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ボイト伯爵家令嬢カレンは、その日も静かにペンを走らせていた。
机の上に並ぶのは、アルヴェーン公爵家の管理報告書や収支報告書。
それは、本来なら、まだ学生の身で、は見ることのできない代物。
しかも、婚約者とはいえ他家の人間には触れることすら許されないはずのもの。
だが、カレンは見ることを許されていた。
婚約者にとっては代わりに仕事をしてくれる都合のいい相手として。
公爵家としては息子を支え、次期公爵夫人となるための教育として。
それが彼女の役割。
「ここも、無駄が多いわね」
誰にも聞かせるつもりのない独り言を落としながら、カレンは迷いなく数字を修正していく。
これにより支出は三割削減できる。
この取引先は、来年には破綻する可能性が高い。
その時になって、代替先を探していては遅い。
それならば、今のうちに別のルートを確保し、破綻する前に切り替える。
そうすれば、損失を回避できる。
それらを淡々と書き連ねた提案書は、やがて一つの結論へと収束する。
公爵家の現状は、緩やかに衰退へ向かっている。
だが、それを止める手段もまた、すでに用意してあった。
「これで、問題ないはず」
最後に署名を入れかけて、カレンはふと手を止めた。
そこに記されるべき名前は、本来ならば、私、カレン・ボイト。
「いえ、違うわね」
小さく首を振る。
そして彼女は、何も書かないままペンを置いた。
この提案が採用されるとしても、功績は別の人間のものになる。
それでいいと、最初から決めていた。
それが、婚約者のためなのだから。
カレンの婚約者。アルヴェーン公爵家嫡男、レオン。
彼が優秀であると評価されること。
次期当主としてふさわしいと認められること。
そのために、自分が支える。
それが、伯爵家の次女として生まれ、未来の公爵夫人となるべく育てられてきたカレンの役目だった。
ある日の学園での昼休み
「カレン様」
不意に、背後から声が落ちた。
振り返ると、そこに立っていたのは
「マリア様」
子爵家の令嬢、マリア・ルーヴェン。
「カレン様って、レオン様のお手伝いをされているのですか?勉強
や家のことまで」
柔らかな笑みを浮かべ、まるで何も知らない無垢な少女のように首を傾げている。
けれど、その瞳の奥に宿る光を、カレンは見逃さなかった。
「でも、カレン様。そんなに頑張っても、報われないかもしれませんよ?」
甘く、優しい声音。
けれど、その言葉はどこまでも冷たかった。
「だってレオン様、私といると最近とても楽しそうなんですもの」
その言葉の意味を、理解しないほどカレンは愚かではない。
胸の奥で、何かがわずかに軋む。
それでも、表情は崩さない。
「そうですか」
ただ、それだけを返す。
マリアは少しだけ意外そうに瞬きをして、すぐにまた笑みを浮かべた。
「ええ、とても。勉強なんてしなくてもいいんだって、そう思えるくらいには。しかも、カレン様がいるわけですし」
その言葉は、確かに事実だった。
最近のレオンは、課題の提出も遅れがちで、成績も落ち始めている。
それでもどこか余裕を崩さないのは、甘え。
「どうせ自分は王家の血を引いているから、大丈夫だって」
マリアが楽しそうに言う。
「そういうことを私によく言ってますから」
カレンは、何も言わなかった。
言葉にすれば、きっと何かが壊れてしまう。
代わりに、机の上の書類へと視線を落とす。
そこにあるのは、自分が支えてきた結果。
そして
「そうですか」
静かに、息を吐く。
「なら、もう必要ないですね」
ぽつりと零れたその言葉に、マリアの目がわずかに見開かれた。
「え?」
カレンはゆっくりと顔を上げる。
その表情は、これまでと何一つ変わらないはずなのに。
どこか決定的に、何かが違っていた。
「私の努力も、支えも、全部」
淡々と、告げる。
「必要ないのなら、やめるだけです」
その瞬間。
物語は、静かに終わりを告げる。
そして同時に、すべてが始まる。




