王と古い湖
ずいぶん昔の話になる。かつてある国に気弱で優しい国王がいた。彼は人を助けることが好きだった。誰かの役に立つことが喜びだった。彼はあらゆる人々の考えに耳を傾けては、それを聞き入れ、できる限りの施しをした。良き王であろうとしたのだ。しかし、全ての願いを叶えることなどできようはずもなく、また全ての民から愛されることもできるはずがなかった。
彼の国はだんだん立ち行かなくなり、ある日ついに、国では不満を持つものや邪な願いを心に抱く者たちが、手に炎を掲げて城に押し入った。城内に火の手が上がり、王は自分の城からも、自分の国からも追い出されてしまった。
彼は重い足取りで国から遠ざかった。暗い夜の中をあてどもなく歩き続け、森の奥に湖があるのを見つけた。王はその湖の前に座り込んで途方に暮れた。
かつて自分の民であった人々とその願い、そして手に持った炎に照らしだされた人々の顔を思い浮かべてはさらに深く物思いに沈んだ。
「わしは、いつだって人に役に立とうとしてきた。本当だ。あらゆる人間が幸福に暮らせるように努めてきたとも。だというのに、どうしてこうなってしまったのだろう。全ての人の幸福がわしの幸福であるというのに」
どれくらいそうしていただろう。
気づけば森の中にも光が差しはじめていた。風が木の葉たちを揺らし、鏡のような水面を優しく走り去っていった。湖に広がった波紋がゆっくりと静まると、やがて澄んだ青空へと戻っていった。
王の悲しみは、いくらか和らいだように思われた。
「わしの国もかつて美しかった。今はもうどうなってしまったかしれん。せめて、まったく別な国になってしまっても構わないが、また美しく思われる国であってほしいものだ。この森のように。この湖のように」
王はしばらく青空を見上げていた。
「こんにちは優しい人」
突然どこからか声がして辺りを見渡したが誰もいない。
すると、声はまた王に言った。
「こんにちは。私はここです、優しい人。私はあなたの目の前にいます。どうかもっと近づいて覗きこんでみてください。あなたの驚いた顔が映ることでしょう」
声の主は湖であった。
「不思議なことがあるものだ」
「不思議だなんてことはありませんよ。優しい人、どうか私の話を聞いてくださいませんか」
「もちろんだとも。話してごらんなさい。わしにはたっぷり時間があるのだから」
王は古い湖の明るく穏やかな声が好きになった。
「私はこの森の湖として長い間この場所にいました。来る日も来る日も、ここから見えるのは同じものです。青空の天井。春の木漏れ日に、赤い森や木の葉の絨毯。雪の降る日には木々たちが白く化粧をし、時おり訪れる旅人を喜ばせます。美しい景色に違いありません。ここは静かですばらしいのに違いありません。けれど、私は美しくないものも見てみたいのです。静かでない音を聞きたいのです。私はこの森を出ていろんな者たちと出会ってみたいのです。けれど、ああ、この湖が消えてしまうと森の動物たちを悲しませます」
湖は水面を波立たせた。
「どうか優しい人、私の代わりに湖を引き受けてくださいませんか。私は旅に出るでしょう。この森で湖をしてきたのと同じ分! しかし、必ず戻ってきます。皆、誰しも自分が産まれた場所に戻るものでしょう? だからその間、私の代わりにここに居てくださいませんか」
王は湖を見た。大きく穏やかで澄んだ水がそこにある。
人々の願いを聞くのが彼の務めだったが、今はもはや王ではない。しかし、彼は湖の願いを聞き入れたくなった。
「わしにこんなに美しい湖が務まるだろうか」
「務まりますとも! 」と古い湖は言った。
王は湖の代わりを務めることにした。
古い湖は美しい青年の姿になると、深々と頭を下げて礼を言った。そして、湖はゆっくりと探るように地面を踏みしめて歩いていった。まるで歩くことそのものを楽しんでいるように。
王は初めて自分が誰かの役に立てた気がした。
湖が旅立って長い時間が過ぎたが、王は後悔していなかった。
「大勢の役に立とうというのは傲慢だったのだ。誰か一人でも、本当の願いを叶えてやれることがあるなら、それが幸福というものだ」
王は湖がどんなところを旅しているのか思いを馳せながら、彼が幸福に包まれて帰ってくる日を待った。




