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チラリと馬車の窓から見えるロドルス侯爵邸へと目を遣る。侯爵は帝国内の爵位の中でも上の方で、他の邸と比べると格段に大きさが増している。
帝国で精霊を目に出来る者は少なくない。だが、穢れを見る事が出来る者は極端に少なくその存在は稀である。
立ち上るどす黒い恨みの炎。常人には決して見る事が出来ない、憎しみと恨み、そして自分勝手な復讐を決意した穢れの塊。
本来であれば悪意とはかけ離れた精霊がそこまで影響を受けている。
精霊は尊い存在だ。そんな存在を穢そうとする輩に苛立ちが募る。
ロドルス侯爵はエリーゼの到着を今か今かと待っていたらしく、挨拶もそこそこにさっと中に引き込まれてしまった。
中に入ってみると、外と同じく真っ黒で、ついでに匂いも腐敗臭のようなものが漂ってきた。
よくここまで、と吐き気をこらえながらエリーゼはロドルス侯爵の後をついていく。
穢れの発生源、恐らく穢れを貰ってしまっているロドルス侯爵の奥方の部屋に近づくにつれて臭いとどす黒さが酷くなっていった。
「……侯爵。例のものは用意していただけましたか?」
「え、えぇ。なんとか。家令にも駆け回らせてようやく数を揃えられました」
「それは重畳。では、早速集めたものを小さめの浴槽に入れて奥方様をそこに入れてください」
戸惑っていた侯爵も妻のためなら、と使用人たちに命じてエリーゼの指示通りに動いた。
だだっ広い浴槽に、ではなく三人ほどが浸かれるくらいの浴槽にたっぷりと注がれた水。
その中には衣服を身に着けたままのロドルス侯爵夫人がいた。
顔色は真っ青で息を荒く、苦しそうに顔を歪めている。その横では最初に顔を合わせたときに見せた威厳ある侯爵の姿は無く、ただどうしたらいいのか分からずおろおろする男にしか見えなかった。
侯爵には外に出てもらい、貴族らしいだだっ広い浴室で侯爵夫人と二人きりになる。
……随分と酷い状態だ。
侯爵には見えていなかった穢れを見つめてエリーゼは内心でひとりごちた。
こみ上げてくる嘔吐感をなんとか抑え付けて、浴槽でぐったりしている夫人へと近付く。
全身に纏わりつく穢れは、エリーゼへと這い寄る。
「―――“散れ”」
僅かに力を込めて発した言葉はエリーゼの方へ近寄ってきた穢れを散らす。
だがそれも一部分のみで、夫人に纏わりつく穢れはさらに量を増していた。顔を顰めたエリーゼは内心であまり時間が残っていないことに舌打ちする。
これ以上穢れを広がらせてしまうと、囚われている精霊たちにも良くない影響を残す。
「アンネリア。私の元へ」
『呼ばれて飛び出てじゃじゃーん! ってうわっ、何ここ気持ち悪っ』
「久しぶりですね。早速で申し訳ないんですが、この方の穢れを浄化してくれませんか?」
『エリーゼの為ならいいよぉ』
アンはそう言うとエリーゼの手を取り、そっと手の甲に口付けた。
『―――聖なる風によりて浄化の嵐となれ』
アンネリアの少しだけ高い声が小さく響く。
室内に風が吹き、ぐったりとした様子の夫人を包むと、穢れが少しずつ風に巻き取られ最後は一欠片の穢れも無く消え去ったが、穢れを払ったアンの表情は暗いままでエリーゼをじっと見つめた。
『まだ絡み付いてるね……』
「……仕方ありませんよ、それだけ執着されているんでしょう。いずれ剥がれるはずです」
魂にこびり付く穢れの残滓はアルテミシアだった前世の名残でもあり、王国の罪の証でもある。
転生しても無くならなかったそれが剥がれることなんてあるのだろうか、とアンは疑問に思いつつひとまずは納得した。ともかくエリーゼから頼まれたことは終わったのだ。
「それはそうと、アンのおかげでなんとかなりそうです。ありがとうございました」
『役に立てたなら良かったけど、今度主の身に何かあったら総出で』
「皆まで言わなくとも理解しました。気を付けますのでそれ以上は」
自分が怪我しても治癒魔法で治せるのでどうと言うこともないが、もし万が一にでも龍たちの耳に入ればそれこそ世界が滅びそうだと今になって皇帝が言っていた言葉を理解した。
『それならいいけど。じゃあボクはそろそろ戻るねぇ~。また必要になったらいつでも呼んで?』
「えぇ、もちろんです」
アンはエリーゼの返事ににっこりと笑って応えるとそのまま転移であの暴風の谷へと帰っていった。
意識を失ったままの、けれど綺麗さっぱり穢れが無くなった夫人をまじまじと見つめる。
透き通った白い肌、漆黒の髪、儚げな雰囲気の幸薄そうな美女だ。
そしてその顔立ちが、王国で開かれた夜会に招待されていたある人物とよく似ていることに気付いたエリーゼは顔色を変えた。
「そういえば、奥方様の元の姓は……!」
脳裏に浮かぶ一人の魔法使い。エリーゼに魔力の扱い方、魔法について教えてくれた恩師。
最悪の想像がエリーゼの体を震わせる。
「……そんな、まさか……ね」
いやな想像を振り払うように頭を横に振り、エリーゼは浴室の外で事の顛末を知りたそうにうろうろしている侯爵に報告するために扉を開けたのだった。




