四十一
後ろから追いかけてくる銃声を聞きながら、凛はいつ銃弾が自分達や乗っている馬に当たりはしないかと気が気ではなかった。すぐそばのサボテンが突然砕け飛び、小さな悲鳴を上げた凛はしがみついているカイの背中に顔を埋めた。
馬は小石の浮いた急な傾斜を蹄を滑らせながら駆け降り、方向を変えてでこぼこした岩山を上り始めた。銃声が遠のいていく。聞こえてくるのはカイの荒い呼吸と蹄の音。その蹄が崩す小石が転がる音、それに叫ぶような風の声。高台に出ると凛は後ろを振り返った。
その時見えた光景を凛はきっと忘れない。風にはためく無数のティピィー、その波の向こうに見えた血に染められた砂を。色彩の乏しい荒野に広がった赤い色。それは彼らがそこで生きていた証。銃弾と蔑みに引き裂かれた幾つもの命。それも明日には風が運んできた新しい砂に覆い隠されているのだろう。やがて乾いた赤い砂は、風によって散り散りにどこかへ運ばれる。何の痕跡も残さず、人々の記憶にも残らない。
凛は血だらけの手でカイの上着をきつく握ると、唇を噛みしめて鳴咽を洩らした。カイは凛が泣いているのに気付いたのだろうが、ただ前を向いて馬を走らせるだけだった。
おおまかな方角が頭に入っているだけで、とにかく闇雲に走り続ける。やがて涸れ谷を横切ると群生するメスキートがあり、その向こうに湖が見えた。湖岸に出るとカイは馬を止めた。馬から降りた二人は大きく息をついて耳を澄ます。とりあえずは逃げ切れたようだが、そこには重い空気が流れている。 仲間は皆死んでしまった。それでも軍隊は逃げた自分達を追ってくるだろう。凛も千代丸も軍人を殺したのだ。捕まれば、きっとただでは済まない。
「千代……千代は?」
凛が呟くとカイは今来た道を振り返った。するとすぐに蹄の音がしてメスキートの茂みを掻き分けながら千代丸がやってきた。
凛とカイを見つけた千代丸は、目を細めて嬉しそうに笑った。
「良かった……やっと追いついた……」
その言葉を聞いて凛もカイも安堵の息をついた。そのいつもと変わらないはずの明るい千代丸の笑顔。しかし、その中に潜む影が少しだけ見えた二人は言葉を飲み込んで俯いた。
愛するミアを失ったこと。そのミアの亡骸を置いて逃げてこなければいけなかったこと。その笑顔の下の感情は怒りというよりも諦め。それはいつまでも千代丸の心を苛むのだろう。でも、それは凛とカイにとっても同じことだ。
「……これからどうするの?」
午後の陽射しにきらきらと輝く湖面を見つめながら凛が呟いた。
凛の問いに、しばらくは誰も答えない。他に人影のない湖畔は静まり返った。二頭の馬さえも息を潜めているようだ。聞こえるのはメスキートの葉がさらさらと風に揺られる音、そして水際の砂利がちゃぷちゃぷとさざ波に洗われる音だけだ。その穏やかな静けさが、心に圧し掛かる不安をかえって大きなものにしていた。
カイが重そうに口を開いた。
「……逃げ続けるしかないだろう。しっかし、腹減ったなあ……何か食い物積んでるんじゃないか?」
馬の背に詰まれた荷物を解き始めたカイは、馬から降りようとしない千代丸を不思議そうに見た。
「どうしたんだ? チヨ、早く降りろよ」
千代丸は少し困ったような顔で微笑んだ。
「うん……ちょっと、手ぇ貸してよ」
「……ったく、しょうがないなあ」
あの混乱の中でミアの仇を取って兵士を殺し、命からがら逃げ出してきたのだ。自分がしたことに、今になって腰が抜けてしまったのかと凛は思った。
カイが千代丸の腕を摑んで引っ張った。すると千代丸の身体が滑るように馬の背から落ちてくる。
「あっ! お、おいっ!」
カイは落ちてきた千代丸を必死で受け止めた。しかし自分よりも少し大きいその身体を支えることは出来ず、カイは千代丸を抱えたまま後ろへよろめいて尻餅をついた。
「お、おいチヨ……どうしたんだよ?」
二人とは馬を挟んで反対側にいる凛は、千代丸が乗ってきた馬の鐙からぽたぽたと何かの雫が落ちているのに気が付いた。
「チヨ……お、お前……背中……」
「へへへ……当たっちゃった……」
カイは赤く染まった自分の手を見て震える声を上げた。千代丸の背中は血塗れだった。
鐙から落ちてきた雫が、凛の埃にまみれたモカシンの甲に赤い染みを作っている。認めたくない悪夢を頭が理解するのを拒むなか、凛の身体は戦慄に震えた。
「千代! 千代! 千代丸!」
凛が駆けつけると千代丸はカイに身を預けたまま弱々しく笑った。
「何か、おかしいんだ……脚が動かないんだよ。まるで、脚がないみたいに……情けないよね……こんなんじゃ、サンとダニエルに怒られちゃうよ……あと……父上にも……」
凛とカイには分かっていた。背骨を酷く傷付けたその銃創は致命傷だと。出血も酷く、ここまで逃げてくることが出来たのも信じられないくらいだ。
「ち、千代……」
凛は顔に張り付いた千代丸の長い髪をかき上げた。汗でぐっしょりと濡れているにもかかわらず、蒼ざめたその頬はとても冷たい。涙で滲む凛の視界に、カイの膝に頭を載せた千代丸の目がゆっくりと閉じていくのが入った。カイは歯を食いしばり、泣き声を上げそうになるのを必死に堪えている。
「ねぇ! 千代……起きて!」
凛が呼び掛けると、弱く長い息を吐いて千代丸は目を開けた。しかし涙で満たされたその目は虚ろだった。
「あ……姉上、見える……見えるよ……」
「えっ?」
凛は千代丸の視線を追って振り向いた。しかしそこには静まり返った湖面と、遥か遠くの山々の峰が霞んで見えるだけだ。凛は千代丸に向き直った。
「何が見えるの? 千代……」
「ほら、皆いるよ。父上も母上も……兄上達も……皆笑ってる。家もそのまま、山も小川も……桜も……」
千代丸は幸せそうに微笑んだ。微かに細めた目からは今にも涙が零れそうだ。
「帰りたいなぁ……ずっと、ずっと……帰りたかったんだ……」
凛はこれまで、ずっと自分が千代丸のことを守っているものだと思っていた。弟を守るのが姉である自分の役目だ、と。でも、そうではなかった。実際は自分が千代丸に守られていたのだと、今この時になって気が付いた。
千代丸はもうずっと昔に故郷のことなど忘れたのだと思っていた。いつも前向きな千代丸にとっては今が全てなのだと。二人きりになったあの時から、千代丸は一度も故郷のことを話さなかったからだ。きっとそれは凛のため。泣き言を言って姉を困らせないように。そうして望郷の想いを胸に閉じ込めて明るく振舞っていたのだ。
凛は流れる涙を止める術もなく、震える唇で言葉を紡いだ。
「帰れるよ……いつか一緒に帰ろう。千代……だから、お願い……」
その言葉に安心したように千代丸は薄っすらと唇に笑みを浮べて目を閉じた。両の目から一筋ずつの涙が、蒼ざめていてもなお美しいままの顔を伝ってカイの膝に落ちていく。
「千代! 千代!」
凛はもう二度と聞くことの出来ない愛おしい千代丸の声を求めて、両手でその頬を包み込んだ。
カイと凛は焚き火の前に並んで座っていた。赤い炎が湖の際を微かに照らし、時折暗闇の中からブルルッと二頭の馬の鼻息が聞こえる。あまりにもくっきりとした三日月が、夜空の黒い幕に出来た裂け目のように浮かぶ。二人は押し黙ったまま、乾いた音を立ててはぜる炎を見つめているだけだ。
血の匂いは夜の獣を引き寄せる。汚れた服は湖水で洗い、背後に立つ松の木の枝に干している。凛は馬の背に積まれていた兵士の外套で身を包み、地面に敷いた軍の野営用の毛布の上で背を丸めていた。もう一頭の馬に積まれていた毛布は千代丸を埋葬する時に遺体をくるんだため、カイは腰帯だけの格好で膝を抱えている。
暗闇の中で赤く燃える焚き火を見ていると、この世界に二人だけが取り残されたような気になってくる。実際そうなのだろう。この国に安住の地などない。
凛はどうしてこんなことになってしまったのだろうと考えていた。
「サンが私達を拾ったから? ううん、違う……」
今まで、死んでしまってもおかしくないようなことはいくらでもあった。その度に助けられてきた。生かされてきたのだ。周りの大切な人達を奪われながら。そう思えてならない。
その時風が吹いた。メスキートがざわざわと音を立て、揺れる炎に照らされた部分の水面にさざ波が立ったのが分かった。凛は凍えるような冷たい風に肩から被った外套が飛ばされないよう両手でしっかりとかき合わせ、身体をさらに丸めた。
風は全てを奪い去っていく。こんなに小さな身体の体温さえも。凛は部族の言葉を思い出していた。彼らの言う通り、風には目的があるのならば、小さな人間など風が起こす大きな波に飲み込まれていくだけだ。そんなものに抗えるはずもない。
凛は月を見上げた。自然の物はいつまでもそこにあるのに、自分はこうして流され続けている。
「父上……」
凛はもはや顔も思い出せない父親に心の中で呼びかけた。
「結局……千代丸を守ることも出来ませんでした。私には波を泳ぎきることなど出来ません……もうすでに、溺れてしまっているのでしょう……」
幸せな時間は、それが貴いということにも気付かずに通り過ぎる。凛はまだ幼い頃の、家族が全員揃っていた日々に想いを馳せた。何もかもがありきたりで、些細なことは些細なこととして通り過ぎたが、今思えば何を投げ打ってでも取り戻したい時間だ。
そしてロンドンで過ごしたクリスマス。クリスティーナが貸してくれた詩集を夢中で読んだ日々。
ふと月光に照らされたサンの姿が胸に浮かんだ。儚く消えた初めての恋。それでもずっと見つめていたかった。そしてミアやウナ、ダニエル達との山の暮らし。
それらの思い出の全てに千代丸の笑顔があった。千代丸がいたからこそ、この長い旅路を歩くことが出来たのだ。それなのに。身体中を針で刺されたような痛みが走り、凛の目から涙がこぼれ出す。
「ごめんな……リン」
それまで押し黙っていたカイが、膝を抱え炎を見つめたまま口を開いた。凛は涙を拭ってカイを見た。赤銅色の痩せた身体が小刻みに震えている。寒さのせいだけではないのだろう。
「け、結局……誰を守ることも出来なかった。皆死んじまった。戦士になりたいなんて言って……サンの言うとおりだったんだ。俺には無理だったんだ……」
カイが悔しさに歯を軋らせる音が聞こえた。
凛は身を包んでいる外套の端を胸の前で片手で押さえると、もう片方の端を広げてカイの肩に掛けようとした。しかしカイは身を引いた。外套の下は裸である凛を見ないように顔を背けている。
「い……いいよ。平気だよ」
そう強がるカイの肩はとても冷たくて凛は不安になった。
「カイ、お願い。朝になった時、この寒さであんたが凍えて死んでたら……それこそ私、どうしていいのか分からなくなる……」
馬に積まれた荷物の中に、外套は一枚きりだった。他に身を包む物はない。カイは俯くと、黙ったまま凛に身体を寄せた。
一枚の大きな外套に二人で包まり炎を見つめた。カイにとっても、生まれた時から共に生きてきた部族の者を全て失ったのだ。今は家族もなく、家もない。
「それでも、カイは私を助けてくれたわ……そうでしょう?」
カイはゆっくり凛へ顔を向けた。苦しそうに眉間に皺を寄せたかと思うと、外套の下の腕を凛の肩に回して強く引き寄せた。
「お、俺はサンみたいに強くないし……ダニエルみたいに物知りでもない。もう、戦士なんかどうでもいい……戦士じゃなくてもいいから……でも……それでもリン、お前のことだけは……何があっても守りたいんだ……」
絞り出すような言葉を、凛はカイの頬に額を付けたまま聞いていた。
胸が疼き熱い涙が込み上げてくる。いつからか自分は、カイのこんな言葉を待っていたのだと気が付いた。凛はこくんと小さく頷くと、そのまま目を閉じた。
真夜中過ぎ、居留区の境界線を越えたダニエルは奇怪な音を聞いた。胸騒ぎを覚えながら、遠くにぼんやりと浮かび上がるティピィーの群れへ向かう。しかし、その途中で足を止めた。いつもなら見えてくるくすぶる焚き火の残り火もなく、ここに溢れているはずの命の息吹すらも全く感じられない。再びあの音が聞こえた。それは岩やティピィーの間を吹き抜ける風の唸り声か、それとも……。ダニエルは商人の荷馬車から盗んできた干し肉の入った包みを足元に落とし、ティピィーが連なる集落へと走り出した。
辿り着いたダニエルは、そこで目にした光景に呆然と立ち尽くした。
「だ……誰か、誰かいないのか?」
生きている者がいないというのはすぐに分かったが、それを信じることを拒否した心が無意識に呟いていた。人の形をしたものはたくさん転がっているが、もちろんダニエルに応える声はない。猛り狂うように強さを増した風が死者の嘆きを運んでくるだけだ。
折り重なって半分砂に埋まっているウナとミアの傍で、ダニエルの膝は力なくくず折れた。地面についた掌に何か固い金属があたる。ダニエルはその空薬莢を砂ごと震える拳で握り締めた。




