花咲か少女と春の庭。
二人で死ねるなら、それに勝る人生も未来もないでしょう?
それは心の底からの言葉だった。痛いほどに力の入れられた彼の腕に負けじと抱き付く。
「……違う、パッペル、私は君に、」
「貴方にとって違っても、私にとっては正しいんです。」
私はもう迷ったりしないから。覚悟さえ決めてしまえばほら、二人でこのまま死んでいくのも、二人で逃げて生きるのも、どちらにしても幸せなのだから。
「私にはもう、一人で生きていくなんてできません。」
前ならきっとできた。一人でフラフラしながらも、助けてくれそうな人、親切そうな人を見つけて、すり寄って、生きていくためなら何でもできた。街を追い出されて、ネーヴェに行くことになっても、たぶんそこで同じように生きていけた。でももう、一人で生きていくなんてできない。
「貴方のせいですよ。貴方が私に暖かさをくれました。声を掛けてくれました。心を砕いてくれました。……それまで知らなかったのに、貴方が教えてくれました。」
カロスィナトスが教えてしまった。だから、手放せなくなってしまった。なかったそれを得てしまった今、もうそれを失うことに私は耐えられない。日のあたる暖かい場所を知ってしまったから、もうあの日陰には戻れない。
「死ぬことよりもはるかに恐ろしいことがあります。」
それはカロスィナトスが知っていることだ。私なんかよりきっと、彼の方がわかっている。その恐ろしさを、その冷たさを、その足元に忍び寄るものを。
「大切な人がいなくなり、一人取り残されることです。」
一度目の喪失は、物心がつくころだった。炎に何もかも奪われ、一人取り残された。次の喪失はきっとその比ではない。
彼が死にぞこないだというなら、私もまた死にぞこないなのだ。
「どうか、私を一人きりにしないでください。私を残して、いってしまわないでください。」
一人で生きる苦しさを、痛みを、貴方は知っているでしょう。
失い、一人残されて生きていくくらいなら、私もまた共に失われよう。二人一緒なら、傍にいられるならもう何も怖くない。たとえ死んでも、彼岸で寄り添っていけるだろう。
木々の隙間から見え始めた赤い光でさえも、もう恐怖も焦りも感じない。あの光も、襲うであろう熱さも、そのどれもが終演のための幕でしかないと言える。どれほど絶望的な幕引きであろうとも、壮絶な終わりになろうとも、その中で私だけは、心穏やかでいられるだろうから。
命さえあれば、やり直せる。生きていける。そう思っていた私はもういない。
人の声が近づいて、森の中が明るくなる。
これでもう終わりだ。
「……っ!」
何もかもを覚悟した時、ぶわっと身体が持ち上げられる。そんなことをするのは一人しかいない。
「カロスィナトスっ、」
「本当に、君は……、」
私を抱きしめていた両腕は私を抱え込んでいて、そのまま走り出す。何が起こっているのかわからず、私はただ彼の肩越しに遠ざかっていく庭を見ていた。徐々に徐々に庭も屋敷も遠のいて、騒がしい人の声も光も小さくなる。
茫然としていると上から声が降ってきた。
「すまない……、戻るから、必ず戻るから、それまで……!」
苦し気な途切れ途切れのその言葉は、おそらく遠ざかっていく庭に、そこで眠る彼の仲間に対してだろう。そうして、やっと気づく。私は彼の覚悟を折ってしまった。彼にあの守る場所を、眠る仲間を捨てさせてしまったのだと。罪悪感が胸の中を占める。顔を上げて彼の表情を見ることはできなかった。私の我が儘のせいで文字通り、決死の覚悟というものを無に帰してしまった。彼のその胸中は筆舌に尽くしがたいに違いない。申し訳なく思う。しかし同時に胸の奥底から湧き上がる喜びもまた、確かにあった。彼が逃げてくれること、生きていてくれることが嬉しくて仕方がない。その感情をなかったことにするのは不可能だ。一緒に死んでもいいと思った。彼と居られるならそれが終わりでも構わなかった。それでも結局、一緒に生きられるという道が一番なのだ。
一瞬にして去来しただろう彼の後悔と罪悪感に、他でもない原因の私にかけられる言葉はない。私はただ彼に黙ったまま、遠く遠くなっていく赤い光に照らされた屋敷の影を見ていた。
しばらくして、スピードが落ち始める。まだ明かりは見えていたけれどもう炎は届かないくらいの距離だろう。私を抱えて走っていたのに、カロスィナトスは息が上がっている様子もない。そっと転ばないように地面に下ろされる。けれどまた戻ってしまうのではないかと不安で、黒いコートの端を握りしめた。
「……良かったんですか?」
黙りこくったカロスィナトスにようやくそれの言葉をかける。謝ればいいのか、礼を言えば良いのか悩んだあげくの言葉だった。良いわけがないとわかっていたけれど、問わずにはいられなかった。
「君に、あれだけ言われてしまったら、ね。……言っただろう。私は君に生きていてほしいんだ。梃子でも動きそうになかったから、これしかないと思ったんだ。」
心底弱った、とため息交じりに言うけれど、そこに苛立ちや怒りはない。その目には後悔と焦燥と、それからわずかばかりの安堵の色があった。
「君こそ、良かったのかい?」
「私ですか?」
「こんな、醜い化け物から逃げるチャンスだったのに。嫌になっても、君はもう逃げられない。グラオザームに残っていれば、私から逃げられて、花を育てていた証明もできて、前よりも暮らしやすくなっただろうに。それを、棒に振ってしまって。」
半ば項垂れるような彼の言うことがよくわからなかった。逃げるなんてあり得るはずもないのに。
「カロスィナトス……?」
「本当は、君だけを何とか逃がしたかった。……私は君の側にいて良いようなものじゃない。私はあの場所で終わりを迎え、君は私のことなど忘れて先へと進むべきだった。そうしようと思った。なのに、」
私に向かって言っているのか、いないのか、どこか独り言や懺悔にも似た色で話す彼は、気を抜けば再びあの庭に戻ってしまうのではないかと不安になるほどだった。
「私は庭で朽ち、君は生きるべきだった。それが一番のはずだったのに、君があんなことを言うから、一瞬、君と生きていきたいと思ってしまった。」
覚悟なんてしていたはずなのに。
俯いている彼は知らない。その言葉がどれほど私を喜ばせているかを。一瞬だけでも、今は後悔しているとしても、私と同じ未来を見てくれたことが幸せだった。私ばかりの一方通行ではなかったと知ることがこれほど満たされることとは。
「怪物のくせに、君といたいと思ってしまった。」
「カロスィナトス、貴方は、」
「身の程知らずにも、君のことを愛してしまった。」
卑下と懺悔の中に滑り込まされた言葉に、寸の間硬直する。それから、頭が言葉を理解して身体の奥が沸騰するように熱くなった。目の前の彼はこれほどまでに苦悩しているのに、それを忘れて叫び出したくなるような心地だった。
「いっそ死んでしまえば諦めもついたのに、君を生かしたいなんて大義名分を得てしまったばっかりに君と一緒に生きたいと願ってしまった。」
「……私は、そう思ってくれて、一緒に生きたいと思ってくれたことが、とてもうれしいです。」
叫び出してしまいそうなそれを胸の内にとどめ、少し震えた声で出た言葉は月並みの言葉だった。もし私が頭が良くて語彙が豊富であったなら、もっと自分の気持ちを相応しく表現できるようになるだろうに。言いたいことも、喜びの十分の一も伝わっていないようなもどかしさがある。
「違う、違うんだ。君が思っているようなきれいなものじゃない、私の思っていることは……。君は知らないだろう。私がどんな思いを抱えて君といたかなんて。」
「……はい、私にはわかりません。私は自分のことでいっぱいいっぱいでした。なので、教えてくれませんか。」
「……いや、君はきっと私のことを軽蔑するだろう。私がどれほど浅ましく、汚らしいか。」
「貴方が本当にそう思っているのなら、貴方も私のことをわかっていないんですよ。」
俯いていた顔に触れると風に塗れて随分と冷たくなっていた。体温が上がりっぱなしの私とは対照的で、それを温めるように顔を上げてもらうと、今まで見たことのない顔を彼はしていた。眉は下がり口元は歪められ、大きく開いた瞳孔が猫のようだと場違いにも思う。
「……こうして、君が私の手の届くところに転がり込んできてしまうと、もう手放したくなくなってしまう。いや、もう手放すこともできない。ずっと、傍に、」
「私もですよ。」
「それだけじゃない。ずっと思っていた。君がずっと傍にいてくれたら、厭う街などには帰らずずっと屋敷にいてくれたなら。君の見る景色、そのすべてが私にも見えたなら。君の鼓膜を揺らすすべての音が私にも聞こえたなら。君の心を動かすもの、そのすべてを私も感じられたなら。」
「じゃあこれからはそのすべてができるようになるんですね。隣にいれば、私の見聞きするものすべてを同じように知り、私が感動するものも貴方と共有できるでしょう。」
「君は優しいからそう言うのだろう。でもそれだけじゃない。できるなら、君をどこかに閉じ込めてしまいたい。君が私としか会わないために、君が私の知らないものを知らないために、君が他の誰かに心を動かさないために。君が他の誰も愛さないために。君を私だけのものにしたいと、私はずっと思っていた。」
懺悔するようにつぶやく彼に、私はしばし逡巡した。今にも消え入りそうなほどの声量のそれは多大な後ろめたさを内包していた。
「罵っていい、軽蔑してくれていい、それでももう君を手放さない。そうさせてしまったのは君なのだから。」
きっとそれはそうされるべきことなのだろう。異常だと忌避され、遠巻きにされること。だからこそ彼はこんなにも悲しそうに苦しそうに、その大きな身体を縮こまらせてこう言っているのだ。
けれど私には、そのどれもがなかった。身の毛が逆立つような感覚はある。しかしそれは決して恐れや厭うものじゃない。純粋に、ひたすら純粋に嬉しかった。そう思ってくれることが、そう思っていてくれたことが。私は異常なのだろうか、何かが壊れてしまっているのだろうか。ああでもそれすらも喜ばしい。たとえ異常だとしても、異様だったとしても、それほどまでに愛してもらえるのに、なぜ罵ることがあるだろうか。軽蔑することがあるだろうか。
「ならどうか知ってください。私を手放せないのと同様に、手を離されては私もまた生きていけないんです。どうか手放さないでいてください。」
逃げないよう、足の折られた籠の鳥は籠の外に憧れて嘆くだろう。けれど最初から足の折れていた鳥ならば、籠から出たいなどとは思わない。
背後から、一際大きく炎が燃え上がる音がした。パチパチと燃える音、木が倒れる音。きっとあのまま何もかも燃えてしまうのだろう。
整備した庭も、春を待っていた球根も消えてしまう。けれどいつか必ず戻ってくるだろう。庭一杯の花を咲かせるために。それはカロスィナトスの覚悟を折ってしまった私の責任だ。
大きくなる炎に黒い屋敷の影が揺らめく。ふと、北風が吹いた。何もかもを遥か遠くまで吹き飛ばしてしまうような突風。身体が大きく煽られ、思わず目を瞑った。突風はしばらく続いて、収まらなかった。一陣の風が吹いた後は、緩やかに北風が吹き続けていた。
「……これ以上風が酷くなる前に進もう。いいね?」
「……はい、行きましょう。」
北に行けば行くほど、静かな森が広がっていた。何も聞こえない、静かな夜だった。
背後から響く、蹂躙する炎の音も、突如として広がっていく人の悲鳴も、聞こえないふりをした。
私もカロスィナトスも何も言わなかった。けれど二人とも分かっていた。
グラオザームにもたらされた予言。それが今夜のことなのだ。
『北の大地に花が咲き乱れなければ、この街は災厄の炎に襲われるでしょう。』
彼らは北の大地に花が咲く機会を奪い炎により蹂躙しようとした。それこそが災厄の炎の原因とは知らないまま。
災厄の炎がどこまで燃やし尽くすのか、私は知らない。北風は吹き続けている。どこまで炎は行くだろう。あの背の高い樹でできた森も燃やしてしまうのだろうか。美しい色とりどりの街を見下ろせる森の入り口も燃えてしまうのだろうか。それともその先まで、何もかもを灰に変えてしまうのだろうか。
しかし今となってはそれもどうでもいい話だ。
あの街で何が起きようと、誰がどうなろうと、思い出がどうなろうと、それは私がすでに捨て去ったものだ。
捨ててきたもの。どうなろうと私の与り知れないところだ。私は私の生きたい未来を生きるのだから。
一人、私に良くしてくれた友人を思い出した。
綺麗な子だった。恐ろしいほどに無知であったが、それゆえの美しさも天真爛漫さもあった。誰からも愛されるような子だった。
「ああ……、」
彼女の名前は何だっけ。
友人の名は、静かな森の中に消えていき、二度と姿を見せることはなかった。
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窓の外に見慣れたコートが見えて、縫い合わせていたキルトを放る。
「おかえりなさい!」
「ただいま、パッペル。」
飛びつくと危なげなく受け止められる。服には甘い匂いが付いている。今日は甘いパンを作っていたようだと一人思う。
ネーヴェに来て数年、当初の不安などものともせず、私たちは至って普通に暮らしていた。相変わらずカロスィナトスは怪物のままだったけれど、口を隠すマスクをしていても、角を隠す帽子をかぶっていても人から怖がられることもない。ネーヴェは一年中寒く、厚着をしていてカロスィナトスと変わらないような恰好をしている人はたくさんいて、彼が異形の姿をしていることはほとんど知られていない。今彼は人に混じってパン屋で働いている。彼が人の姿をしていないことはオーナーは知っているけれどただ笑うだけで恐れることもなかった。私はグラオザームにいたときと同じように針仕事をしているけれど、キルトが名産のネーヴェではあちらよりも仕事が多くて助かっている。
毎日が楽しかった。街の人たちは優しいし、仕事もあってひもじい思いすることもない。最初は慣れない寒さに堪えたけれど、それ以上に心が暖かかった。
一緒に暮らしてくれる人がいる。朝おはようの言える相手がいる。夜おやすみと言える相手がいる。それがこんなにも幸せなことだということを、数年前の私は知らなかった。
なるほどすべてを代償に歩き出した未来は、彼の言った通り素晴らしいものだった。
夕食の準備をしていて、ふとフードやマスクをとって寛ぐカロスィナトスを見て硬直する。
「え……え?」
「パッペル、どうかしたかい?」
「カロスィ、ナトス?……角、」
「角?それがいったい、」
ひょいと角を触ろうとした白い肌の手が空をかく。疑問符を浮かべて何度か触ろうとするが、白い手は頭の上で何に触れるでもなく往復していた。
「え、え、ない?」
「ないです!手も黒くないです!え!?」
慌てて駆け寄って口の中を覗きこむ。大人しくされるがままにされるカロスィナトスの口には一般的な歯が並ぶだけで、大きかった犬歯も普通の大きさになっていた。
朝はいつものカロスィナトスだったのに、と唖然とする。しかし一番驚いているのはその姿と長年付き合ってきた彼だろう。
「なぜ、なぜいきなり……、何で治ったんだ、この街には花なんてほとんどないはず……、」
すっかり普通の人間に戻り混乱するカロスィナトスを見る。ふと金色の眼と変わらない身長に気づく。どうもそれらは元からだったらしい。改めてまじまじとカロスィナトスを見るけれど、あまり変わらないと心の中で呟いた。きっと彼からすれば大きな変化なのだろうが、私にとってはあまり変化がない。
たとえ姿が変わっても、彼は彼だ。黒かった手は白い肌になった。けれど私を撫でる大きな暖かい手であることは変わらない。牙の覗いていた口元からは普通の歯が見える。けれど私を呼ぶ声の優しさは変わらない。生えていた角がなくなっても、何も変わりはしない。
「……今ってもしかして、春ですか。」
「……そういえば最近少し雪が薄くなってきたような。」
ネーヴェの春はまだまだ遠い。
けれどグラオザームの端のあの屋敷は今、
「あちらは、もう春なのか……?」
愕然とした様子の彼を横目に落ち着きを取り戻した私は夕食の準備に戻る。彼が落ち着いたら、一度あの場所へ戻ることを提案しよう。こちらでの生活にも慣れてきた、数日仕事を休んでも問題ないだろう。
今あの庭はどうなっているだろうか。
あの庭から、私は再び生き返ったんだ。死んだように生きていた。もう死んでも仕方がないと思いながらあの庭を訪れた。そして、彼と出会った。恐ろしい怪物だと、恐れた。慄いた。しかしそれは私にとって最大の、そして最上の転機だった。
ああ、あの庭には今、春が訪れている。
読了ありがとうございました!
突っ込みどころが多く、色々出せなかった点もあったのですが、これにて完結にさせていただきます。
お付き合いいただきありがとうございました。