昔話と扉
シエナ・マクレーンは心細かった。
灰色の雲に覆われていた空はすっかり暗くなっている。雪が風に吹きつけられ、通りの一番奥の扉を叩く。そこには、宿屋の看板が吊るされていた。
少女はその音を聞くたび、妹を背負った父親の姿を思い浮かべては扉を開けた。しかし、何度足を運んでもそこには誰もいなかった。
その日、父親は妹の熱が下がらないことをひどく心配し、医者のいる隣町に彼女を連れて行くことにした。
出かける前、父親はふり返ると昔話に出てくる決まりごとのようにこう言った。
「雪がひどくなれば、すぐには帰ってこられないかもしれない。その間、怪しい奴が来たら気を付けるんだ」
どう気をつければいいのかを尋ねる前に、彼は「とにかく店に入れちゃいかんからな」と言い残し、妹をおぶって出て行ってしまった。
シエナはすぐに後悔した。母親が死んでからはよく店の手伝いをしていたが、ひとりで留守番をするのは初めてだった。
妹の顔を見たくなかったシエナは父親の前で平気なふりをしていたが、本当はひとりでいたくなかった。少女は甘えた考えをかき消すように首をふった。もうすぐ十一になるのだから、そんなことを言ってはいられない。
吹雪はひっきりなしに扉を叩いた。
そのたび、父親が帰ってきたような気がして扉を開けてしまう。何度か繰り返すうちにシエナの体はすっかり冷えてしまった。
小さくなった火に薪を継ぎ足して指先を温める。
温かさにまどろむ少女の耳に、母親の声がよみがえる。
「私たちは望めば何にだってなれるのよ」
母親はそう言って、シエナと妹を「私の可愛いお姫さま」と呼んだ。
寒さに凍える日や心細い夜などは、母親が傍に寄り添って昔話を聞かせてくれた。魔法使いや妖精が出てくる物語や、人間が動物になったり、動物が人間になったりする物語を。そうした話を聞いている間、シエナたちは違う人間や動物になって、別の世界を訪れることができるのだった。
シエナも妹も母親から聞く話が大好きだった。母親のあの穏やかな声で、あるいは低く時おり真剣な声で語られるそれらは、まるで本当に起こったことのように思えてくるのだった。悪魔と取引をした百姓や、人食い鬼からにげた賢い少女、十一人の王子さまが白鳥になってしまう昔話が。
いちばん大好きだった話は森の王国の話だった。その話をするとき、決まって母親は「とっておきの話をしてあげる」と言って始めるのだった。
昨晩、どんなに言っても妹はゆずらなかった。
ぽつんと佇む小さな背中を見たとき、シエナは知った。もしかすると、静かに妹の頬を伝った涙を見たときかもしれない。あるいは揺るがない信頼を宿した瞳を見たときか、あの木の枝を折ったとき。いや、もっと前から、シエナはお姫さまなどではない、意地悪な姉になっていた。けれど、本当は魔法なんてなくて、誰も別の何かになれたりはしない。物語なんて嘘っぱちだから、お姫さまにもなれなければ、悪役なんてものもいない。
シエナはただのシエナ・マクレーンだった。
妹は雪が降り始めても、裏庭の気の前でひとりじっと立っていた。
ダン、ダン、ダン。
深いため息を吐いたとき、ふいに音が耳に届いた。 その日初めて聞くノックに彼女はすぐに気づかないでいた。雪と風がつくり上げた幻聴だと思ったのだ。しかし、よく聞くとそれに混じって人の声がする。シエナは飛び上がり、期待に胸を膨らませて扉を開けた。
白い通りを背に立っていたのは、待ちわびた人ではなかった。




