30 「何がつい、なんですか」
自室の机にかじりついていた十和は、細かな文字が詰め込まれたノートを見下ろし、ほっと息をつく。
辻が花高校も、テスト期間に突入していた。
生真面目に授業を受けている十和の辞書に、「一夜漬け」という文字はない。
一方で、飛びぬけて優秀というわけでもないため、一学期のおさらいは必須。特に苦手としている、数学と生物は要注意だ。
「それから英語のおさらいも、頑張らなくちゃ……先生は教師になれるぐらいだから、きっと頭も良いのよね」
頬杖を付き、幽鬼のごとく白い男を思い返す。
「うらやましいな」
「そうでもない。体育は、反吐が出るほど嫌いだ」
「ひゃっ!」
低い声が、独り言に返答する。十和は驚いた拍子に、シャープペンシルをノートに突き刺した。
呼吸を整えて振り返り、まさしく亡霊のように部屋へ出現した三潮をにらむ。
「先生! 入る前にノックをして下さいって、散々言ったじゃないですか」
あ、と呟いた三潮が、かすかに顔をしかめる。
「失念していた、すまん」
「もう一週間ですよ。いい加減、慣れて下さいね」
椅子にもたれ、十和は息を吐いた。
三潮は現在、十和の家に住んでいた。
それは決して、親公認の同棲といった、甘いものではない。むしろ十和の父は、超能力を持った三潮に怯えている。対する三潮も十和の両親へ、警戒心をむき出しである。
同居の発端は、これまでの三潮の行いにあった。
彼は大学時代に、計十八回も転居している。その際にも、秘密結社『麻の葉会』との小競り合いにより、毎度騒動を起こしていたらしい。
そして今回、彼の住んでいたアパートへトラックが突っ込み、家屋は全焼した。
引っ越し頻度が高い上、行く先々で何かに巻き込まれていれば、当然怪しまれる。
不動産会社も、「この男は死神あるいは、疫病神に違いない」と、彼を疑っているらしい。容貌も、その疑いに拍車をかけているのだろう。
そのため賃貸物件を探しに行っても、追い返されるのだ。
運よく中へ通されたとしても、紹介されるのは暴力団の事務所や墓場の隣、もしくは事故物件ばかり。
不動産業界全体に嫌われているらしく、会社を変えてもそれは同じだった。
わざわざビジネスホテルに泊まり、青ざめた顔で新居を探し続ける彼を、十和は放っておけなかった。
いや、むしろ周囲が言葉あるいは視線で、彼女の背を幾度も押した。どうにかしてやれよ、と。
母に友人、そしてクラスメイトの圧力と、日に日に憔悴していく三潮の姿に、とうとう十和も折れる。
「あの……お兄ちゃんの使っていた部屋が余っているので、しばらく居候しませんか?」
このように提案すれば、三潮が血を吐いて感謝したのが、約一週間前のことである。
「さて今日は、何に困っているんですか?」
椅子に座ったまま問えば、床上で正座をした三潮が、ためらいがちに彼女を見上げる。
「風呂に入ろうと思ったのだが、その、シャンプーが切れていた」
「あら。買い置きもありませんでしたか?」
「その買い置きの場所が、分からなかったのだ」
「そうでしたか」
うんうん、と十和はうなずきながら、徐々に怒り顔となる。三潮も顔を強張らせた。
「それぐらい、お母さんに訊いてください。一階にいたでしょう?」
いつになくぶっきらぼうな口調に、三潮は震えながらも食い下がった。
「しかし露芝母は、夕餉の支度をしていたので……」
「声をかけられたぐらいで、お母さんは怒ったりしません!」
猫の手のように丸めた右手で、ぺしぺしと己の膝を叩きながら、十和は憤慨する。テスト勉強によって、かなりのストレスを溜めこんでいるらしい。
「いつまで私経由で、お父さんとお母さんに話しかけるんですか。一緒に暮らしているんですから、少しは慣れて下さいっ」
「すまん」
かくり、と三潮の頭がうなだれる。
一方で十和も、彼の人見知りの度合いは、十分に承知している。
三潮を家に招き入れることは、すなわち、野良猫を家で保護することと同義である。
肩の力を抜き、彼女は表情を和らげた。
「仕方ありません。今日は、私が教えます」
三潮が頬を紅潮させて、勢いよく顔を跳ね上げた。
喜色満面のその顔を、十和は甘やかさないよう厳しく見据える。
「ただし、これっきりですよ? 明日からは、二人にも話しかけて下さいね」
「善処する」
大きく上下される顔を見ていると、説教する気も失せてしまう。
先ほどよりも深く、十和は椅子に背を預けた。
「ところで、新居探しは順調ですか?」
テスト期間に入り、生徒は準備室や職員室への、立ち入りを禁止されている。三潮の動向も、彼女には伝わりにくい。
尋ねた途端、嬉しそうだった顔が白くなった。
血の気の失せた顔のまま、彼はぎりりと歯噛みする。
「……終業後に不動産屋へ行ったが、あやうく寺へ拉致されかけた」
「お寺?」
不動産会社の意図が分からず、十和は目をぱちくりさせる。
小首をかしげる彼女を見上げながら、三潮は低い声で続けた。
「落ち武者の亡霊が一ダース程憑いているので、お祓いを受けろ、と言われた」
「あら」
言いつつ、十和は思わず笑った。
「笑うな」
「ごめんなさい、ふふっ」
三潮がふてくされるが、こみ上げてくる笑いは弱まらない。
「だって、落ち武者だなんて……先生、相当嫌われちゃってますね?」
それも一ダース、である。
他人事だと思ってクスクス笑う十和へ、三潮はいっそ情けない顔を向ける。
「九太郎に追い回されるより、堪える」
「それは、相当ですね」
十和の笑みにも、苦いものが混じる。
それを見て取り、三潮は慌てたように表情を引き締めた。
「しかし、今後も住居探しは継続する。露芝や露芝父母に、いつまでも迷惑はかけられん」
「あまり焦らないで下さいね。また超能力が、暴走しちゃいそうですし」
「うっ」
前科が山盛りであるため、三潮に返す言葉はなかった。
固まる彼を笑顔で見守っていた十和は、ふと視線を斜め上へ持ち上げた。
数秒間、無言で何かを考えた末に、再び三潮へ向き直る。
「あの先生」
「どうした」
「その、私ありきで『露芝』と呼ぶのは、どうにもおかしい気がして」
「どういうことだ」
三潮が眉を寄せながら、かすかに首をひねった。前髪の長さに合わせて短くなった茶髪が、それに合わせて小さく揺れる。
十和も小難しい顔で、思考をまとめつつ言葉を紡ぐ。
「この家は、お父さんのものですし。私ではなく、お父さんを、『露芝』と呼ぶべきではないでしょうか」
「では露芝を、どう呼べば良い?」
当然の問いに、十和の顔が温度を上げる。
「それは……えっと、名前で、構わないかと……もちろん、お家の中限定、ですけれど……」
ごにょごにょと、赤い顔のまま答えた。
耳を澄ませて、彼女の声を拾い上げていた三潮も、たちまち赤面する。
「いや、しかし、名前では絶対に呼ぶなと」
「だから、お家の中だけですっ。学校で呼んだら、許しません!」
やけっぱち気味の勢いに、三潮も押された。のけぞりながらも、一つうなずく。
「分かった、つゆし」
言いかけて、途中で口をつぐむ。そして深呼吸の後に、ゆっくり声を出した。
「分かった、十和」
「……はい」
呼び捨てなのか、と思わなくもなかったが、十和もぎこちなくうなずき返す。
彼女の了承を見とめ、三潮もはにかみながら姿勢を戻した。
そのまま、鼻から血を垂らした。勢いこそないものの、量は大判振る舞いである。
「名前ぐらいで、出血しないで!」
用意周到に置かれた洗面器とタオルを引っ掴み、十和が椅子から立ち上がる。
ゆでダコみたいな三潮の顔へ、タオルを押し付けた。次いで洗面器も持たせる。
「すまん」
タオルの下から、くぐもった声が聞こえた。
「嬉しかったため、つい」
その声は、妙にはずんでいた。
「何がつい、なんですか」
彼の隣へ腰を落とした十和の語調にも、冷たさはなかった。
右手でタオルを、左手で洗面器を持ちながら、三潮がちらりと十和をのぞき見る。
「十和」
「何ですか?」
「シャンプーの買い置きの、居場所だが」
「あ、そうでした」
そもそも彼が訪れた目的を思い出し、続いて勉強中だったことも思い出す。
「ええと、シャンプーは、洗剤と一緒に収納しています。脱衣所の隣の、物入れの中にあるんですが」
早口でまくし立てるが、眉を八の字にしている三潮に気付き、言葉を切る。
普段は警戒心丸出しだというのに、今は心底弱り切った表情だ。
それをしみじみ眺めていると、つい微笑ましい気持ちになる。ずいぶんと、彼女も慣れてしまったものである。
「分かっていませんね?」
「すまん」
「それじゃあ一緒に、一階まで降りましょうか」
その提案に、三潮は目を見開いた。
「ただし、鼻血が止まってからですよ」
今にも立ち上がろうとする彼を、十和は苦笑交じりになだめた。
残念な教師と世話焼き少女の、恋愛(未満)話は、これにて一応完結です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
31話以降の番外編は、本編のこぼれ話等となっております。
どうでもいいと言って差し支えない裏話が、無意味に満載です。




