とっておきの話
「さて、どうしようか」
エリックはのんびりとした様子でそう呟いたきり、目をつむったまま黙っている。暖炉の前の席に座った彼のテーブルから、椅子ひとつ離れた所に腰を下ろしたシエナは注意深くエリックを見た。
話すことを考えているようにも、ただまどろんでいるだけのようにも見える。
炎が訪問者の影を背後の壁に大きく映した。火が揺れるたびに、彼の影もゆらゆらと動く。それは、あばあさんのお見舞いに出かけて行った女の子の哀れな結末を思い起こさせた。
―ベッドに近づいた女の子に狼が跳びかかる。
「エリックさん」
思わずシエナの方から口を開いていた。エリックは眠そうな目でこちらを見ると、なんだい? とほほ笑んだ。やはり、まどろんでいただけのようだ。
シエナは腹立ちまぎれに怪訝な目を向けて尋ねた。
「エリックさんはどうしてこの町に来たんですか? それともどこかへ行く途中だったんですか? 」
それを聞くと彼は大きく目を見開いた。常連にシエナたちの背がまた大きくなったのではないかと訊かれたときの父親と同じ、得意げな顔だった。
「そう、僕は旅人! 旅の途中なんだ。街の東からやって来て西に向かっているんだ」
シエナは宿に訪れる巡礼者や行商人を思い浮かべたが、エリックはそのどちらにも見えない。一度、若い男が山を越えて肉屋の娘を訪ねて来たことがあった。しばらくその話でもちきりになり、冷やかされたり祝われたりした男は、彼女とこの町で暮らしているが、エリックは恋人に会いに行くようにも見えない。
「なんの旅なんですか? 」
「いろんな人に出会うための旅さ」
シエナが訝しそうな表情をしていても、エリックはのんびりと言葉を続けた。
「いろんなところを旅してきたけれど、どの人間も全く違うんだ。自分以外の人を知るのはとてもすばらしいことだよ。彼らは僕の知らないものを知っていて、見たことのないものを見ていて、そしてそれらを語ることができるんだ! 」
エリックは目を輝かせた。
「少し前のことだったかな。大きな森に囲まれた村に立ち寄ったときのことだ。妻を亡くした男が僕を泊めてくれたことがあった。彼は年老いていてひどく無愛想だったが、実に親切な人だった。その人に会う前、森を通るときに艶のある美しい毛並みが二つ木々の間を走り抜けるのが見えてね。あんまりにも綺麗だから、僕は彼に尋ねたんだよ。あれは一体何の動物だったんだろうとね。そうしたら、彼は金の鹿かもしれんと言ったんだ」
話し出すとエリックは夢中になってしまうようだった。はっと我に返ると、そうだ! とシエナに視線を戻した。
「金の雌鹿の話を聞きたくないかい? とっておきの話なんだ。どうだろう? 」
その無邪気な笑みは彼をうんと幼く見せた。その顔は不思議と懐かしい面影を持っていた。シエナは「はい」と答えていた。少女の返事にエリックも大きく頷いた。
そうだろうとも! とでもいうふうに。




