森の王国
動物は出なかった。他のものも。この物語には人間しか出てこなかった。
見えなくなってしまった男の話。シエナは首を傾げた。
「僕はこの男が好きなんだ。男だけじゃない。この話に出てくる人間全てが」
エリックの言わんとすることがよくわからない。エリックは何になりたいのだろう。
「僕は人間が好きだ。僕が本当になりたいのは人間さ」
人間になりたいだなんて、なんておかしいことを言うんだろう、とシエナは思った。けれど、エリックの声色から冗談を言っているようには思えなかった。
「さぁ、僕は話したよ。次は君の番だ」
エリックは全てを話したわけではないように感じた。キツネにつままれたような気分だ。けれど、納得がいかなくとも約束は約束だ。シエナも守らなくてはならない。
「ええ、いいわ」
母さんが生きていた頃、私たちはとても幸せだった。だから、この世にこんなに悲しいことがあるなんて知らなかった。
母さんは優しい人だった。優しくて綺麗な人だった。私がこの世で一番大好きな人だった。妹も多分そうだったと思う。母さんは私たちにいろんな話をしてくれた。そのなかでも特別な話があった。私たちによくしてくれた、とっておきの話はこうだった。
むかしむかし、と言っても長い時の流れからすればほんの少し前のこと。ひとりの女の子がいました。その子は森のお姫さまでした。彼女の王国には石で造られたようや砦のある城がなく、全ての森が城であり、家でした。森の王国は、季節の移ろいと共に山々を渡り歩く国なのでした。お姫さまは全ての森の木々たちが大好きでしたし、木々たちのほうでもお姫さまのことを尊敬していました。ですから、彼女が訪れるたびに、梢を鳴らし枝をしならせてお辞儀をするのでした。
西の森には木こりの青年がおりました。その森が木こりの仕事場でもありました。ですから、赤く、赤く、真夏の娘の頬のように木々が色を変え始める頃、木こりはお姫さまの国がこの森を訪れることを知っていました。彼は、このお姫さまに恋をしておりました。
ある日、木こりはとうとうお姫さまに結婚を申し込みました。お姫さまはとても喜びましたが、王さまはそれを許してくれませんでした。王さまはこうおっしゃいました。
「木こりと結婚するというならば、お前はこの国を出て行きなさい」
お姫さまも木こりをたいへん愛していましたから、お姫さまは王国に別れを言うことになりました。たおへん悔しがった王さまは、二人の結婚式をする夜に別の森へと旅立ってしまいました。以来、森の王国は西の森にだけは立ち寄らなくなりました。
それでも、もし王国の人々が再び訪れることがあれば心からのもてなしをしようと、お姫さまと木こりの夫婦は宿屋を建てたのでした。
その後、二回目の春が巡って来たときに、シエナ、あなたが産まれたのよ、と母さんは言った。
「あなたたちのおじいさまは王さまだったのよ。あなたたちは本当にお姫さまなんだから」
母さんが病気になって、最後に話してくれたのもこの話だった。妹も私も母さんは遠くへ行ってしまうんだってわかってた。けれど、それを言ってしまうと本当になると思って言わなかった。でも、言っても言わなくても同じだった。それはきっと決まっていたことなんだもの。
あの夜。最期の夜、妹はとうとう泣き出してしまった。何も言えずに泣きながら母さんに抱きついていた。そして、ようやくこう言ったの。私も一緒に行きたい、って。母さんは困ったように笑って言ったわ。
「でも、この体は病気になってしまったの。もう一緒にいることはできないの。だから、魔法の種の庭に撒いたわ。もし、上手く根を張ればきっとよく育ってくれるはずよ。そうしたら、私はその木になってあなたたちの傍に居ることにするの。寂しくないわ! あなたたちがその木に私を見つけられたら笑ってちょうだい。私はあなたたちの笑顔が大好きなんだから」
母さんは妹を抱きしめて、それから私も抱き寄せた。
「私たちは望めば何にだってなれるんだから」
「嘘よ」と私は呟いていた。
「嘘じゃないわ。鹿にも鳥にもなんにだってなれる。ナイチンゲールが歌ったら、それはあなたへの子守歌よ」
母さんは私にそう囁いた。




