けるのはよくないと……でも、ユーリック殿が私の婚約者に決まったのは、ユーリック殿が申し込んできたからだと父上から聞いて、私はよく分からなくなってきた。
ユーリック殿、婚約を申し込んだというのは本当なのだろうか?」
そうだ。もし、本当にユーリック殿が私の婚約者になりたいと申し込んできたのなら、その理由がしりたい。
ユーリック殿は私のことが好きだと言ったそうだが、私とユーリック殿は婚約するまで会ったことがないのだ。それなのに、いつ私を好きになったのか。
もし……もしユーリック殿が私が『王女』だから好きだとしたら、私が田舎育ちでがさつで王女らしからぬ女だったとしても、ユーリック殿には関係ないということになるのだろうか。
ユーリック殿が『王女』との結婚に価値を見出だしているのなら、私が思う『価値観の違い』をユーリック殿は理解してくれるだろうか?
「プッ」
私が真剣に話をしているのに、ユーリック殿が笑った。
まさか笑われるなんて思っていなかった私は一瞬面食らって、そして、少しムッとする。
「何がおかしいのだ、ユーリック殿」
私が笑っていることを咎めるとユーリック殿は笑いを堪えた。
それも、ムッとする。
「すみません。あまりにもアリシア様が可愛らしくて」
「か、かわいい?!」
どこから、そんな単語が出てくるのだ?!
「はい。最初は何を言われるのか緊張しましたけど、そんなことで悩んでいらしたのですね」
そ、そんなこと?!
私がこんなに悩んでいるというのに。
やっぱりユーリック殿とは合わない!
ユーリック殿の言葉がショックすぎて私はワナワナと震えた。
「アリシア様、今度は僕が話をしてもよろしいですか?」
怒りを感じている私にユーリック殿が話をしてもいいか訊いてきた。
ふんっ、いいだろう。
何を話したいか知らないが、聞いてやろうではないか。
「よい。許す」
「ありがとうございます」
「まず、僕がアリシア様の婚約者になりたいと申し込んだのは本当です。僕はアリシア様のことが好きで、諦めたくなかったので国王陛下に何度もお願いしました」
私は無言だった。
目は『会ったこともないのに』と語っていたが。
それを察してかユーリック殿は話を続ける。
「どうしてアリシア様のことが好きになったのかというと、実は僕とアリシア様は六年前に会っているのです。――ヨーシェンで」
* * *
「僕が八歳の時でした。僕は流行り病にかかったのです。死ぬことはなかったのですが、その病が原因ですっかり身体が弱ってしまって、それで、療養のためにヨーシェンに行くことになりました。成人することが難しいといわれた第三王女を健康にした地だということもあって。ヨーシェンについて、僕は少しずつ元気になっていきました。朝起きて夜に寝る。熱を出すことなく、庭に出ることも出来る日々を送っていたときに、ある日一人の少女が屋敷を訪ねて来たのです。その少女は陽に焼けて地元の子供たちを従えて、とても元気で明るい少女でした。そして、その少女は私にこう言いました。『健康になりたいなら家の外に出ろ!家の中でうろうろしていても健康にはなれない」と」
それは、百パーセント私だな。
だが、よく覚えていない。
そんな出会いがあったのかと私は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
「僕はびっくりしました。いえ、びっくりしたというより、正直怖かったです。後から、あのお方は第三王女殿下だと聞いてもすんなり信じられないほどでした。それでも、その日から野原や花畑、川や山に連れていってもらうようになって、僕はこんなに世界は広いのだと、美しいのだと感動し、たくさんのことを学ぶことができました。そして、僕はあることに気付きました。
僕はアリシア様が好きなんだと。
風を操るように馬に乗り、髪を靡かせるその姿を僕は今も忘れることはできません。
アリシア様と一緒に過ごすようになって半年程経った頃、僕は王都の屋敷に帰って来るように父上から言われました。
アリシア様と別れることがとても辛くて、ずっとここで一緒にいたくて、僕はアリシア様に泣きつきました。『帰りたくない。アリシア様と一緒にいたい、公爵家なんてどうでもいい』と。
すると、アリシア様はこう言いました。『泣く男は嫌いだ。自分の責任を放り出す男はもっと嫌いだ』と」
私はそんな偉そうなことをユーリック殿に言ったのか?!
いくら子供だったとはいえ。私はまた恥ずかしくなった。
「その時、私は決めました。立派な男になってアリシア様を迎えに行くと。そして、アリシア様に結婚を申し込むと」
照れくさそうに言うとユーリック殿だが、私にはとても頼もしく見えた。
「結局、僕が迎えに行く前にアリシア様が王宮に戻られたんですけど」
「なぜ?」
「えっ?」
「なぜ、最初にその事を教えてくれなかったんだ」
そうだ。婚約してから一年も経つのに、ユーリック殿はどうして話してくれなかったんだろう。
「それは、アリシア様が僕のことを覚えていないことがショックで……すみません、狭量な男ですね僕は」
いや、きっと私でも同じようにしたと思う。
「失礼なことをした。すまない、ユーリック殿」
私が覚えていないことに対して頭を下げた。
「ア、アリシア様?!そんな頭を上げてください!アリシア様が謝ることではありません。 僕の方こそちゃんと言えばよかったのに、黙っていてすみません」
お互いが謝り、私たちは思わずプッと笑い合ってしまった。
「なんだかおかしな話だな。こうして話を聞くと私たちは昔から縁があったのだな。私はユーリック殿にヨーシェン時代の自分を知られると嫌われると思っていたのに、ユーリック殿はその時の私を好きになってくれていたんだな」
「はい。でも、ヨーシェンの頃のように野山を駆け回るアリシア様も王宮でドレスを着てあるアリシア様も何も変わっていません。強く優しく真っ直ぐなアリシア様のままです」
「うっ、そんなに褒められると照れるな」
まさかユーリック殿からそんなに褒められると思っていなかったので、嬉しいというより照れくさくなってしまう。
天使よ。そなたの方が美しく清く優しいぞ。
「アリシア様、価値観の違いのことですが、まだ、僕と価値観が違うと感じていますか?」
不意にユーリック殿から私が拘っていた価値観の違いについて問われた。
そして、不思議なことにあれだけ拘っていたのに、今はさほど気にならないことに気付く。
「……いや、あまり感じていない。何故だろうな。ヨーシェンにいた時にユーリック殿と半年程一緒に過ごしたと分かっただけで」
「それは、アリシア様にとってヨーシェンで過ごした時が大切だということでは。そして、僕も半年という短い間でしたが、ヨーシェンでアリシア様と過ごした半年は何物にも代えがたい時間でした。ふふっ、僕たち同じですね」
「そう……だな。確かに、ユーリック殿の言うとおりだ。こうして腹を割って話せば共通点はいくらでもあるのだな」
私は今まで何をぐちぐち悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しくなった。
狭量なのは私の方だ。
こうして私たちは少し打ち解けることができた。
私は婚約破棄したいという気持ちはなくなり、ユーリック殿と親睦を深めたいと思うようになった。
それをユーリック殿に伝えると、ユーリック殿は複雑そうな顔をした。
「好きだと言ってもらえるのはまだまだ先のようですね」
ボソッと呟いたその言葉を私は聞こえないふりをした。
大事なことを教えてくれなかった罰と、ユーリック殿は私が好きだと言える日まで待ってくれる骨のある男だと分かったからだ。
今日は良い日だった。
価値観が違うと思っていた婚約者殿が、実は骨のある心の広い、私の好きなタイプの男性だということが分かったからだ。
だが、この事はまだユーリック殿には内緒だ。
私もまた、初めての恋に気付いたばかりで、まだ手探り状態だからだ。
でも、ユーリック殿とこれから先、ずっと一緒にいるのだ。
ゆっくり進んでもいいと思う。
ユーリック殿ならきっと焦らず私のペースに合わしてくれる男だと信じられるから。
いつか、ユーリック殿に「好き」と伝えた時、ユーリック殿はどんな顔をするのだろう。
今からその瞬間が楽しみである。
〈終〉