第一話 笑顔が見たいだけ
【登場人物】
☆テオドール・フォン・ヴァルデマール
☆シャルロット・フォンテーヌ
それは、僕がまだ『公爵令息』という重たい肩書きの意味を、半分も理解していなかった幼い日のことだ。
ヴァルデマール公爵家の広大な屋敷に、傘下の貴族であるフォンテーヌ男爵一家が挨拶に訪れた。男爵家は、公爵領内において極上の絹やレースを生産し、本家である公爵家に献上する役割を担っている。今日は、その年の生産報告と献上品の披露のため一家揃って足を運んできたのだ。
大人たちが交わす退屈な数字や社交辞令に挟まれ、僕はただ大人しく、行儀よくソファーに座っていた。公爵家の跡取りとして「完璧に振る舞わなければ」という緊張感だけで、幼い身体はひどく強張っていた。
「テオドール様にご挨拶を、シャルロット」
男爵に促され、僕の前に一人の少女が進み出た。
――まるで、絵本から抜け出してきた妖精のようだった。ふんわりと巻かれた桃色のツインテールが揺れ、透き通るような水色の瞳が僕を捉える。極上のシルクとレースで仕立てられたドレスを着た彼女は、息を呑むほど愛らしかった。
僕が身を硬くしていると、彼女は突然、ぱぁっと花が咲いたような笑顔を見せた。そして、あろうことか公爵令息である僕との距離を詰めるなり、その小さな両手で僕の手をぎゅっと握りしめたのだ。
「あなた、すてきね! とってもかわいらしいわ!」
鼓膜を揺らす、鈴を転がしたような甘い声。僕は目を丸くした。公爵家の人間に対して『可愛らしい』などと評価を下す者など、これまで一人もいなかったからだ。皆一様に「立派だ」「凛々しい」とお世辞を並べるばかりだったのに。
「シャルロット!公爵令息殿下になんて無礼な!」
青ざめた男爵が慌てて彼女を引き剥がそうとした、その時だった。
「ふふ……。まあ、よいではありませんか、フォンテーヌ男爵」
客間に響いたのは、僕の母――公爵夫人の優雅な笑い声だった。母は装飾の施された扇で口元を隠し、目を細めて僕たちを微笑ましそうに見つめている。
「奥様、しかし……!」
「お気になさらないで。ほら、見てごらんなさいな。あの子が……テオが、あのように愛らしく頬を染めるなど、私も初めて目にいたしましたわ」
母の言葉に、僕は自分が耳まで真っ赤になっていることに気がついて、さらに肩をすくませた。
「まだ可愛らしいこども同士。大人の堅苦しい理屈で縛るには、あまりに惜しい愛らしさですわ。今日はどうか、あの子たちの気の向くまま、好きにさせてあげてはくれませんこと?」
公爵夫人からの鶴の一声に、男爵もそれ以上は何も言えず、深く頭を下げるしかなかった。
「だってお父様、本当のことですもの!まるで天使のお人形みたいで、私、とっても好きよ!」
大人たちのやり取りなど気にも留めず、水色の瞳をきらきらと輝かせて僕を見つめる彼女。その圧倒的な光に当てられて、僕は呼吸の仕方すら忘れそうになった。
――可愛らしいのは、君の方じゃないか。
自分の手を握る彼女のぬくもり。悪意など微塵もない、純度百パーセントの好意と無邪気な笑顔。僕の胸の奥で、トクン、とこれまで感じたことのない大きな音が鳴った。心臓がうるさいほどに高鳴っている。彼女の『お人形みたい』という無邪気な言葉が、後々僕を縛る甘い呪いになるとも知らずに。ただその時の僕は、至近距離で笑う彼女の愛らしさに、どうしようもなく惹きつけられてしまっていたのだ。
フォンテーヌ男爵一家を乗せた馬車が、公爵邸の門を抜けて見えなくなるまで、僕は窓に張り付いてその背中を見送っていた。僕の手を握った彼女の小さな手の感触。鼓膜にこびりついて離れない、鈴を転がしたような甘い声。
――あなた、すてきね! とってもかわいらしいわ!
その言葉を反芻するだけで、胸の奥が熱くなり、どうにかなってしまいそうだった。
馬車が完全に見えなくなると、僕は振り返り、両親のいる執務室へと真っ直ぐに向かった。普段なら絶対にしないような荒々しい作法でノックをし、返事を待たずに扉を開ける。
「お父様、お母様」
「なんだ、テオドール。ひどく慌てた様子だが、どうしたのだ」
書類から顔を上げた父――ヴァルデマール公爵が、眉をひそめて僕を見た。僕は公爵家の跡取りとして厳しく叩き込まれた礼儀作法も、完璧な令息としての仮面もすべてかなぐり捨てて、両親の前に膝をついた。
「シャルロットを……フォンテーヌ男爵家のシャルロット嬢を、僕の婚約者にしてください」
静かな室内で、僕の声はひどく切実に響いた。一瞬の空白の後、父は呆れたように大きなため息を吐いた。
「馬鹿なことを言うな。あそこは我が領地で絹を納めているだけの、しがない男爵家だ。公爵家を継ぐお前の正妻にするには、あまりにも身分が違いすぎる。ただの遊び相手ならともかく、婚約など……」
「遊び相手では嫌です!!」
僕は自分でも驚くような大声で、父の言葉を遮った。
遊び相手?そんなの絶対に嫌だ。いつか彼女が別の男の妻になり、僕の前からいなくなってしまうなんて、想像しただけで息が止まりそうになる。彼女は僕のものだ。僕を『可愛い』と認めてくれた、僕だけのお姫様でなければならない。
「彼女でなければ嫌です。彼女じゃないなら、僕は一生誰とも結婚しません。公爵家だって継ぎません……!」
「テオドール!己の立場を弁えなさい!」
父の怒声が響く。それでも、僕は絶対に引かなかった。父を睨み返す僕の瞳には、狂気にも似た熱が宿っていたのだろう。父が一瞬、気圧されたように言葉を失った、その時だった。
「ふふっ……うふふふ」
扇で口元を隠した母――公爵夫人が、堪えきれない様子で笑い声を上げた。
「お母様……」
「本当に、あの子の言う通りね。いつも大人びて冷めているテオドールが、こんなにも我儘を言って熱くなるなんて」
母は楽しそうに目を細め、不満げな父の方へと向き直った。
「あなた、よいではありませんか。テオドールの望み通り、男爵家の娘と婚約させてあげては?」
「なっ、何を言うか!公爵家の威信に関わるぞ!」
「威信?むしろ好都合ですわ。身分の高い有力貴族の娘を迎えて、外戚に口出しされるよりも、完全に我が家の傘下にある男爵家の娘の方が、ずっと扱いやすいでしょう?」
母の言葉に、父は渋い顔をしたまま沈黙した。
「それに、あの娘はとても愛らしかった。テオドールが欲しがるのも頷けます。……初めてあの子が『欲しい』と強請った玩具ですもの。少しくらい、甘やかしてあげてもよろしくてよ?」
「……玩具、か。しかし……」
「フォンテーヌ男爵には、私から上手く話をつけておきますわ。公爵家からの申し出、断るはずがありませんもの」
母の優雅で絶対的な決定打により、父もそれ以上反対することはできなかった。
「……勝手にしろ」
「ありがとうございます、お父様、お母様!」
父が渋々頷いた瞬間、僕は立ち上がり、深く頭を下げた。顔を伏せた僕の唇は、歓喜で歪んでいた。
これでいい。これで彼女は、正式に僕の婚約者になる。誰にも文句は言わせない。公爵家という強大な力を使えば、彼女を一生僕の隣に縛り付けておくことができるのだ。
――シャルロット。君はもう、僕のものだ。
幼い僕の胸の内に、黒くねっとりとした執着の種が、確かに根を下ろした瞬間だった。
初めての出会いから数日後。
再び公爵邸を訪れた彼女は、使用人に抱えきれないほどの大きな荷物を持たせていた。
「貴方のこと、テオと呼んでもいいかしら? 私のことはシャルと呼んでちょうだい」
花がほころぶような笑顔でそう言われ、僕は頬を染めながら頷いた。
「う、うん……シャル」
試しに愛称で呼んでみる。呼ぶだけで、胸が満たされるような心地がした。そんな僕を見て、シャルは愛らしい笑顔を見せてくれた。
「ふふっ、今日はテオと遊ぼうと思って、たくさん用意したの!」
きらきらと星を散らしたような瞳で、シャルは使用人に荷物を開けさせた。箱の中から現れたのは、色とりどりの美しいドレスと、輝くアクセサリーの数々だった。
ま、まさかシャル……僕の前で、いろんな君を見せてくれるの……!?
てっきり着せ替えごっこの観客にされるのだと思い、僕はゴクリと息を飲んだ。ただでさえ可愛い彼女が、あんなにたくさんのドレスを着るなんて。想像しただけで心臓が破裂しそうだった。
しかし、現実は甘くなかった。現実は、僕の期待とは全く違う方向へ転がった。
「さ、テオ。これに着替えてちょうだい」
「……え?」
「可愛いテオなら、絶対に似合うと思うの♡」
シャルは僕の胸に、ふんわりとした水色のドレスを押し付けた。
男の僕が、ドレスを?い、いや、嫌だ。いくらなんでも恥ずかしすぎる。公爵令息としてあるまじき行為だ。
しかし、断ろうとして顔を上げると、そこには僕を見つめるシャルの姿があった。わくわくと期待に満ちた水色の瞳。今にも僕の着替えを待ちきれないとばかりに、頬をほんのりと紅潮させている。その顔を見てしまったら――断れるはずが、なかった。
「……う、うん」
「やったあ! 着替えたら声をかけてちょうだいね。私が仕上げをするわ!」
嬉しそうに弾んだ声を出して、シャルは部屋を出て行った。一人残された僕は、腕の中にあるドレスを見下ろした。柔らかな布地から、微かに甘い香りがする。
……こ、これ。シャルが、着たんだよね……?
ドレスに隠された肌はとても白く陶器のようになめらかで美しいのだろう。露になる華奢な身体。彼女はドレスの袖に腕を通す。彼女がこのドレスに袖を通す姿を詳細に想像してしまい、バクバクと心臓が跳ねた。先程まで青ざめていた顔が、みるみるうちに熱を持ち、赤く染まっていくのが自分でもわかる。
僕は震える手で服を脱ぎ、恐る恐るドレスに袖を通した。同い年とはいえ、シャルよりも少し小さく華奢な僕の体には、胸元や肩のあたりが少しだけ大きかった。
コンコン、と軽快なノックの音が響く。
「テオ? お着替えできたかしら?」
「う、うん……」
扉が開き、部屋に入ってきたシャルは、僕の姿を見るなり口元に両手を当てて立ち尽くした。
「ご、ごめん。やっぱり似合ってない、よね……男なのに、こんな……」
「似合ってるわ!!」
シャルは勢いよく僕の手を取り、部屋の隅にある大きな姿見の前へと引っ張っていった。鏡の中に映っていたのは、僕の知らない光景だった。美しく可愛らしい彼女の隣には、彼女のお下がりのドレスを着て、顔を真っ赤にさせている僕がいる。
僕は、男の子なのに。次期公爵、なのに。
けれど。
隣にいる嬉しそうな彼女。僕の体を包み込む、彼女のドレスの柔らかな感触。彼女と同じ、甘いお菓子の匂い。そして何より、「可愛いわ、世界で一番可愛いお人形よ!」と、彼女が僕に惜しまず与えてくれる賞賛の声。
恥ずかしさよりも、喜びが勝っていく。僕の頭は彼女の存在だけで満たされていき、まるで彼女と一つになれたような、甘く倒錯的な錯覚を覚えた。これなら、悪くないかもしれない。君がこんなにも笑ってくれるのなら。
「ねえ、テオ。私と会う時は、ドレスを着ましょうね」
「……えっ!?」
「心配いらないわ。私が毎回、テオに似合うドレスを持ってきてあげる!」
無邪気な宣告。それは、公爵令息としての誇りを捨て、『彼女だけの可愛いお人形』へと身を堕とす、決定的な契約の言葉だった。
僕は震える口元を無理やり釣り上げて笑った。
「う、うん。……君に会えるのが楽しみ、だよ」
顔は火が出るほど熱くて、心臓は早鐘のように打っていたけれど、シャルが満面の笑みで僕を抱きしめてくれた瞬間、そんな戸惑いはすべて吹き飛んだ。こうして、僕たちの秘密の関係が始まった。
シャルが公爵邸を訪れる日。僕は決まって、仕立ての良い、暗い色合いの礼服を着て彼女を待った。公爵家の跡取りとして相応しい、隙のない装い。しかし、僕にとってこの服はただの窮屈な殻でしかなかった。この姿のままでは、彼女の特別な興味を惹くことはできないと知っていたからだ。
「テオ、お待たせ!」
弾むような声と共に客間の扉が開くと、そこには美しい妖精のようなシャルと、色とりどりのドレスや小箱を抱えた使用人たちがいる。彼女が来るたび、僕の部屋はまるで彼女の衣装部屋のように華やかに彩られた。
「今日はね、春らしい薄紅色のドレスを持ってきたの。絶対にテオに似合うわ」
「ありがとう、シャル」
使用人たちを下がらせ、二人きりになると、甘美な儀式の始まりだ。僕は自らの手で礼服のボタンを外し、公爵令息としての重たい殻を脱ぎ捨てる。そして、シャルが用意してくれた薄紅色のシルクのドレスに袖を通す。
「ふふ、やっぱり素敵!テオ、仕上げをしてあげる。少し前を向いてちょうだい」
シャルは僕の背中に回り、コルセットの紐をきゅっと結び上げる。少しだけ息が詰まるけれど、彼女の手が僕の体に触れているこの瞬間がたまらなく好きだった。
ドレスを着終えると、次は鏡台の前に座らされる。シャルは僕の背後に立ち、彼女のために切らずに伸ばしている長い黒髪を、愛おしそうに銀の櫛で梳いてくれる。
「テオの髪、本当に綺麗。つやつやで、私の髪よりもずっと滑らかだわ」
「……君が、好きだって言ってくれたから」
「ええ、大好きよ。だから今日は、このリボンを編み込んであげる」
シャルの細い指先が僕の髪を編み上げ、器用に形を作っていく。頬に紅を差し、薄く口紅を塗られる。男である僕が化粧を施されることへの背徳感と、彼女の瞳が僕の『可愛さ』だけを真っ直ぐに捉えてくれているという圧倒的な優越感。
「――完成よ! 見て、テオ」
鏡の中にいるのは、ヴァルデマール公爵家のテオドールではない。ふんわりとしたドレスを纏い、髪にリボンを結び、ほんのりと頬を染めた『シャルロットだけの可愛いお人形』だ。
「可愛い……!世界で一番可愛いわ、私のお人形さん!」
シャルは後ろから僕の首に抱きつき、鏡越しに満面の笑みを向けた。彼女の甘いお菓子の匂いが僕を包み込む。ドレスの窮屈さも、本来の自分を偽っている罪悪感も、彼女のこの笑顔一つですべてが吹き飛んだ。
僕は、君の隣で立派な公爵令息として振る舞うことなんて望まない。
ずっと、このまま。僕はずっと君の可愛くて従順なお人形で、君はずっと僕だけのお姫様。僕から公爵という身分を剥ぎ取って、可愛い服を着せて、君の世界に閉じ込めておいてほしい。
そんな幸せな蜜月が、永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
――けれど、人間の肉体というものは、僕のささやかな願いなど意に介さないほど残酷にできていた。
僕の体に、『男』としての成長期が訪れたのだ。
最初は、ほんの少し背が伸びたくらいの微細な変化だった。シャルは「まあ、ドレスの丈が合わなくなっちゃうわね」と笑って、すぐに新しいものを仕立ててくれた。その時はまだ、彼女の瞳には僕への愛情と着せ替えへの熱が宿っていた。
しかし、成長はそこで止まってはくれなかった。次期公爵としての義務である剣術や馬術の厳しい鍛錬は、僕の体を容赦なく『大人の男』へと作り変えていった。
丸みのあった華奢な肩は次第に骨張り、がっしりと幅を広げた。細く折れそうだった腕や脚には、硬く引き締まった筋肉がつき始めた。そして何より僕を絶望させたのは、声変わりと喉仏の隆起だった。低く掠れ始めた声は、もう以前のように愛らしくシャルの名前を呼ぶことはできない。レースのチョーカーで首元を飾っても、ひどく不格好に浮いてしまうようになった。
ある日、シャルが持ってきたのは、淡い水色のふんわりとしたパフスリーブのドレスだった。いつものように礼服を脱ぎ、袖を通そうとした時――ビリッ、と嫌な音が鳴った。僕の広くなった肩幅と分厚くなった胸板がつっかえて、背中のファスナーがどうしても上がらないのだ。
「……テオ、なんだかこのドレス、胸のあたりが窮屈そうね」
背後に立つシャルが、少しだけ眉をひそめて言った。ほんのわずかな困惑。そして、明らかな落胆の響き。鏡越しに彼女の顔を見た僕は、心臓を氷の刃で刺されたような恐怖を覚えた。昔のように、無邪気に「可愛い」と歓声を上げてくれる彼女はそこにはいなかった。
「ご、ごめん……っ、大丈夫だよ! 息を吸い込めば、まだ入るから……!」
僕は必死に取り繕い、震える手でコルセットの紐を掴んだ。
「テオ、無理しないで……」
戸惑うシャルの声を遮るように、肋骨がへし折れるかと思うほどの強い力で、ギリギリと紐をきつく締め上げる。息が詰まり、激しい痛みが胸を走った。けれど、そんな肉体的な苦痛などどうでもよかった。ここで「ドレスが着られない」と認めてしまえば、シャルの興味を失う。僕が僕であるための、唯一の価値が消滅してしまう。その恐怖に比べれば、肋骨の軋みなど甘いものだった。
「ほら、見て! 着られたよ、シャル。似合う……かな?」
無理やり笑顔を作り、息も絶え絶えに振り返る。しかし、シャルの反応はひどく鈍かった。
「え、ええ……そうね。テオは背が高いから、少し雰囲気が変わってしまったけれど……」
言い淀む彼女の視線を追いかけ、僕は再び鏡を見た。そこに映っていたのは、『可愛いお人形』などではなかった。ゴツゴツとした骨格。ドレスの繊細なレースを破らんばかりに張った肩回りの筋肉。首元に浮き出る喉仏。それは、少女のフリルドレスを無理やり着せられた、ただの滑稽な大柄な男の姿だった。
違う。こんなはずじゃない。僕の体は、どうして……!
いくら伸ばした美しい黒髪も、綺麗に引いた口紅も、この逞しい肉体の前ではひどく不気味なものに成り果てていた。僕から『可愛い』を引いたら、シャルにとっての価値なんて何もないのに。どうして僕は、男になんて成長してしまったんだ。
その日を境に、シャルの公爵邸への訪問回数は目に見えて減っていった。
『今日は風邪気味だから』
『お茶会があるから』
美しい便箋に綴られた丁寧な言い訳を受け取るたび、僕の心は真っ黒な焦燥感で塗り潰されていった。
僕の体が大きくなるのに比例して、彼女との距離が開いていく。
会いたい。シャルに会いたい。もう一度、あの無邪気な瞳で、僕を可愛いと褒めてほしい。
焦燥感に駆られた僕は、ある日、王都で最も評判の良い高級仕立て屋へと一人で足を運んだ。僕の体でも着られるような、もっと大きくて、それでいてシャルの気を引けるような可愛いドレスを仕立ててもらえば、また彼女が振り向いてくれるかもしれないと考えたのだ。
店の扉を開けると、色とりどりの美しいドレスが所狭しと並んでいた。仕立ての良い礼服を着た公爵令息が一人で訪れたことに、女性の店員は少し驚いたようだったが、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて近づいてきた。
「いらっしゃいませ、ヴァルデマール公爵令息様。本日はどのようなご用命でしょうか? ……もしかして、ご婚約者様への贈り物をお探しでいらっしゃいますか?」
店員の言葉に、僕は一瞬言葉に詰まった。自分が着るためだなんて、とても言えるはずがない。僕は戸惑いを隠すように視線を彷徨わせ、小さく頷いた。
「え、ええ。……その、お人形のように、可愛らしいドレスはありますか?」
「お人形のように可愛らしいドレス、でございますね! かしこまりました。そちらでしたら、こちらのドレスなどいかがでしょうか」
店員が自信満々に案内してくれたのは、店の奥に飾られていた純白のドレスだった。最高級のシルクがふんだんに使われ、胸元や裾には繊細なレースとフリルが幾重にもあしらわれている。背中には大きなリボンが結ばれ、まるで夢物語に出てくるお姫様のような、まさに『完璧に可愛い』ドレスだった。
……ああ。やっぱり、今の僕には似合わない。
その純白のドレスを見た瞬間、突きつけられた現実に胸が締め付けられた。こんなに可憐なドレスを、骨張った大男の僕が着たところで、滑稽なだけだ。シャルが望むような『可愛いお人形』には、もう二度と戻れない。
似合うのは……僕じゃない。
――似合うのは、シャルの方だ。
ふと、思考が立ち止まる。この純白のドレスを、桃色のツインテールをしたシャルロットが着たら、どれほど可愛いだろうか。透き通る水色の瞳を輝かせて、このドレスの裾をひるがえして笑う彼女の姿を想像した途端、絶望で冷え切っていたはずの心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
そうだ。僕は、シャルの婚約者なんだ。彼女を愛している。世界中の誰よりも。
僕の体に合わないのなら、僕の分まで彼女が可愛く着飾ってくれればいい。僕が彼女に、世界で一番可愛いドレスを贈ればいいんだ。
「……いかがなさいましたか?」
「これをもらおう。いや、これだけじゃない」
僕は弾かれたように顔を上げ、店内に飾られているドレスを見渡した。
あれも、シャルに似合う。こっちの薄紅色のドレスも、彼女の髪色にぴったりだ。あのリボンも、あの靴も、すべて彼女に身につけてほしい。
「あそこにある水色のドレスも、あのレースのものも。……いや、彼女に似合いそうなものを、片っ端から包んでくれ。一番上等な箱に入れて」
「えっ……?か、片っ端から、でございますか!?」
目を白黒させる店員に、僕は迷いなく金貨の入った袋を手渡した。自分のドレスを選ぶはずだったのに、気がつけばシャルのためのドレスや装飾品を山のように買い込んでいた。
このプレゼントと一緒に、シャルに会いに行こう。
美しいリボンがかけられたいくつもの箱を見つめながら、僕は久しぶりに晴れやかな気持ちになっていた。
僕が選んだドレスをシャルは着てくれるだろうか。いや、これを見たら、彼女はきっと喜んでくれる。そうしたらもう一度、僕を見て、あの無邪気な笑顔で僕の名前を呼んでくれるはずだ。僕はただ純粋に、彼女の笑顔が見たかっただけなのだ。
僕は期待を胸に、大量のドレスを馬車に乗せフォンテーヌ男爵家の敷地へ向かった。
つづく
大好きな女の子のために、嫌で仕方がない女装をするも、呆気なく捨てられる男の子……めちゃくちゃいいなと。
幼少期は可憐で可愛かった少年が、ガチムチ青年に成長するのは残酷でもあり尊いとも思います。
権力や力で好きな女を囲い込むヤンデレ男子がだ~~~い好きです!!!!!
次回、愛しの婚約者に会いに行きます。題名にある通り、捨てられてしまいます。
絶望と執着の果てに何を思うのか……次回をお楽しみに!




