28 「私、そこまで優しい人間じゃありません」
トイレへ向かう十和を見送った後、ガクリと三潮はうなだれた。
急に燃え尽きた彼へ、八重もたじろぐ。
「えっ、何その落差? そんなに十和が離れて寂しいんすか?」
「違う……悔やんでいるのだ」
肩と一緒に、床へめりこまんぐらいに頭を落としている三潮が、ぼそぼそと言葉を紡ぐ。
耳に手を当てて彼の声を聞きとりながら、八重は顔をしかめた。
「あ? 悔やむって、何を?」
「露芝に、恥をかかせた」
「あー、お店で血吐いてね。でも、十和は変なところで肝っ玉据わってるから、大して気にしてないと思うっすよ」
「……見てはならぬ姿も、見てしまった」
「はい?」
更に声が小さくなったため、耳に手を当てたまま、八重が三潮へ一歩乗り出す。
うなだれている三潮の顔は見えないが、薄茶色の髪からのぞく首と耳は、赤くなっていた。
「その……肌衣を……」
「あー、ブラね。はいはい、ブラ見えてましたね、ピンクのブラ」
ごにょごにょと婉曲した表現を使ったのに、八重は大声で「ブラ」を連呼する。
「貴様に恥じらいはないのかァッ!」
赤い顔の鬼が、彼女へ怒鳴りつけた。
耳に指で栓をして、八重はわざとらしく身をすくめる。
「やだなぁ。肌衣って言い方の方が、逆にやらしいですって。それに、十和もみっちゃん秘蔵のスケッチブック見たから、お相子ってか……あ」
うっかり口を滑らしたことに、ほぼ喋り終えてから気づく八重。
反射的に目を閉じ、三潮の激怒に備えたが、何もなかった。
肩すかしを食らった八重は、薄目を開けて三潮を見上げ、そしてギョッとする。
顎が外れんばかりに口を開き、石像のように固まる三潮がそこにはいた。
新しい狼狽のパターンだ。
「みっちゃん……大丈夫っすか?」
「見られたのか? 私の、スケッチブックを……?」
八重の声など聞こえていない様子で、三潮がうわ言のように問い返す。
愕然、という表現が非常にしっくり来る彼に面食らいつつ、八重もためらいがちにうなずく。
「あ、はい。昼休みに、みっちゃんが居眠りしてたことありましたよね? その時に二人で、準備室まで様子見に行って。そこで、ちらりと」
見る見るうちに、三潮の顔は白から真っ青へと変化する。
「終わりだ……」
涙の浮かんだ瞳を震わせて、彼はかすれ声で呟いた。
「あんな邪な物を見られては……露芝に見限られてしまう……」
「いやいや。邪どころか、むしろ純情過ぎてまぶしかったぐらいっすよ。十和も、なんだかんだで照れてましたし」
「戯言は止めろ! 露芝も貴様も、私を嫌悪しているのだろうッ!」
手を振り振り否定する八重の言葉も、絶望に打ちひしがれる三潮の心まで届かない。
こんな時に十和がいれば、と彼女は図らずも天をあおいだ。
「あれ?」
ショッピングモールの上階をぼんやり眺めている内に、気付けば三潮の姿が消えていた。
「あー、またパニクって、どっか飛んだのかぁ」
もはや彼女にとっても、馴染みの現象である。
「ま、厄介者は消えたし。ゆっくり十和を待つか」
柱にもたれて、のんきに友人を待った。
三潮は混乱のあまり、心の中で十和へすがりついていた。
彼女に嫌われてしまう、と絶望しながら彼女を求めているのだから、妙な話である。
しかしパニクっている三潮は、そこまで頭が回らなかった。
だから無意識に瞬間移動した先で十和を見つけ、思わずホッとした。
「鶴菱先生!」
その彼女が、涙声で自分を呼びながら飛び付いて来たので、彼はまた混乱する。
これは夢か? 夢なら覚めないで欲しいものだ、などとつい考える。
考えつつ、ぎこちなく十和の身体を抱きしめて、さらさらとした髪に顔を埋めた。
夢心地のためか、鼻血も幸いにして引っ込んでいる。
「女子高生の髪の匂いを嗅ぐだなんて、変態臭いですよぅ。鼻息も荒いじゃないですかぁ」
ねちっこい呆れ声で、ようやくここが女子トイレでないことに思い至る。
そして、自分が殺風景な窓のない部屋へ飛んだことと、部屋の中には州浜がいることにも気づく。
「貴様、何をしている」
「いえいえ。その台詞は、鶴菱サンにお返しいたしますぅ。女の子抱きしめて、何していらっしゃるんですかぁ?」
冷めた目の州浜に指摘を受け、ようやくこれは現実なのだ、と実感できた。
実感と共に、自分が抱きしめている存在の温かさや柔らかさ、ついでに甘い香りも現実感を帯びる。
途端、三潮の全身が真っ赤になった。新品の白いシャツを着ているので、その赤さがよく分かる。
「すすす、すまんッ! あ、あまりの幸福感故、つい抱擁をしてしまったッ!」
慌てて十和から距離を取ろうとするのだが、なんと彼女がいやいやと首を振った。
その様が弱々しく、そして可愛らしいので、三潮はかえって泣きたくなった。
だが、十和の口から漏れ出た声には、甘い雰囲気など微塵もなかった。
「怖かったんです……」
「え?」
一瞬間抜け面をさらし、しかし涙ぐむ十和と州浜を見て、状況を察する。
「九太郎……露芝に何をした?」
震える十和を背に庇いながら、ようやく州浜をにらみつける。
眼鏡をくいと持ち上げて、州浜は嫌みに笑った。
「ですからぁ、州浜とお呼びくださぁい。まだ彼女には、何もしていませんよぉ」
「まだ?」
「これから、アナタを脅迫する人質になっていただくつもりでしたが……まさか脅迫状を送る前に、ココを嗅ぎつけられるとは思いませんでしたぁ」
「露芝の居所など、本能で分かる」
ふん、と鼻息荒く言い捨てる。
三潮のその態度に、州浜は苦い顔となった。
「やはりアナタは、一般社会に身を置くべきではありませんねぇ。色々と、地雷を抱え過ぎですぅ」
「何だと」
「料理も出来ない、アイロンも知らない、薬の飲み方も知らない、人に挨拶も出来ない、同僚ともコミュニケーションが取れない、おまけに女の子への接し方も知らない……それなのに、ついつい彼女を付け回してしまう。どうしようもないじゃありませんかぁ」
「う」
ずばずばと図星を射抜かれ、三潮の顔は引きつった。
「どうして……そんなに、先生のことを知っているんです」
しかし、ここで反撃の声が上がった。十和だった。
「ずっと、先生を監視していたんですか?」
「ええ、もちろんですともぉ。ワタクシどもは、地域に優しいがモットーですので、職場への殴り込み等は控えていますがぁ。行動は、逐一監視していましたよぉ」
三潮の背中にくっつきながら、十和は眉を潜めた。
「ずっと見ていたのなら、先生を助けてあげればいいじゃないですか。あなたたちって、本当に卑怯っ」
面と向かって根本的な否定をされ、州浜も情けない表情になった。
「……一応、ワタクシどもも秘密結社なのでぇ。表立つのは得意ではないのですよぉ。言い訳と言われれば、それまでなのですがぁ」
ふう、と一つ息を吐く。
「それに鶴菱サンのサポートは、ワタクシの業務には含まれていません。あくまでも、捕獲が目的ですのでぇ。なのでこのまま、露芝サンの身の安全のためにも、ワタクシどもの元へ戻って来ていただけませんかぁ?」
眼鏡の奥の眠そうな目が、三潮を伺う。
三潮は鬼の形相だ。
「御託を並べているが、本心はどうなんだ」
「ボーナスのためですぅ」
いっそ爽やかに、州浜はぬけぬけと言った。
「貴様の賞与の為に、帰ってたまるか」
「そうおっしゃらずにぃ。『麻の葉会』は、家族に捨てられたアナタの、第二の故郷じゃないですかぁ?」
「人の身体で散々実験を繰り返した場所に、未練などない」
三潮も吐き捨てつつ、考えた。
ひょっとすると十和にとっては、自分がそばにいない方が幸せなのかもしれない。
彼女へ好意を示してきたが、それを明確に拒否されたことはないものの、受け入れてもらってもいない。それぐらい、人付き合いが不得手な彼にも理解できている。
忌まわしき古巣に戻るべきか否かは、三潮には判断できなかった。
だから彼は、自分にしがみつく少女へ向き直った。
「露芝」
「は、はい」
息を一つ吸って、声の震えを押し殺す。
「私のスケッチブックを、その、見たのか?」
少し垂れ目がちの大きな瞳が、更に大きく見開かれた。こぼれ落ちてしまいそうだ。
「ええ、見ましたけど……あの、怒ってますか?」
「むしろお前こそ、怒って、いないか? 私を、嫌悪していない、のか?」
あれほど抑えたのに、再び声が震える。
しかし十和は、びっくりするぐらい綺麗に笑った。
「あんなに美化して描かれちゃったら、恥ずかしいですよ」
「すまん」
「でも、ちょっと嬉しかったです」
三潮の視界が、途端にぼやける。鼻の奥もツンとした。
「私は……お前に、疎まれていない、のか?」
「もし疎んでいたら、わざわざシャツのシミ抜きをしたりしません。私、そこまで優しい人間じゃありません」
十和も少し涙ぐみながら、それでもはにかんで答えてくれた。
小さく、三潮は鼻をすすった。目じりに浮かんだ涙が、十和の華奢な指に拭われる。
「子供じゃないんですから、泣かないで下さいよ」
「すまん」
「あーあぁ。こうなるのは目に見えていたから、こっそり露芝サンを誘拐したかったというのにぃ」
ホッとしている背中に、呆れ声が投げつけられる。
眼光に鋭さを戻してにらみつければ、州浜はテーブルに腰掛け、両手から炎を出現させた。
「でも、それならそれで、お灸をすえて連れ戻すまでですぅ。どうせこの狭い空間では、鶴菱サンが不利ですからねぇ」
「それは貴様も同じだろう。ここを燃やして、心中するつもりなら別だがな」
「アナタと心中だなんて、ご冗談をぉ! 一番嫌な死に方ですぅ」
「ほう? 気が合ったな」
顔をしかめて首を振る州浜を、三潮はせせら笑い、そして消えた。
だがこの個室内において、次の出現場所など限られている。
自分の背後へ現れた彼へ、州浜は紅焔をまとった拳をぶち込んだ。
十和が片隅で、息を飲んでいるのが分かる。
しかし三潮は逃げなかった。皮膚が燃えようとも構えた右腕で、真正面からそれを受け止める。
馬鹿なことを、と言いたげに歪んだ州浜の表情が、瞬く間に驚きで硬直した。
炎を貫通して、三潮の腕が彼の拳の中へめり込んでいく。
「なっ、何をなさったんですかぁッ!」
ずぶずぶと浸食される恐怖に、たまらず州浜は狼狽した。
「以前に転移先を誤り、危うく人体模型と融合しかけたことがあってな。その過ちを参考にした」
無表情のまま、三潮は淡々と言葉を発する。
「このまま貴様の、腕と言わず全身を食い破ることなど造作ない」
冷えた彼の声音から、本気であると悟ったのだろう。州浜は強張った顔を真っ青にして、脂汗をダラダラと流し始めた。
「ひぇぇぇっ……暴力反対ですぅ!」
「そのような世迷い事が、よくも言えたものだ」
「つ、露芝サンに嫌われても、知りませんからぁ!」
「む」
言われてチラリ、と十和を振り返る。
だが十和は、怒り心頭の面持ちで州浜を眺めていた。
その表情のまま、三潮へこっくりとうなずく。
「正当防衛ですよ、先生」
「そうだな」
三潮もうなずき返す。
二人ともやる気満々である、と思い知った州浜は、とうとう絶叫した。
「分かりましたぁ! 分かりましたからぁ! 鶴菱サンの確保は諦めますぅ!」
「初めからそう言え」
腕を分離するついでに、青ざめた顔へ一撃加える。
眼鏡を飛ばして錐もみしながら、州浜は倒れた。
「うぅ……こんな鬼畜米英みたいな人材、ワタクシどもの方から願い下げですぅ」
それでも無駄口を止めない州浜を、いっそテーブルと融合させてやろうか、とつい考えた。




