一 遅過ぎる出会い
四月。学年を一つ上げ、俺は高校二年生になった。
新しい出会いへの期待に胸を膨らませながら、始めの数週間は通い慣れた通学路を新鮮な気持ちで歩いていた。
しかし、四月の半ばに差しかかる頃には、新しくできた友達との交流すらもすっかり日常の風景と化していた。
「で、栄治は誰がこのクラスで一番かわいいと思う?」
聞こえてきた声に、物思いに耽っていた意識がはっと現実に引き戻された。
喧騒に包まれた教室の片隅に集まった、俺、新町明日葉、川崎大志、尻手幸三の男子四人組。
新町明日葉はその中でも最も付き合いの長い友人だ。中学校が同じであり、放課後には何度も一緒に遊んだ仲だ。
だが今の彼は一年の頃からサッカー部のエースを務めており、その上、生来の顔の良さも相まって、自分が同じグループに属していることが不思議なほど眩しい存在となっていた。
そんな彼に振られた質問に対し、俺は「そうだな」と曖昧に返事をした。頭に誰の顔も浮かんでこなかったのだ。
教室を見渡し、返答に頭を悩ませた。時々、常識的な基準で判断してかわいいと思える顔をしている女子を見付けるのだが、その度にふと思う。
名前何だっけ?
まだ新しいクラスになって二週間ばかり。一人ひとりがどんな人間かなどほとんどわかっていない。
「正直、まだ女子の顔と名前が一致してないんだけど」
俺の正直な返事を聞いた明日葉の顔は、みるみるうちに困惑したものへと変わっていく。
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「まじかよ!? もう二週間も経ってるぞ」
明日葉の驚きの声を聞き、川崎と尻手が小さな笑い声を上げた。
そして川崎は眼鏡の位置を手で直しつつ、笑いで乱れた呼吸を整え、彼の口癖とも言える言い回しでこう言った。
「栄治はあんまり他人に興味なさそうなタイプだもんな」
川崎の指摘に少し引っかかる気持ちはあるものの、言われてみれば確かにそうなのかもしれないと思った。二週間でまともに顔と名前が一致したのは、いま目の前にいる川崎と尻手しかいない。これは普通の人の基準から考えると、あまりに少ないのだろう。
一方、尻手は俺の返答がよほど気に入ったのか、なかなか笑いが止まらずにいた。ようやく止まったかと思えば、攻めの好機と思ったのか、彼の口から一気に言葉があふれてくる。
「さすがに顔と名前が一致してないは言い過ぎだろ。本当はかわいい子言うのが恥ずかしいんじゃねえの。それとも女子に興味ないとか。あっ、実は初恋もまだなんじゃね?」
尻手のからかうような言い方に、「そんなことは」と反発する気持ちでつい口走る。だがしばらく思考を巡らせて、思い当たる人物が一人もいないことに気が付いた。
「・・・・・・ある?」
俺がそう答えた途端、何かが三人のツボに入ったのだろう。
突然大きな声で笑い出したので教室中の注目を集めてしまい、とても恥ずかしかった。
三人の笑いが収まった後、悔しくなった俺は同じ問いを彼らに投げ返す。
「そういうお前らは、このクラスで誰が一番かわいいと思うんだよ」
するとすぐに、明日葉が「そりゃもちろん、浜川咲、一択だな」と答え、川崎と尻手もそれに同意した。
「確かに。かわいい系というよりは美人系の気もするけど」
「部活の先輩もみんなかわいいって言ってるくらいだしなあ。ほら、去年の文化祭のミスコンにも出てただろ?」
そんな美人がうちのクラスにいただろうかと記憶を掘り返していると、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
川崎と尻手が自分の席へと戻っていき、俺も自分の席に戻ろうと歩き出した瞬間、ぽんっと肩に手が置かれた。振り向かなくても明日葉のものだとわかった。
「お前は席が近くて羨ましいぜ」
何の話だろうか。
そう考える間もなく、早く席に戻れというように明日葉に背中を押された。
まあいいか。
俺は、素直に自分の席に戻った。
チャイムが鳴り終わる前に、教科担当の教師が教室に入ってきた。そしてすぐに授業開始を告げる挨拶した。あらかじめ座席の列ごとに配る分のプリントをまとめていたようで、生徒全員が席に座るのも待たずに紙の束を列の先頭の生徒達に配り出した。
今日は教える内容がたくさんあるから、先生は急いでいるのだろう。
そう思いつつ、プリントが前から回ってくるのを教室の女子の顔を一人ひとり確認しながら待っていた。
三人が口を揃えて言うほどの美貌の持ち主ならば、すぐにわかると思ったのだ。
口々に絶賛するほどかわいい女子とは一体誰なのだろうか。
視線をあちらこちらに向けているうちにプリントが回ってきて、「はい」という柔らかく澄んだ声が聞こえてきた。
前の席の人、こんな声だったのか。
そのような感想を抱きながらプリントを片手で受け取ろうとしたが、振り返った女子生徒の顔を見た瞬間、動揺のあまり紙が手から滑り落ちてしまった。
「あっ、ごめんね」
彼女のせいではけしてないのだが、そんな詫びの言葉を添えて、前の席の少女は床に落ちたプリントを拾ってくれた。
そこでホコリが紙に付着したことに気付いたようで、拾った紙ではなく自分の机の上にあった綺麗なプリントを俺に対して差し出した。
「はい」
「・・・・・・あ、ありがとう」
今度は落とさないように、渡されたプリントを両手でしっかりと受け取った。
そして、新学期になりおよそ二週間が過ぎたこの日。初めて、前の席に座る人物をまじまじと観察した。
優美な曲線で縁取られた顔立ち。それが生み出す好感を抱く朗らかな笑み。笑う姿は確かにかわいらしいと感じたが、よく観察してみると顔の作りは美形のそれだ。
明日葉に言われた言葉を思い返し、ああそういうことか、と一人で納得した。前の席に座る女子こそ、噂の浜川咲その人なのだ。
こんな人物が目の前にいたのにもかかわらず、二週間もの間全く気付かなかった自分は、いよいよ本当に他人に興味がない人間なのかもしれない。
川崎の指摘が、今になって重く胸にのしかかった。
今日の授業はテストに出すからしっかりと覚えるように、と言われたような気がしたが、肝心の授業内容は全く頭に入らなかった。
というのも、俺の意識は常に前の席の女子、浜川咲へと向けられていたからだ。
授業時間の大半を浜川咲の観察をして過ごしていたところ、ふと手にちくちくとした痛みを覚え、意識が自分の手へと向いた。
視線を動かすと、隣の席の人物のシャープペンシルの先端が、俺の手の甲をつついていた。
「痛いんだけど」
隣の席に座る女子、平昭和香はにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。
彼女とは一年生の頃からの付き合いであり、俺が交流を持つ数少ない女子の一人である。
「さっきから見過ぎ。サキちんに惚れちゃった?」
ギリギリ隣に座る俺に聞こえるくらいの小さな声で彼女はからかってきた。
わざわざ隠すことでもないと思い、俺は本当のことを話した。
「いや、さっき初めて顔と名前を知ったんだよね」
人間としての異常性を自覚しつつ罪悪感から小声で答えると、いじってやろうと緩んでいた平昭さんの頬はきゅっと引き締まり、どこか蔑むような目で俺を見た。
「それは正直引くわ・・・・・・」
シャーペンで人の手をつついて喜んでいた人間に言われるようなことではないと思ったが、正論だったので非難することはできなかった。
「実際俺も驚いてる。まさかここまで自分が人に関心がないのかって」
「人に関心があるとかないとかそういう問題じゃなくない? 二週間もこの席なんだから普通顔くらいわかるでしょ。しかも私とサキちんよく話してるじゃん。そこで私が名前読んでるの小田は聞いてるはずだよね?」
正論の拳が胸に刺さり、痛みで身が小さくなってしまう。
「えっと、ごめん」
うなだれる俺を見て溜息をついた平昭さんは、上手く聞き取ることができないほど小さな声で、恐らく「私に謝ることじゃないだろ」と呟いたかと思うと、前の席の浜川咲の背中を指でつついた。
「サキちん。聞いてたんでしょ。一言いってやりな」
浜川咲が俺と平昭さんとの会話を聞いているという可能性を全く考慮していなかった俺は、顔から一気に血の気が引いていくのを感じ、そして心臓の鼓動がうるさいほどに大きくなっていることに気が付いた。
嫌な予感がして今すぐこの場を離れたくなるが、授業中である今の状況がそれを許すはずもない。
黒い感情がその下に隠れているとしか思えない笑みを携えて、浜川咲はゆっくりとこちらを向いた。
「まあ、確かに私達ほとんど話したことないし。別に気にしてないよ」
だったら心では笑っていないのに顔だけは笑っているというのはやめてほしい。
そんなことは口が裂けても言うことができず、本当にごめん、と授業の邪魔にならない範囲の声量で謝り続けることしかできなかった。
* * * * * *
高校生の一日は放課後から始まる。
誰がそんなことを言ったのかは知らないが、最も楽しい時間の一つである部活動が放課後に行われるというのは、揺るぎない事実であろう。
俺はバスケットボール部に所属しており、正直選手としてはかなり下手なのだが、練習にはついていくことができていた。
そんなバスケの練習中のちょっとした待ち時間。
中学からの友人であり、部活仲間でもある八丁綴人に何気なくこう聞いてみた。
「浜川咲って知ってる?」
「知ってる。栄治のクラスにいるだろ?」
川崎から人に関心がないと言われてしまった俺の目から見ても、綴人は交友関係の狭い人間であった。それ故、きっと彼は浜川咲のことを知らないだろうと密かに期待していたのだ。
だが、予想外の返しをされて、俺は言葉を失っていた。
「あれ、違ったっけ?」
「い、いや、同じクラス」
「そう。で、その浜川さんがどうかしたの?」
「別にどうしたこうしたという話じゃないんだけど・・・・・・」
「おっ、来たぞ。次、俺ディフェンスな」
見ると、前の組がバスケットコートからはけていき、自分達の組の順番が回ってきた。
現在行っている練習は、バスケットコート一面の縦半分を使い、攻撃側がゴールを狙い守備側がそれを阻止する「オールコート1on1」と呼ばれるものだ。
攻撃側はゴールへと向かうスポーツであるというバスケットボールの性質上、攻めるゴールに近く攻撃側の移動方向が読まれやすい方のコートの半面、通称フロントコートよりも、攻めるゴールから遠く移動方向が読まれにくい方のコートのもう半面、通称バックコートの中では比較的攻撃側は守備側を突破しやすい。
だが、俺が浜川咲のことで集中力を欠いていたのだろう。俺が攻撃を行う手番が終わるまでにバックコートで二回、フロントコートでも一回の計三回、綴人にボールを取られる羽目になった。
最後は精神的にぼろぼろになりながらシュートを放ち、案の定ボールはリングに弾かれてしまった。
「もっとボール運び練習しないとな」
綴人は笑っていたが、技術以前の問題であることに気付いていた俺は、彼に対し申し訳なくなっていた。
守備側はボールを奪えば攻撃側になるので、本来一度でもボールを取られれば攻撃側の負けとなる。俺がゴールに向かってシュートを打つまで挑戦できたのは、純粋に綴人の優しさによるものだ。
手番を終え、再度練習に取り組むために順番待ちの列に並ぶと、綴人が心配そうな表情で話しかけてきた。
「さっきの話だけど、その浜川さんと何かあったのか?」
「何かあったというか、何もなかったというか」
「栄治がその浜川さんに振られたとかそういう話?」
あまりに予想外の発言に、思わず発した「え!?」という驚きの声が裏返ってしまった。
話の流れから考えて、恋愛方向に意識が向かう可能性は容易に想像できる。だが、俺自身がその可能性を全く意識していなかったので、つい驚きの声を上げてしまったのだ。
「全っ然! 全くかすりもしない」
「あそう。じゃあ何があったの?」
「ああ、ええ、実は・・・・・・」
言い淀んでいるうちに自分達の番が回ってきた。
この話がよほど気になったのか、それとも圧倒的な実力差のためか、綴人は鋭い攻めで俺の守備を突破し、シュートを決めた。
電光石火の速さで手番を終わらせ、彼はすぐに列に並び直す。
「言い辛いことなら無理をしなくてもいいんだが」
心配してくれる綴人を横目に、後に来る非難の言葉に耐える覚悟を決めながら、俺はゆっくりと返事をした。
「実は、うちのクラスに浜川さんがいることに、今日初めて気が付いたんだ」
「は? 今日?」
綴人は、まさに開いた口が塞がらないといった様子の表情になった。
「うん」
「初めて?」
「そう」
一呼吸の間が空き、突然噴き出したかと思うと、堪え切れなくなったのか、綴人は笑い声を漏らした。
「今日気付いたっていくらなんでも遅過ぎだろ。俺でも二週間あればクラス全員の顔を覚えられるぞ」
不思議と綴人の笑い声に対し不快感を抱くことはなかった。彼の屈託のない笑顔を見て、俺の強張っていた頬の筋肉も少し緩んできた。
「本当に? じゃあクラス全員の名前言える?」
「いや、それは無理だな」
綴人が即答したために、つい口から笑いの吐息が漏れてしまった。
「やっぱり!」
「いやいや、普通無理だろ」
綴人との他愛もない会話を通して、俺はいくらか気が楽になっていた。
クラスメイトの顔と名前が一致しないという、人として底辺いる者同士の慰め合いではあるが、自分の中にある罪悪感を薄めてくれるには十分だった。




