第15話 ただいま、と言える場所
停戦が成立したのは、翌日の昼だった。
条件は単純。
人間軍は撤退する。魔王軍は追撃しない。
エイル・フォスターの指名手配は取り下げる。
今後、双方の領域を尊重し、必要に応じて対話の場を設ける。
ルシェラとレクスが書類に署名した。
フィオナが人間側の証人。モルテが魔族側の証人。
形式的なものだ。
だが、千名の軍勢を向けた戦いが、紙一枚で終わった。
それでいい。紙一枚で終わるなら、それが一番だ。
◇
署名の後、城の中庭でレクスと最後の言葉を交わした。
「エイル」
「何だ」
「カインを——探す。妹ごと」
「……そうか」
「それくらいしか、俺にできることがない」
レクスの顔は疲れていたが、昨夜の空洞はなかった。
何かを決めた人間の目だ。
「勇者を辞める。教会とも縁を切る。——その後のことは、まだ分からないが」
「分からなくていいだろ。歩きながら考えろ」
レクスが——笑った。
初めて見る笑い方だった。
力の抜けた、不器用な笑い。
「……お前、変わったな」
「お互い様だ」
レクスが手を差し出した。
俺はその手を握った。
三年間の終わり。
そして——別の何かの、始まり。
フィオナが隣に来た。
「エイル。——元気でね」
「ああ。フィオナもな。レクスの手綱、しっかり握っとけ」
「言われなくても」
フィオナが小さく笑った。
初めて見る笑顔だった。いつも無表情だと思っていたが——笑うと年相応に見える。
「またね」
「ああ。また」
二人の背中が城門から遠ざかっていく。
その向こうに、教会軍の残りが整列していた。
振り返ることなく、去っていった。
◇
午後。
城の玉座の間に呼ばれた。
ルシェラに連れられ、長い廊下を歩く。
「魔王様がお呼びよ。初めての対面ね」
「……今さらか」
「あの方は気まぐれだと言ったでしょう。ようやく"その気"になったのよ」
玉座の間は、想像よりも小さかった。
黒い石の壁。高い天井。窓から差す光。
奥に——玉座がある。
そこに、少女が座っていた。
小柄だ。見た目は十歳ほどか。
銀色の髪が床に届くほど長い。
瞳は深い紫。肌は白く、額には小さな角が一本。
黒いローブに身を包み、玉座の上で足をぶらぶらさせている。
——これが、魔王。
「余がヴィーラだ。お前がエイルか」
声は高い。少女の声そのもの。
だが——その瞳の奥に宿る色は、千年の重みを感じさせた。
「エイル・フォスター。回復術師です」
「知っておる。余の城を好き勝手に使い、四魔将を全員手懐け、挙句に敵の勇者まで説教して帰した男だろう」
要約が正確すぎる。
「余は甘いものが好きなのだ。エイル、お前は菓子は作れるか」
「……は?」
「作れぬか。残念だ。ならば今度、リコに教えてもらえ。あの子はクッキーがうまい」
話が飛んだ。
横を見ると、ルシェラが「いつものことよ」という顔で微笑んでいる。
「エイル」
ヴィーラの声が、ふっと低くなった。
少女の声のまま——だが、空気が変わった。
「お前は千年ぶりに、この城を面白くした。余は退屈が嫌いでな。——おるがよい。好きなだけ、この城に」
それは命令のようで、許可のようで、歓迎のようだった。
「……ありがとうございます」
「礼は菓子で返せ」
ヴィーラの口元が、にっと笑った。
千年を生きた魔王の笑顔は——ただの、いたずらっ子だった。
◇
玉座の間を出て、廊下を歩いた。
城の日常が戻りつつある。
兵士たちが城壁の修復をしている。
食堂からいつもの喧騒が聞こえる。
東棟の角で、リコが待っていた。
「先生! お腹空きましたか!? 食堂に先生の席、確保してあります!」
「ありがとう、リコ」
「えへへ」
尻尾がぶんぶん振れる。
食堂に向かう途中、ガルドとすれ違った。
胸の傷は完治している。
「よう、至宝殿。今夜も飲むか」
「その呼び名はやめろと何度——」
「はっはっは!」
廊下が揺れた。
食堂に入ると、ルシェラが奥の席にいた。
茶を飲みながら、こちらを見ている。
「お疲れ様。——座りなさい」
「ああ」
席に着くと、窓際に影が見えた。
セリカだ。
食堂に来ている。いつもは北棟にいるのに。
目が合った。
セリカは一瞬顔を逸らし——それから、不機嫌そうに(だが足は止めずに)こちらに歩いてきた。
「……隣、空いてる?」
「空いてる」
セリカが隣に座った。
両翼を畳み、背筋を伸ばして。
「エイル」
「何だ」
「……別に。何でもない」
紅い瞳が俺をちらりと見て、すぐに逸れた。
耳が赤い。
モルテが食堂の入口に立っていた。
仮面はつけているが——口元が見えている。
微かに、笑っている。
俺は食堂を見渡した。
ガルドが酒を注文している。
ルシェラが茶を飲んでいる。
セリカが隣で黙って座っている。
リコが料理を運んでくる。
モルテが入口から見守っている。
一ヶ月前。
俺は勇者に捨てられ、灰の荒野を一人で歩いていた。
行く場所もなく、持ち物は空の水筒と乾パンだけだった。
今——
テーブルには温かい食事がある。
隣には仲間がいる。
この城には、俺を待っている人たちがいる。
「先生、はいどうぞ! 今日のスープは特製です!」
リコが湯気の立つ碗を置いた。
口にすると——美味い。
何の変哲もないスープだが、不思議と沁みる。
窓の外に赤い月が見えた。
最初の夜から、ずっとそこにあった月。
でも今は——一人で見ていない。
「……ただいま」
呟いた声は、たぶん誰にも聞こえていない。
でもリコの尻尾が揺れ、セリカの翼が微かに動き、ルシェラが薄く微笑んだ。
——聞こえていたのかもしれない。
俺の名前はエイル・フォスター。
元勇者パーティの回復術師。
今は——魔王軍の、ただ一人のヒーラー。
ここが、俺の居場所だ。




