魔王、引退する
魔族の侵攻が止まってから、200年。
かつて人間領へ向けて進軍していた魔王軍は、今ではその面影すらない。
魔王城の一角にある大きな会議室。
そこでは今日も、魔族領の未来を左右する重要な会議が行われていた。
「では、次の議題です。東部森林地帯における魔獣の増加について」
長机を囲むように座る魔族たち。
その中でも一際大きな身体を持つ男が、資料をめくった。
「現在、繁殖期と重なった影響で魔獣の数が例年より一割ほど増加しております。幸い人里への被害は確認されておりませんが、放置すれば来年には──」
「討伐隊を編成するか?」
「いえ。可能であれば生息域の調整を。むやみに討伐するより、餌場を分散させた方が長期的には安定します」
「なるほどな」
別の議題では、人間領との交易に使われる予算について話し合われる。
「今年度の人間領との交易予算ですが、昨年度より3%増額を提案します」
「3%か。少々多くないか?」
「いえ、最近は人間領からの薬草と鉄鉱石の輸入量が増えております。その分、こちらから輸出している魔晶石の収益も上がっておりますので、財政的には問題ありません」
「ならば承認でいいだろう」
「ありがとうございます」
そして次の議題。
「続きまして、北西部の瘴気発生源について」
会議室の空気が少しだけ重くなる。
「現在、第一浄化地点までの処理が完了しております。次の地点については、来月より浄化作業を開始する予定です」
「順調だな」
「はい。牛歩ではありますが、確実に減少しております」
魔族領に漂う瘴気。
それは長きにわたり魔族たちを悩ませてきた問題だった。
だが、こちらも少しずつではあるものの、確実に改善されている。
財政が破綻しているわけでもない。
食糧事情も安定している。
人間領との交易も年々増えている。
魔獣による被害も減少傾向。
瘴気の浄化も進んでいる。
かつて戦乱に覆われていた魔族領は、時間をかけながら少しずつ、平和な国へと変わりつつあった。
「では、この件については──」
会議は滞りなく進んでいく。
魔王城。
魔族の頂点に君臨する者がいる場所。
その会議室で話し合われているのは、もはや世界征服でも、人間領への侵攻でもない。
魔獣の生態。
交易。
予算。
農地。
道路整備。
そして瘴気の浄化。
実に平和な議題ばかりである。
そんな会議の最中だった。
玉座ではなく、会議用の椅子に腰掛けていた男が、ぽつりと呟いた。
「……魔王、飽きたな」
「え?」
誰かが聞き返した。
男は頬杖をついたまま、何でもないことのように続ける。
「余はもう魔王を引退する」
「…………」
沈黙が流れる。
「「「「ええええええええええええええええええ!?!?!?」」」」
会議室が揺れた。
机が揺れ、書類が舞い、椅子がひっくり返る。
「ちょ、ちょちょちょちょちょっと待ってください! 魔王様!?」
「待たぬ」
「まだ何も説明していませんよ!?」
「説明なら不要だろう」
「不要じゃありません!」
立ち上がった魔族たちが、一斉に魔王へ詰め寄る。
彼らの視線の先にいるのは、黒い髪を持ち、赤く鋭い瞳をした大男。
魔族を束ねる絶対的な王。
その名は──サタニトゥス。
およそ千年近く魔王の座に君臨し続けてきた、歴代最長在位の魔王である。
「魔王様!後任の魔王はどうなるんですか!?」
「ベリアロクがいるであろう」
「確かにベリアロク様は次期魔王候補筆頭ですが!」
「なら問題あるまい」
「あります!」
即答だった。
「なぜ辞職されるんですか!?」
「なぜって……」
サタニトゥスは少しだけ考える。
そして、ひどく疲れた顔で答えた。
「もう疲れたのだ」
「…………」
「余が魔王に就任してから、もう千年近く経った」
「……」
「もう代替わりの時期ではないか?」
「ですが、なぜ今なんです!?」
「今が一番いいと思ったからだ」
「そんな理由で!?」
「そんな理由とはなんだ」
サタニトゥスは不満そうに眉を寄せた。
「よく考えてみろ。魔族の侵攻は200年前に止まった。人間領との戦争もない。財政も苦しくはない。交易も順調。瘴気の浄化も進んでいる」
指を一本ずつ折りながら、淡々と数えていく。
「魔獣対策も機能している。国内の食糧事情も安定している。つまり──」
そこでサタニトゥスは胸を張った。
「余の仕事は、ほぼ終わった」
「「「「…………」」」」
「だから辞める」
「「「「だからって辞めないでください!!」」」」
再び会議室に絶叫が響いた。
「魔王様!」
「なんだ」
「千年近く魔王をやってきて、最後が『飽きた』でいいんですか!?」
「いいだろう」
「よくありません!」
「では何と言えばいい?」
「もっとこう……威厳のある……!」
「……『余は千年の責務を果たし、ここに王位を──』」
「そうです!そういう感じです!」
「面倒だな」
「魔王様ぁ!!」
「辞める流れは止められないのですか!?」
サタニトゥスは深々とため息を吐いた。
千年近く魔王として戦い、国を治め、部下を育て、敵と戦い。
そして何度も、何度も国の未来について考えてきた。
その結果、200年前に侵攻を止めた。
人間領との関係も改善し、魔族領も少しずつ豊かになった。
それならば……
「……もういいだろう」
サタニトゥスは静かに笑った。
「余は、少し違うことをしてみたい」
「違うこと……?」
「ああ」
「例えば?」
「そうだな……」
サタニトゥスは窓の外を見る。
魔王城から遠くに見える街。
そこには市場があり、店があり、人々が暮らしている。
戦争のためではない。
生きるために、笑うために、誰かと食事をするために。
「……平和な暮らしというものを、してみたい」
その言葉に、部下たちは黙り込んだ。
「では……本当に、引退されるのですか?」
「ああ」
「もう戻ってこない?」
「戻らん」
「魔王軍の指揮も?」
「ベリオロスに任せる」
「会議も?」
「任せる」
「国政も?」
「任せる」
「我々が困ったときは?」
「ベリオロスに聞け」
「魔王様ぁ……!」
部下たちは泣き崩れた。
だがサタニトゥスは、どこか晴れやかな顔をしていた。
「では、明日から余はただのサタニトゥスだ」
「ただのサタニトゥスって何ですか……」
「知らん」
こうして。
千年近く続いた魔王サタニトゥスの治世は、あまりにもあっさりと終わりを告げた。
──そして10年後。
とある人間領の、小さな村──ココット。
村の一角に建つ、小さなパン屋から威勢のいい声が響いていた。
「いらっしゃいませー!」
焼きたてのパンの香り。
店内に並ぶ、丸く可愛らしいパン。
狼や鳥、竜の形。
そして、どこか妙にリアルな魔獣の形。
店の奥では、筋骨隆々の大男がパンを並べている。
「サッシャおじちゃん!ドラゴンパンあるー?」
「ああ、焼きたてだ。熱いから気をつけろよ」
「やったー!」
子供が嬉しそうにパンを受け取る。
大男は、にっこりと笑った。
迫力のある顔に似合わない、妙に愛嬌のある笑顔だった。
その名は──サッシャ。
この村で人気のパン屋の店主である。
なお、10年前まで世界で最も恐れられていた魔王だったことを、知る者はほとんどいない。
そして本人は今日も、そんなことなどすっかり忘れたようにパンを焼いていた。
「さて、次はアラクネパンでも焼くか」
元魔王。
現在、パン屋。
──サッシャの第二の人生は、こうして始まった。
新たなお話でございます!
寝る前に思いついたのを書きなぐってますのでお付き合い下さい!




