第1話 さようなら、勇者様
街道の端に、荷馬車が停まっていた。
午後の陽射しが白い砂利道を焼いている。
虫の声がうるさい。
こんな何でもない風景の中で、俺は勇者に捨てられた。
「——お前はもう必要ない」
レクス・ヴァルディアが言った。
聖剣を背負い、金の髪を風に遊ばせて。
勇者というのは絵になるものだな、と場違いなことを思った。
「エイル。聞いてるか」
「……聞いてる」
三年だ。
三年間、この男の背中を追いかけた。
傷を塞ぎ、毒を抜き、骨を繋いだ。
俺の回復魔法がなければ死んでいた夜が、少なくとも十二回はある。
「理由を聞いてもいいか」
「火力が足りない。回復だけの奴を連れて歩く余裕がなくなった」
レクスは俺を見ていなかった。
視線は街道の先——次の町の方角に向いている。
もう、俺のことは終わった話なのだろう。
「カイン」
俺は後ろに立つ大男を見た。
斧使いのカイン・バレット。
パーティの中で唯一、俺に「さん」を付けずに話しかけてくれた男。
カインは口を開きかけた。
けれど、レクスが振り向いた瞬間、その唇が閉じた。
大きな体が強張っている。
拳を握っているのが見えた。
——言いたいことがあるのに、言えない。
その顔を見れば分かる。
「フィオナ」
魔導士のフィオナ・リーデルは、荷馬車の幌に寄りかかったまま視線を逸らした。
長い銀髪が顔を隠す。
唇が何か動いたように見えたが、声にはならなかった。
——ああ、そうか。
分かっていた。
分かっていたけど、確かめたかっただけだ。
誰も、俺のために声を上げない。
「……了解した」
言葉は思ったより静かに出た。
怒りも悲しみも、たぶんもう少し後になって来るんだろう。
今はただ、足の裏が冷たかった。
「荷物は?」
「自分のものだけ持っていけ。馬車は置いていく」
自分のもの。
革の肩掛け鞄がひとつ。
中身は替えの下着と、乾パンが四枚と、空の水筒。
三年間の報酬は、ほとんどパーティの経費に消えていた。
俺は鞄を肩にかけ、背を向けた。
「どこに行くんだ」
レクスの声が追いかけてきた。
この男は今さら何を聞くんだろう。
「さあ。勇者様に必要ないなら、必要ない方向に歩くよ」
返事は聞かなかった。
靴底が砂利を踏む音だけが、しばらく続いた。
◇
灰の荒野に入ったのは、日が傾き始めてからだった。
正確には「入った」というより「気づいたら踏み込んでいた」が正しい。
街道を外れ、草がまばらになり、やがて地面の色が灰色に変わった。
ここは人間領と魔族領の緩衝地帯だ。
どちらの国も管理していない。
つまり、誰も助けてくれない場所だ。
喉が渇いた。
水筒は空。
乾パンは歩きながら二枚食べたが、残りは明日のためにとっておかないといけない。
足が重い。
孤児院を出てからずっと、俺は誰かの後ろを歩いてきた。
冒険者パーティに拾われ、レクスのパーティに移り、ずっと「誰かの後ろ」だった。
今、初めて自分だけで荒野を歩いている。
膝が震え始めた。
体力の消耗じゃない。
いや、それもあるが——それだけじゃない。
怖い。
この先に何もないことが、怖い。
膝から力が抜けかけた、その時だ。
地面に、何かが転がっていた。
最初は岩だと思った。
だが岩は呻かない。
「——ぅ、ぁ……」
近づいて、息を呑んだ。
魔族だ。
小柄な体。灰色の肌。額に小さな角が二本。
胸から腹にかけて深い裂傷があり、黒っぽい血が砂に染みている。
目は閉じている。呼吸は浅い。
魔族は敵だ。
神殿で習った。学校で習った。冒険者ギルドで叩き込まれた。
——滅ぼすべき存在。
俺の右手が、勝手に光った。
考えるより先に体が動いていた。
手のひらを傷口の上にかざす。
回復魔法が流れ込む。
裂傷が塞がっていく。
骨が繋がる振動が、手のひらを通じて伝わってきた。
重い。
体力が削られる。
回復魔法は術者の生命力を対価にする。
疲弊した体でこれをやるのは無茶だと、頭では分かっている。
それでも手は止まらなかった。
目の前で誰かが死にかけている。
それが人間だろうが魔族だろうが——俺の手は、傷を見れば光ってしまう。
昔からそうだ。
治療を終えた時、俺の視界が一瞬白くなった。
膝を突く。
意識が遠い。
「——あら」
声が降ってきた。
顔を上げると、女が立っていた。
長い黒髪。紫色の瞳。
背が高い。俺より頭半分は上。
黒い軍服のような装いで、腰に細身の剣を佩いている。
額には——魔族の証である角。
ただし角は一本で、磨いた黒曜石のように艶がある。
彼女は地面に横たわる魔族兵を見て、次に俺を見た。
紫の瞳が、右手甲の紋章を捉えたのが分かった。
「人間。それも、神殿の紋章持ち」
声は低く、落ち着いていた。
敵意は——感じない。
少なくとも、今すぐ斬りかかってくる気配はなかった。
「……この兵士は、あなたの部下か」
俺は息を切らしながら聞いた。
「偵察隊の一人よ。三日前から連絡が途絶えていた」
女は片膝をつき、魔族兵の脈を確かめた。
そしてゆっくりと目を見開いた。
「傷が——塞がっている」
「……回復魔法だ。俺の」
沈黙が落ちた。
女は俺の顔をじっと見つめた。
値踏みとも、驚きとも取れる視線だった。
それから、薄く笑った。
「人間に捨てられたヒーラーが、魔族を治す。面白い夜ね」
なぜ捨てられたと知っている。
そう聞こうとしたが、たぶん見れば分かるのだろう。
装備もなく、満身創痍で、荒野をひとりで歩く回復術師。
捨てられた以外に理由があるか。
女が立ち上がった。
そして、俺に手を差し出した。
「第一魔将ルシェラ。魔王軍の幹部よ」
「……エイル。エイル・フォスター。ただの回復術師だ」
「ただの回復術師。そう——」
ルシェラの紫の瞳が細められた。
「うちに来なさい、エイル。あなたの手が必要な場所がある」
失うものは何もなかった。
行く場所もなかった。
振り返れば、俺を追い出した街道がある。
前を向けば、魔族の手が差し出されている。
俺は、その手を握った。
冷たいと思っていた。
けれど魔族の手は、乾いていて、少しだけ温かかった。
「行きましょう」
ルシェラが歩き出す。
俺はその背中を追った。
——また、誰かの後ろを歩いている。
でも今度は、自分で選んだ背中だ。
灰の荒野の向こうに、赤い月が昇り始めていた。




