こぼれた麦
夜明け前の村の上空で、リンは縄を解いた。
麦袋の口が、つぎつぎに開く。白い粒が夜気に散って、村へ降りそそぐ。事故を装うまでもなかった。畑に、屋根に、井戸端に、村じゅうに、麦が、雪みたいに落ちていく。
下で、人々が空を見上げ、声を上げるのが見えた。子どもが両手を広げて駆け回る。あの、納屋の陰にいた女の子も、いた。
「……ざまあみろ」リンは笑った。柄じゃない。けど、悪くない気分だった。
その、油断した一瞬を、狙われた。
闇から、銛が飛ぶ。一本が、ヴェルの右の翼膜を深く貫いた。竜が、絶叫する。今度は、かわせなかった。鉤縄がいくつも飛んで、翼を、脚を、地へ縫い止める。均衡を失った巨体が、棚田へ墜ちた。リンは振り落とされ、畦の石に、肩から叩きつけられる。
息ができない。肩が、燃えるように痛む。たぶん、外れた。
立とうとして、膝が崩れた。視界の端で、ヴェルが、翼を縫い止められたまま、もがいている。飛べない。いちばん守りたかったものが、地に這わされている。
ぐるりと、影が囲んだ。竜狩りの一味。商会の用心棒。撒いたばかりの麦を、連中がまた袋へ掻き集めていく。
ガレスが、ゆっくり歩み寄り、リンの喉元に鉤の切っ先を当てた。
「言ったろ。次はこうはいかねえ、って」その声に、笑いはなかった。「……なんで、こんな馬鹿をやる。お前ひとりが正義ぶったって、世界は、爪の先も変わりゃしねえんだぞ」
リンは、答えられなかった。肩は動かない。ヴェルは墜ちたまま。麦は、奪い返されていく。守りたかったものが、ぜんぶ、指の間をこぼれ落ちていく。
――もう、終わりだ。
奥歯を噛む。今夜ばかりは、飲み込むものさえ、見つからなかった。
そのときだった。
「竜乗りの姉ちゃんから、手ぇ離せっ!!」
声は、村のほうから来た。ひとつじゃない。鍬を、鎌を、松明を握った村人たちが、土手を駆け下りてくる。痩せて、震えて、竜を恐れていたはずの人々が。先頭では、あの老農夫が、孫娘を背にかばいながら、怒鳴っていた。
竜狩りどもの足が、止まる。その、ほんの一拍。
リンは、動かない右腕を地面に叩きつけ、無理やり関節を嵌めた。激痛で、目の前が白む。構うものか。ころげるようにヴェルへ這い寄り、翼を縫い止めた縄を、短刀で断つ。一本、二本――
「ヴェル、片翼でいい。やれるね」
竜が、応えた。残った左の翼を、地に叩きつける。突風。砂と麦と小石が礫になって、混乱した男たちを薙いだ。村人が、なだれ込む。数で勝てないはずの戦が、ひっくり返る音がした。きれいじゃない。泥だらけで、血だらけで、誰の手柄でもない。それでも――
「引けっ! 割に合わねえ!」
ガレスが吐き捨てた。影たちが、潮の引くように散っていく。最後に一度だけ、ガレスはリンを振り返った。何か言いたげに。けれど結局、何も言わず、ただ、あの古い歌を口ずさみながら、闇に消えた。
夜が、縁から白む。
村の竈に、火が灯りはじめた。撒かれた麦で、久しぶりに、たくさんの腹が満たされる。湯気と、子どもの笑い声。リンは、傷だらけのヴェルの首にもたれて、それを、ただ見ていた。
老農夫が、孫娘を連れて、近づいてくる。女の子が、おそるおそる、リンの泥だらけの手に、握り飯をひとつ、のせた。引っ込めない。竜乗りの手に、まっすぐ。
「……ありがとう、姉ちゃん」
リンは、笑おうとして、なぜだか、うまくいかなかった。
海辺で待ちぼうけを食った商会は、けっきょく荷を取り損ねた。使いの男は、去り際にこう言い残したという。
「英雄気取りの泥棒め。だが安心しろ。お前みたいな跳ねっ返りも、じきに国が片付ける。軍が、竜乗りを集めてるそうだぞ」
徴用の太鼓が、また一打、近づく。
それでもリンは、傷ついたヴェルの翼に、そっと頬を寄せた。今夜は、勝った。負けるはずの戦に、勝った。ひとりじゃ、なかったから。
帰ったら、ノエルにこっぴどく叱られる。それも――まあ、悪くない。




