一話、トカゲ・ナイト
「クソ息子を呼べえーッ!!」
その日、石造りの屋敷を震わせる怒声が、暗く冷たい廊下の隅々まで響き渡った。
執事に呼ばれた執務室の前で、息子のライアスの胸の奥では嫌な予感が渦巻いていた。
「ライアス様……」
従者のアリアがそっと袖を掴む、その指が小さく震えている事に気付き、彼は精一杯の笑顔を浮かべて囁いた。
「大丈夫だ」
その言葉は、次の瞬間父親の怒鳴り声で打ち消された。
「四百年に一度の英雄だと!? 王都では祭り騒ぎだったというが、現実はどうだ! トカゲすら従えられん無能がドラゴン・ナイトだと? ふんっ!」
父親のベルナール伯爵は机を叩き、吐き捨てるように怒鳴った。
息子のライアスは床に片膝をつき、悔しさに俯いて唇から薄っすらと血を滲ませている。
――わずか二年。
華やかな凱旋の時、彼は自信に満ち溢れていた。
人々の羨望の視線を浴び、王女に婚約を匂わせられ、「自分は特別だ」と本気で思っていた。
しかし現実は残酷だった。
スキルのレベルを上げる為、冒険者を雇い何度もダンジョンに挑み、魔物の使役に挑戦したが全て失敗。
いつの間にか、領民の間でも噂が広がり「トカゲ・ナイト」の蔑称で囁かれるようになった。
はじめは耐えていた。
だが失敗を重ねるごとに、夜は眠れなくなり。
気がつくと壁を殴り、拳から血を流す毎日。
最近では、些細なことからすぐ声を荒げ、他人を突き飛ばしては喧嘩になっていた。
自分でも止められない。
気が付くと強く握った掌に血が滲んでいた。
「父上……もう一度だけ、機会を……」
震えるように、喉の奥から声を搾り出す。
「黙れ……お前にはもう十分に金と時間を与えた」
この二年で使った金が、既に領地の歳入の三割に達していた。
後ろでは兄達が、冷淡な目で見ながら薄笑いを浮かべている。
王都から持ち帰った嘲笑の種を、楽しそうにばらまいているのだ。
最後の試練にも失敗した今、父親の堪忍袋の緒は完全に切れていた。
「出て行け、家名は剥奪する! お前は只のライアスだ! 二度とこの家の門をくぐる事は許さん!」
「待ってくれ父上! キャサリーンとの婚姻は?! 第三王女との婚約がまだ……!」
父親は冷笑を浮かべ、机の引き出しから一枚の書状を取り出した。
「キャサリーン王女は無事に侯爵家のマグワイヤ殿と御婚約なされた。
お前はただの笑いの種だったようだな、我がカーバイト家まで良い笑い者にされたよ」
愕然とするライアスの耳に、感情のない声が突き刺さる。
「この穀潰しめが……」
その時、アリアが必死に声を上げた。
「待ってください! ライアス様は必死にスキルのレベルアップに励んでいらっしゃいます。今一度だけ機会を……!」
「うるさい! お前も一緒に消えろ!」
父親は家令を連れて部屋を出て行った。残された二人は僅かな荷物と少しの金貨を与えられ屋敷を追い出された。
見送る使用人たちの視線が、背中に無数の針のように突き刺さった。
蔑みと安堵と、わずかな畏怖が複雑に絡み合ったその冷たい視線は、まるで彼の存在自体を拒絶し、嘲笑い、恐れ、同時にほっと息をついているかのようだった。
そんな視線から逃れるように、荷物を持ったアリアが必死に前を歩く。
冷たい風が頬を刺し、石畳を踏む音だけが虚しく響いていた。
ライアスは無言でアリアの後ろを歩いていたが、ふと荷物を奪い取り先頭に立った。
「……取り敢えず、冒険者ギルドに行くぞ」
アリアは不意の優しさに触れ笑みを浮かべるが、またすぐに厳しい顔付きへと戻っていた。
かつて英雄として通い詰めたギルドの前に立ち、ライアスは深く息を吐いた。
二年前は歓声で迎えられた場所が、今は重苦しい沈黙に包まれているように感じられ扉を押す手に汗が滲む。
扉を開こうとした瞬間、中から信じられない言葉が聞こえてきた。
『ロックリザードだかワイバーンだか知らないが、俺なら簡単にテイムしてやるよ』
気が付いた時にはギルドの中に飛び込み、話していた男を何度も殴っていた。
大勢の冒険者達から取り押さえられ、ギルド長の部屋へと連れて行かれる途中、アリアが倒れた男に駆け寄り、謝罪しながらハンカチを差し出す姿が見えた。
受付嬢や冒険者たちは、ため息をつきながらも何も言わなかった。
あの「元英雄様」が荒れているのは、最近では日常の風景になっていたのだ。
その後、伯爵家を追放され、家名も剥奪されたという話が広まると――
誰もが、かつての「英雄」など忘れたかのように、彼から目を逸らすようになっていた。




