四十二
凛はふと目を開けた。カイの肩に頭を載せたまま目を閉じていたが、眠ってはいなかった。眠れなかったのだ。目を閉じた暗闇の中、瞼の裏に映る赤い焚き火の残像を追いかけ、極力何も考えないようにしていた。辺りはまだ暗い。しかし焚き火の炎はさっきよりも大きくなっていた。カイは左手で凛の肩を抱き、右手で傍らに積まれた枯れ枝を火に投げ入れている。一番冷え込む夜明け前に備えているのだ。
「カイ、寝てないの?」
寝ていると思っていた凛の声が聞こえ、カイは一瞬枝を投げ入れる手を止めた。
「う、うん……」
「少し寝たら? 火の番は私が変わるから」
凛は心配そうに覗き込んだが、カイは目を逸らして俯いた。
「ね、眠れるわけないだろ……」
二人とも裸で一枚の外套に包まっているのだ。カイにそんな余裕はなかった。
凛は強情なカイの説得を諦めて溜息をつくと、頭を上げて背後を振り返った。風に揺れるメスキートの葉がおぼろげにみえる。遠く遠く東の山の稜線が紫色に縁取られ、朝が近づいているからだ。
生命は東の空からやって来る。新しい一日と共に全ては生まれ変わる。凛は目を閉じて願った。悲しみも不安も全て消えてしまえば、違う自分に生まれ変わることができたら、と。
凍てつくような風が僅かな隙間を見つけて外套の中に入り込む。凛は身震いし、身体を縮こまらせた。カイもまた震えていることに気付き、凛はその痩せた背中にそっと掌を当てた。最初は冷えていたカイの背中だったが、触れ合っている部分から徐々に温かさが広がっていく。
「リン……」
掠れた声でカイが囁き、凛の肩に置いた手に力が入った。炎に照らされているからなのか、カイの顔は激しいほどの命の熱を発している。凛は胸の鼓動が息苦しいまでに早くなったのを感じた。
カイが両腕で凛を抱き締めると、二人の身体全体に熱が広がっていく。凛はその温かな腕の中に身を任せた。二人の熱い息が絡み合うと、どちらからともなくまるで引き寄せられるように唇を重ねた。それで悲しみや不安が消えることはなかったが、カイの身体に腕を回した凛は、自分が新しい何者かへ生まれ変わっていくのを感じていた。
朝陽が放つ柔らかな一条の光が、メスキートの葉の間から湖岸へ差し込んだ頃、二人は溶け合うように一つになった。
グローバー大佐は椅子にふんぞり返ってその朗報を聞いた。自分にとってお荷物でしかない居留区の獣どもが殲滅されたという報告を。
脇に帽子を抱え、直立不動の兵士を満足気な顔で眺める。その中でコナーズ中尉はじめ三人の兵士が戦死したことは大きな犠牲だがやむを得まい。特にコナーズに限って言えば、むしろ喜ばしいことだ。普段は上官である自分に媚びへつらい従順ではあるが、あの男の素行の悪さはいつかこの脚を引っ張るだろうと思っていた。コナーズ中尉がしでかしたことで自分が責任を取るなどご免だ。それでも、あの邪魔なアパッチどもが居なくなり、この砦も不要となって閉鎖されれば新しい任務が待っている。次こそ『赤い悪魔』の追跡だ。奴の首を取り、この国の英雄となるのだ。
この砦でこの下らない任務に当たっている間に、『赤い悪魔』が投降したというニュースを聞いた時は激しく失望した。しかしワシントンの愚かな連中が奴の処刑をめぐって利権争いをしている間に、まんまと脱獄したと聞いて小躍りしたものだ。
「奴はこの私に首をはねられるのを待っているのだ」
グローバー大佐は緩む口元を隠すため、口髭を撫でながら兵士に労いの言葉を掛けた。
「それでは君がコナーズ中尉に代わって指揮を取ったわけだな? ご苦労だった。もう下がっていいぞ」
それまで不自然なほど背筋を伸ばし、顎を前に突き出していた兵士は言い難そうに視線を下げた。
「そ、それが……実は三人のインディアンが馬を奪って逃げ出しまして。未だ逃亡中であります……」
グローバー大佐は口髭を撫でていた手を止めた。今までの高揚した気分が沈んでいく。
兵士は三人が逃げた経緯を説明した。その中の一人が恐ろしく俊敏で、兵士に飛び掛りあっという間にナイフで刺殺したこと。その中の女がおそらくコナーズ中尉を殺したであろうこと。そして彼らの見事な馬術のことも。
「ですが、少なくとも一人は被弾しているのを望遠鏡で確認しました。あの傷ではまず生きてはいないと……」
「もういい!」
グローバー大佐は声を荒げて遮った。
「そんな名もない三人のインディアンのことなどどうでもいい! どうせ何処かで野垂れ死んでるに決まってる! そんな奴らに関わっている暇はない!」
机と反対側にあるドアの横の壁に寄り掛かっていた斥候長のトパハが短く笑い声を上げた。
「そりゃあ間違いなく戦士だな。厄介なことになりましたね、大佐」
事の成り行きを楽しんでいるような斥候長を、グローバー大佐は苛立った目で睨みつけた。
「それがどうした! 戦士だろうが何だろうが、奴らの酋長は死んだんだ。ただ敗走を続けるだけで、何の脅威もないだろう!」
「申し上げたはずです、大佐。彼らは戦士であって兵隊とは違うと。特にアパッチは家族や部族との繋がりが強い。報復だって有り得ますよ」
グローバー大佐は歯軋りした。誰も彼も、なぜこうも自分の邪魔ばかりするのだ、と。
「報復を恐れて軍人など務まるか……」
依然直立不動の兵士を見据えた。
「いいか? 将軍にはあそこのインディアンは全滅したと伝える。どうせ今頃は死んでるはずだ。しかし念には念を入れる。次の命令があるまで、お前達はその残党を捜すんだ。分かったら下がれ」
「イ……イエス、サー!」
上擦った声の兵士はしゃちほこばって部屋のドアを開けた。その様子を横目で見ていた斥候長は嘲るように口元を歪め、兵士に続いて部屋を後にした。
グローバー大佐は二人が出て行ったドアを睨みつけてから、おもむろに立ち上がると後ろの窓に向かった。斜めに差し込む朝の日差しが、地面の起伏によって所々に影を作っている。グローバー大佐にはそれが疫病に冒された病人の肌のように思えた。
「忌々しいこの場所とも、もうおさらばだ」
グローバー大佐の目は既に『赤い悪魔』に向いていた。
辺りが明るくなると凛とカイは乾いた服を着て、荷物を二頭の馬の背に積んだ。焚き火を埋めて自分達がいた痕跡を隠し、湖畔を後にした。
赤い土に松が群生する山道を慎重に馬で下り、途中で鞍に積まれていた水筒の水を飲んで干し肉を食べた。日が傾く頃、麓に着いた二人は茂みの影で暗くなるまで休んだ。この先の平原を夜の闇に紛れて渡るためだ。馬を休ませておく必要もある。
特に相談をしたわけではなかったが、目指す場所は二人とも分かっていた。凛が最初に連れて来られたあの山だ。
木の幹に背中を預けているカイの肩に頭を載せ、凛は目を閉じて瞼の裏に映る山の景色を見つめた。豊かに茂った葉の隙間から差し込む柔らかい陽射し。それが乳白色のティピィーに斑な模様を作る様を。そしてどこまでも清冽な小川。そこに集まる神々しいほどに美しい鹿の群れ。
あの山には自然の恵みが溢れている。あそこでなら、カイと二人でも生きていくことが出来るだろう。
「今頃はトゥナが美味しい季節かなあ」
凛の呟きにカイは柔らかな微笑を投げ掛けた。
何とか未来に希望を見出そうと必死になっていた。昨日の惨劇のことを口に出してしまえば、きっと恐怖が全てを支配して前に進むことが出来なくなる。少しでも希望があるのなら、その光を目指して夜を駆け抜けていこう。
太陽が姿を消すと、カイの後ろに続き馬を疾走させた。月の白い光が、穏やかな風に揺れる草原を微かに照らしている。満点の星空と地面が溶け合う場所を目指してひた走った。
何とか夜明けが来る前に、人目に付きやすい平原を渡ることが出来た。赤茶色の地肌剝き出しの岩が壁のようにそびえる渓谷に入ると、岩と岩の隙間が作った洞窟に入り疲れた身体と馬を休ませた。
ひんやりとした岩の上に毛布を敷いて横になり、二人は目を閉じた。カイの腕に抱かれていると、とても安らかな気持ちでいられる。これから先は幸せな日々が戻ってくるのではないか、そんな気がした。
山に戻れば、きっとレッドベアが優しく出迎えてくれる。そしてサンとターニャが寄り添って笑いかけてくる。千代丸とミアが抱きついてきて、その後ろでウナは歓喜の歌を詠っている。
「遅かったな。お前ら、どっかで怪しいことでもしてたんじゃないのか?」
ダニエルがいつもの明るい笑顔で陽気に冷やかしてくるのだ。
それが有り得ないことなのは分かっている。もう二度と取り戻せない日々であることは。それでも、あの山に辿り着くことさえ出来れば何もかもが上手く行く、そんな気がしてならなかった。