2つの痛み
~side:遥人~
昨夜のうちに予約していたコーヒーメーカーが
『シューッ』『コポコポコポ』という音を鳴らしている
甘いような、苦いような、なんともいえない良い香りが部屋に広がり
カーテンの隙間から入り込み始めた日差しが朝を伝えている
電源の落ちたテレビをぼんやりとみつめながら
今日も眠ることができずに朝を迎えてしまった
ソファーから体を起こし洗面台へ向かい
冷たい水で顔を洗う
濡れた顔と髪の毛をタオルで拭きながら
食品ラックから菓子パンを取り出す
立ったままパンに噛り付きコーヒーで流し込み
歯磨きをしながら着替えを済ませる
髭剃りの後にボサボサの髪の毛を手櫛で整えた
誰もいないリビングに向かって
「いってきます」
と告げ玄関を出る
『いってらっしゃい』
そんな声が聞えた気がして振り返るが、誰もいない
こんな朝を、もう2年続けている
玄関を出ると、ひんやりとした空気が頬に触れた
まだ朝は少し寒い
空は薄い灰色で、雲が光で滲んでいる
晴れているのか曇っているのか、はっきりしない空
はっきりとしない感じが、今の俺と似ている気がした
遊歩道をゆっくりと歩く
近くの家から
焼きたてのパンの匂いがした
軒先では母親らしき女性が洗濯ものを干しながら
「早く起きなさい」と子供に声をかけている
かつて自分の家にもあった何気ない日常
でも今は、遠い世界のように感じる
胸元のロケットペンダントが
歩くたびに軽く揺れる
その重みが、「忘れないで」と言っているようだった
2年前の冬、妻の祐香は自ら命を絶った
長い間、心の病と戦っていた
笑うことが減り、食事の量が減り、、
夜になると涙をこぼす日が増えていった
「大丈夫だよ」「俺がいるから」「ずっとそばにいる」
そう言い続けた
でも、祐香の心には届かなかった
彼女の心を苦しめていたのは
3年前に起きた事故だった
まだ5歳だった娘の心羽は
祐香のほんの一瞬の不注意で命を落とした
誰にでも起こりうる、ほんの一瞬の出来事
誰も、悪くはない、そんな事故だった
けれど祐香は、自分を責め
心を閉ざしてしまった
「私があの子を殺したんだ」
その言葉を、祐香は何度も繰り返した
俺がどれだけ否定しても
祐香の心の傷は深くなるばかりだった
俺と一緒にいることが
つらいと言ったこともあった
祐香は
心羽に会いに行く と言って俺の目の前で命を絶った
腕の中でだんだんと冷たくなっていく祐香のことを
今でもはっきりと覚えている
愛する家族を失った悲しみ、喪失感
心がぽっかりと空いたまま
止まってしまった時間
2つの痛みは、形を変えながら
ずっと居座り続けている
駅へと向かう道は、毎日同じはずなのに
今日はやけに長く感じた
歩いても歩いても、前に進んでいる気がしない
まるで、見えない何かに足をつかまれているようだ
信号を待っている間、空を見上げてみる
雲の切れ間から、少しだけ青がのぞく
その青は、どこか懐かしい色だった
心羽がよく「おそら あおいね」と言っていた日の空に似ていた
胸がきゅっと痛んだ
思い出すたびに痛むのに
それでも忘れたくない記憶だった
赤信号が青に変わる
小さく息を吐き歩き出す
人もまばらな午前6時前
信号を渡った先に
俺をじっと見つめながら、君が立っていた




