空色の未来
晶を保健室に送り届けた日から、鏡は学校に来なくなった。具体的には、今日で三日目になる。
現実逃避から眠りに落ちた晶が気づいた頃には、すでに放課後で、彼は目の前から消えていた。
自分勝手な意志で相手を振り回したことに、晶は押しつぶされそうになる。でも、蹲っていてもなんにもならない。
――ちゃんと謝ろう。それで、新しい予定を考えよう
晶は朝、学校に行く前に洗面鏡の前に立つと、そこに映る自分の未来をみる。
その結果、今日も彼は学校に現れないということがわかる。ため息をつきながらもしかしたらと思い、未来視を続行する。
でも今日はついぞ彼が現れないとわかり、もういちど晶はため息をつく。帰宅し、居間でテレビをみているのを確認すると、未来視を切り替えようとした。そのとき、未来の視界のなかで違和感を覚える。
テレビのチャンネルはニュース番組に合わされていた。未来の晶も同じように感じたのか、特に行動を変えようとせずとも焦点をテレビに合わせる。そして、報道の内容を理解した瞬間、現在の晶は叫び声を上げそうになった。
すんでのところで踏みとどまり、かばんをひっつかんで、弾けるように家を出る。
未来視でみたニュース番組の中で、キャスターの伝えた事実を思い出す。
『今朝、鏡英人は飛び降り自殺をしようとした人をかばって、大怪我を負う』
携帯電話の時刻表示をみると、午前八時を回っていた。飛び降りまでもう一時間もない。テレビに写っていた事故現場には、地下鉄の入口が映っていた。幸いなことに晶の知っている所だ。近くまで行けば、自然とみつけられるだろう。
でも知っていると言っても近くではない。ここから走って三〇分はかかる。それでは時間が足りなさすぎる。晶は立ち止まって電源を落とした液晶に映る自分の瞳をみた。能力が発動し、未来の自分の視界が手に入る。もう立ち止まっている時間すら惜しかったが、正解がわからずにあたふたするよりかはマシだ。
ショッピングモールで鏡をみつけたときと同じように、自分の通行ルートを未来視でシミュレーションし、最善の結果を導こうとする。
でも、思った通りの結果が導けなくて、晶は内心舌打ちする。でも、立ち止まる訳にはいかない。
心のなかで秒数を数え、一二数えた辺りで横の道路に向かって控えめに手を挙げる。すると後ろから走ってきていたタクシーが止まり、晶はそれに乗り込む。
行き先を聞いてくる運転手に目的地を伝えると、改めて晶は真っ黒な液晶を眺めた。
*
所持金ギリギリでタクシーを降り、そこから走って目的地まで行くと、シミュレーションどおり二〇分ほどの短縮になった。ルートを指定して渋滞を避けたとはいえ、ギリギリだ。
オフィスビルの前には、小さな人だかりができていた。泡が湧き上がるみたいにざわざわしている人混みをかき分けながら進み、抜け出す。
もう既に警察に連絡はされている。あと少しでここは封鎖されてしまうだろう。
「ああっちょっと! きみ! 危ないよ!」
引き止めてくる大人の声を無視してビルに入る。ここは空きビルで、なかに人はいない。飛び降り自殺には最適な場所だっただろう。だから飛び降りた男はここを選んだ。
鏡さえいなければ、上手く行っただろう。そこまで考えて、最低な自分に嫌気が差す。自分の痛みに弱い癖に、他人の痛みには鈍感な自分に。
痛い痛いと泣き叫ぶなら、他人の痛みにも敏感であるべきだ。それができないなら、耐えてうずくまるべきなのだ。
エレベーターで最上階まで行き、そこから屋上へ続く階段を一段ずつ登りながら、そんなことを考える。鏡にはきっとすべて筒抜けだろう。本人は来てほしくないと思うだろうが、この説得には人数が必要なのだ。
屋上への扉は開け放たれていて、朝日が差し込んでいる。うっすらと聞こえてくる声に耳をすましながら進んだ。
ひとりで屋上へ踏み込むと、そこには晶以外に三人の男女がいた。彼らのうち二人は新たな客人にぎょっとした表情を浮かべ、あと一人は晶に目もくれず、飛び降りようとしている人物だけをみていた。
「だ……誰だっ!」
「なんで……あんたが……!?」
晶はまず、自分から一番近い位置に立っている女性――慎沢に声をかける。
「慎沢さん、大丈夫?」
「え……ええ……?」
信じられないものをみるような表情を向けてくる彼女に対し、晶は淡々と対応することに努めた。色々と気まずかったのもあるが、にこやかに話す気分にはなれない。
次に、こちらに背を向けている鏡に向かって声をかける。
「おはよ、鏡くん」
すると彼は顔を少しだけ動かして、後ろをみた。その横顔からはいつもの余裕が消えていて、引きつった笑い顔が浮かんでいた。
「おはよう。氷上さん」
当たり前だけれど、和やかに挨拶できる雰囲気ではない。間の調整として話しかけただけだ。晶は鏡に向かって小さく頷くと、次に屋上の縁に立っている中学生くらいの少年に視線をやる。
相手は晶をみて、怯えたような表情になる。そんなに怖い顔をしているつもりはないのだけれど。
彼は言った。
「なんなんだ今日は!? 邪魔ばっかりしやがって!」
喚く男の瞳は、遠くてよくみえない。声が聴こえるように数歩近づくと、男は警告するように体を揺らした。
男への距離的には、鏡、晶、慎沢の順になる。
「ごめんなさい。どうしても止めずにはいられなかったの。無視できなくて」
自分の心がどんどん冷えていくのがわかった。始まりは混沌としていたのに、終わりに向かうとこんなに物事はシンプルになる。
男は黒い短髪を手で押さえて、頭にまとわりつく考えを振り払うように喚いた。
「そこにいる奴も、あんたも! どうしてほっといてくれない!? おれはもう終わりにしたいんだ!」
「わかってる」
何十回と聞いた言葉だ。正確には、読み取ったといったほうが正しいか。本当は放っておいたほうがいいのかもしれない。でもそんな選択肢は最初から存在していない。
「困ってる人がいるって知ってるのに知らん顔なんてできない」
「おれは助けなんか――」
「そこで行動を起こさないってことは、加害者になるってことと同じだから」
「――っ!」
晶の言葉を聞いて、男はなにかが胸に刺さったみたいな表情になった。彼のバックボーンからすると、当然だといえる。
晶は鏡の背中を指差す。
「それにここにいる彼は、あなたが落ちるってなったら全力で止めに入るわ。きっと一緒に落ちる。そうしてでも、あなたの命を救おうとする」
男は、弾かれるように鏡をみた。すると鏡は、声に明らかな焦りをにじませて言った。
「ちょっと氷上さん……バラさないでよ」
珍しくそこには非難の色が混ざっていた。晶はわざと、挑発的に肩をすくめてみせる。
視線を戻すと、男の表情はさっきより不安定になっていた。まるで屋上にひゅうひゅう吹く風のように。
「彼はね、悲しいことが嫌いなの。デートしてたのに、それを中断して迷子を探すくらい。見ず知らずの他人が死ぬのを止めるために、自分が死にかけるのを知ってて助けるくらい」
それでどれだけ周りが傷つくか、そんなことも考えないで、無条件に人助けをする。たとえ心が読めていたとしても、実行できるのは本人の才能にほかならない。
「飛び降りることで救われるのなら、その道もあるのだと思う。周りなんて関係ない。楽な方を選べばいい。でも覚えておいて。助けを求めれば、無条件で手を差し伸べてくれる人がいるってことを。当たり散らしたっていいってことを」
飛び降りる前に長々と話ができる時点で、飛び降りる気などない。彼はただ、真っ暗な穴にゴミを捨てたいだけだ。だから、そのやり方を変えてやればいい。
彼が飛び降りたのは、決して人生に絶望したからというわけではない。
すでに鏡はその詳細を読み取っているようだ。晶の未来を邪魔しないように口を噤みながら、体をこわばらせている。
ちらりと後ろをみると、ハラハラした表情の慎沢が、事態を見守っていた。彼女は晶と目が合いそうになると、前のことを思い出すのか、勢いよく顔をそらした。
すべての準備が整っていることを確認すると、晶は正面に顔を戻す。
必要最低限の改変で、最大の効果を。
「言いたいことがあるのなら、いくらでも聞く。だからあなたの言葉を聞く時間を、わたしたちに頂戴」
どんな間で、どんな声色で、どんな言葉を選べばいいのか最初から知っていた。そのために未来のなかで何回も鏡と少年が落ちるのをみた。
少年や鏡に向かって、晶は謝罪の言葉を心のなかでつぶやく。
目の前の少年は通っているいじめにあい、思い詰めて死のうとした。でも鏡が一緒に落ちると言う可能性を考えただけでここまで揺らぐ。本来はとても優しい少年なのだ。
未来視でみた世界で、晶は彼と何時間も話し合い、今よりもっと親密な関係になる未来すら導き出した。でも、それはエゴだから。ただ未来を変えるためだけに友達になるなんて、そんなのは相手の気持を踏みにじっているのと変わらない。最低だ。
だから晶は正義感のある見ず知らずの同年代を装う。
晶の言葉が終わると同時に、鏡が手を伸ばす。すると少年は悲しげな表情になり、屋上から地上を見下ろす。下からは、サイレンの音が湧き上がってきていた。
「だけど……おれは……!」
大丈夫。全部うまく行くから。晶はまるで、何年も前からの友人のような視線で少年をみつめていた。
「さあ、手を取って」
鏡が緊張感のある足取りで縁にゆっくり近づき、少年に呼びかける。すると少年は、罪悪感に塗れた表情にかすかな光を灯らせて、手を伸ばした。
そして、二人の指先が触れるか触れないかの距離まで近づいたとき、屋上に強い風が吹き抜ける。黒髪がなびき、視界が黒に染まったとき、晶は叫んでいた。
「鏡くん!」
「わかってるから! くそっ!」
どういう風に落ちるのかわかっているなら、あらかじめ対処はし易い。鏡は姿勢を低くして弾けるように短い距離を駆ける。彼はよろめいて屋上から落ちていく少年の足を掴んで、その場に繋ぎとめた。
鏡は屋上の縁に片手をつき、上半身を乗り出しながら、もう片方の手で少年をこの世界につなぎとめている。
晶は今にも落ちていきそうな鏡に駆け寄りながら、後ろにいる慎沢へ振り向いた。
「慎沢さんっ! 来て!」
慎沢は雷に打たれたように体を震わせたと思うと、一瞬で自分を取り戻し、こちらへ駆けてくる。
晶は鏡の隣に並び、彼と同じようにもう片方の足首を掴む。晶の隣に慎沢が並び、二人で少年が落ちないように足を保持する。
宙にぶら下がった少年は、あるはずのない未来を想像して体をジタバタと暴れさせた。
「う、うわぁあああぁあっ! た……助けてっ! 死にたくないぃっ!」
「わかってるから! 離したりしないから暴れないで!」
「もう……なんなのよ一体! ……氷上! あとで説明してもらうからね!」
「後でちゃんとする! ――鏡くん!」
隣りに顔を向けると、彼はコクリと頷いて、続けて慎沢にも同じようにした。
三人でタイミングを図り、そして、
「ふたりとも、行くよ!」
「オッケー!」
「わかってるから早くして!」
「いっせーの!」
三人一緒の掛け声とともに腕に力を込め、三人がかりで少年を上に引き上げた。
ずるずると少年を連れ戻したあと、床にへたり込んだ鏡が息を上げながらつぶやく。
「し……死ぬかと思った」
比喩表現だが、そう言いきれない凄みのようなものがあった。
晶はぐるりと周囲を見回して、全員いることを確かめる。ここから先は、どうなるかわからない。
ふと、視線が慎沢にとまる。彼女も鏡と同じようにな格好で、視線だけ晶に向けていた。
彼女は息を切らしながら言う。
「なんで……あんたここにいるの……? 鏡くんと連絡でも取ってたの?」
晶は内心冷や汗をかく。どうしたものか。未来をみて回答を考えてもいいけれど、彼女にはなんだか正直に話したくなった。それはきっと、肉体的疲労で冷静な判断力を失っていたからだろう。
正直に事実を口にする。
「えっと、わたし超能力者なの。未来がみえる能力。それで鏡くんが怪我するって知って、飛んできた」
そのときの周りの顔を、晶は一生忘れないだろう。全員が、まるで痛々しいものをみるような目で自分のことをみていたのだから。鏡も、あろうことか助けたはずの男の子からも。
しばらくして自分の発言のヤバさに気づいた晶は、顔を赤らめてうつむく。飛び降りたいくらい恥ずかしかった。
そんな晶の耳に、イライラした声色の慎沢の声が入ってくる。
「はぁ? なにいってんの? ――まぁ話したくならいいけど」
理解はできるがあんまりな言い方に晶はかちんときた。嘘はついていないのに嘘認定されるのは少し気に障る。
仕返しに、意地悪な質問をする。
「そ……そういう慎沢さんこそなんで鏡くんと一緒にいたの?」
それに、彼女はわかりやすく言い淀んだ。
「そ……それは、学校行こうとしたら鏡くんを見かけて――」
「ストーカー」
「う……うるさいわねっ! この根暗女!」
「なにおう!?」
「あ……あのっ!」
取っ組み合いの喧嘩が始まりかけるが、そこに一言、腰が抜けて屋上に座り込んだままになっていた少年が入ってくる。この場にいるほかの人すべての視線を感じ取り、彼は身をすくめる。でも、しばらくして何かを決意したかのような表情になり、まっすぐな瞳で周りをみた。
少年は表情は真剣に、でも声は泣きそうなまま、晶たち三人に言った。
「迷惑ばっかりかけて……ごめんなさい。それしか言えないのが悔しいけど、ほんとうにごめんなさい」
それを聞いて、晶は鏡や慎沢と顔を見合わせる。ふたりとも、表情に悪感情はみつからない。
二人一緒に頷いて、鏡が少年に向かって口を開く。
「いま、全員でここにいる。きみはおれたちの言葉に耳を傾けてくれた」
鏡の瞳が動き、晶と慎沢を順番に視界の中心に収め、最後に少年のもとに戻ってくる。
「ありがとう。逃げずに立っていてくれて」
少年は鏡の言葉を聞くと、顔をくしゃっと歪ませ、目尻に涙を溜める。まるで、悲しみを最後の一滴まで絞り出そうとしているかのようだった。
彼は顔を勢いよく拭うと、涙が落ちてこないようにまぶたを閉じ、すり潰されたみたいに荒い声をだした。
「助けてくれて、ありがとう……ございます……っ!」
少年は床に手をついて、うずくまると肩を震わせた。それを見届けた鏡は、屋上で大の字に寝転がる。
晶はどうしてそんなことをするのか一瞬理解が追いつかないでいた。でも彼の瞳を見た瞬間、すべてを理解する。
今の自分にできるのは、この静寂を守ることだけだろう。
たくさんの色が積み重なって黒ができるように、彼の瞳の中にはたくさんの複雑な感情が、一つの大きな感情を形作っていた。
晶はポケットからスマホを出し、いつここに警察が来るのか、少し先の未来を確認する。そして、自分も同じように屋上で大の字に寝転がった。
慎沢が戸惑いながら同調するのに、そう時間はかからなかった。




