第65話 小川新左衛門と石川五右衛門
雨が降り出した。小降りの雨が古寺の剥げかけた屋根を叩き、湿った不快な音を一定での間隔で鳴らし続ける。
しかし古寺の本堂の奥、煤けた本尊の足元で集まっている男達は鳴り響く不快な音で心を動かした様子は微塵も無い。
いや、その男達はそもそも快不快を感じるという人間的な感覚が既に無いのかも知れない。
幼少期から独特な鍛錬を積み、判断と行動を乱す五感の感覚を完全に絶ち切っているのではないか。
そう思わせる程、その男達の顔貌、肌の質感は非人間的であり、冷血動物じみていた。
「織田の信長の本隊は五万。総大将は以前と同じあのうつけの三介であるが、その配下には滝川左近、丹羽五郎左衛門に蒲生忠三郎他名うての戦揃い。その者共が伊賀を包囲していると」
「……」
「これでは前回のようにはいくまい。これで伊賀も終わりだな」
男達の中の頭領らしき男が言った。だがその声色にも表情にも絶望や悲憤、無念といった人間的な感情は浮かばなかった。
ただ確定した未来、現実を些事のように受け入れているようであった。
それは配下の男達も同様である。彼ら伊賀のシノビ達はサムライ以上に現実的であり、定まった運命を抗わず受け入れる宿命論者なのかも知れない。
「さて、それでは我らがこれから成すべき事は何でござろう、丹波殿?」
「ふむ。そうであるな」
伊賀忍者の頭目である百地丹波は首を傾げながら沈思していたが、それもほんの数瞬に過ぎなかった。
「まずは伊賀の秘伝の術を残すべく、上忍の幾人かは落ち延びてもらおう。そして無論……」
その時、いかなる感情も感覚も有していない冷血動物じみていた丹波の眼に、瞋恚の炎が揺らめいた。
「一人でも多く、織田の者共を道連れにすることであろうよ」
丹波の言葉と瞋恚の炎を受け、配下の上忍にも人間的な感情が浮かび上がった。
「そうこなくてはな」
「ふむ。特に天下布武などと世迷言をぬかす大うつけの倅には、残りの人生我ら伊賀忍者の悪夢を見ながら過ごすようにしてやらねばな」
これまで影の世界に生きるべく宿命を持って生まれた伊賀の忍たちは、己の願望、欲望を完全に断って生きて来たと言って良い。
だが己の死と滅亡を受け入れることによって、初めて願望を持つことが許された。
それは一人でも多くの敵と刺し違えて地獄に落ちるという人間として救いようがない極めて陰惨で無残なものであったが、それでも彼らはこの時初めて人間としての生命の輝きを放つことが出来たのであった。
「私は出来れば、雑兵と刺し違えて終わりたくない。大将を討ち取ることが望みだ」
古寺に集まった上忍の中でも一際若い、二十代半ばの男がぼそりと言った。
「ほう。信長を仕留め損なった師の代わりに、信長の息子でも仕留めようと言うか、小川新左衛門よ」
小川新左衛門と呼ばれたシノビは首を振った。
「いや、信長を狙撃して失敗し、鋸挽きにされた師の杉谷善住坊の無念を晴らすという殊勝な心意気など拙者には無い。それに三介は本物のうつけよ。若い頃はやはりうつけと呼ばれながら恐るべき大将となった父親とは違ってな。あのような男相手と刺し違えるなど真っ平ごめんでござるわ。やはり滝川左近か、丹羽五郎左衛門ぐらいでないとな」
「ほう、大きく出たな。だが師の杉谷善住坊を超える種子島の腕前を持つお前なら可能かもな」
小川新左衛門の隣に座していた六尺を超える大男のシノビが言った。
「そう言えば、安土城近辺を探っていた時に耳したことがある。蒲生忠三郎の配下に赤い髪の南蛮人の武士がいるらしい。その男が大した種子島の使い手だとか。その男も此度の侵攻に加わっておるやもな」
「どうでもいいな。所詮は見世物程度の扱いを受けている雑兵であろう」
小川新左衛門は全く心動かした様子はなく、素っ気無く言った。
「だが蒲生忠三郎なら得物として興味がある。まだ若いが、大した将器の持ち主だとか。信長の娘婿でもあることを考慮すると、滝川や丹羽にも匹敵する価値があろう」
「そうか。お前はその三人の内誰かを狙え。俺はやはりうつけとは言え総大将の三介めを狙うかな」
「いや、お前の役割は伊賀に残り織田と戦うことではない。落ち延びて伊賀の秘伝を伝えることである、石川五右衛門よ」
「何と!」
丹波の命令に石川五右衛門と呼ばれた大男のシノビは不満の色を見せた。
「この五右衛門に戦いもせず逃げよと仰せになるか!弟子を取って秘伝を伝えるなど俺の性に合わぬ。戦わせてくれい!」
「いや、お前の隠形の術は伊賀の歴史始まって以来、天下無双のものよ。三介の手勢如きが相手の戦で朽ちさせるのは余りに惜しい。お前にはもっと大きな仕事をしてもらわねばな」
「もっと大きな仕事?つまり信長の首を狙えと?」
「いかにも」
百地丹波は静かに言った。その声と表情にこれまで以上の神秘的なまでの威厳を感じ、小川新左衛門と石川五右衛門、その他の上忍達も威儀を正した。
「信長は天下一統を達成することは叶うまい。皆も既に承知しておろうが、あの男は己が見込んだ者に背かれる宿命を持っておる。実弟の信行に義理の弟であった浅井長政、松永久秀に荒木村重。いずれ必ず何者かに背かれるであろうよ。五右衛門。お主はその者に加担し、次こそ確実に信長を冥土に落とさねばならぬ」
「成程……。承知仕った」
五右衛門は会心の笑みを浮かべながら頷いた。
「だがそれで終わりではないぞ」
丹波は五右衛門の気を引き締める為にいよいよ厳かな態度で続ける。
「信長が死んだところで、代りの者が天下一統の事業を引き継ぐであろう。この流れは変わらぬ。信長を討った者か、別の男かは知らぬがな。五右衛門よ、その男も狙え。我ら忍びを犬の如く扱い、目障りになれば屠ろうとする天下人と称する外道どもに忍びの恐ろしさ、深甚な怒りと無念を思い知らせるのだ」
「……」
笑みを浮かべていた五右衛門が己に託された使命の大きさ、重さを悟り、神妙な表情を浮かべ頭を下げる。
「これは単なる私怨、憎しみであってはならない。天下人と称する輩は口では天下の為と言いながら、必ずや己が欲望のまま圧政を敷き、民草を搾取し塗炭の苦しみを味会わせるであろう。その者達の心を救う為に天下人に挑み続けるのだ。それこそが己の使命と心得よ」




