第39話 早川静香
「アイドル?」
涼介の頭に浮かんだのは、未来で国民的人気を誇るAKBのようなアイドルグループだった。
もっとも、この時代にはまだ存在していない。
現在、「アイドル」といえば、主に歌手や映画スターを指す言葉だ。
時代の違いもあり、涼介の記憶にある世界でも、本格的なアイドルグループが数多く登場するのは二十世紀末以降だった。
最も近い存在といえば、「モーニング」の名を冠したグループくらいだが、少なくとも今のテレビでは見かけたことがない。
「お兄様が想像しているような、そんな大物ではありません」
新垣瑠璃は苦笑しながら説明した。
「まだデビュー前の練習生です。私にとっては先輩にあたる方で、芸能界を目指して活動されています」
「音楽にも力を入れる予定だと聞いています」
「なるほど」
涼介は納得したように頷いた。
(そうだよな)
(モデルのアルバイトをしているだけで現役アイドルと知り合えるなら、アイドルという肩書きもずいぶん安くなってしまう)
おそらく小さな芸能事務所へ所属し、グラビアやCMなどの仕事を通じて知り合ったのだろう。
しばらく話を聞き、涼介の推測は間違っていないことを確信した。
「じゃあ、その人に連絡を取ってもらえるか?」
「もちろん、報酬は相場どおり支払う」
「分かりました」
新垣瑠璃はごく自然に頷いた。
彼女にとって、その程度は大した手間ではない。
涼介は携帯電話で時間を確認する。
気づけば、一時間以上も話し込んでいた。
「今日はこのくらいにしておこう」
「何か分かったら、いつでも連絡してくれ」
「はい。それと、お兄様」
「凌乃のこと、よろしくお願いします」
二人は喫茶店の前で別れた。
◇
スタジオへ戻ると、凌乃は扉を開けるなり何も言わず作業机へ戻り、再びイラストを描き始めた。
一度集中すると、その作業速度は驚異的だった。
涼介も邪魔はしない。
そんな穏やかな時間が、そのまま夜まで続く。
やがて少女は大きく伸びをすると、まとめ終えた原稿を涼介へ放り投げた。
「だいたい終わったわ。あんたの注文どおりにね」
涼介は原稿を受け取り、素早く目を通す。
内容に大きな問題はない。
ほぼ想定どおりの仕上がりだった。
「本当にすごいな」
高城凌乃の作業速度は常軌を逸している。
しかも、速いだけではない。
品質まできっちり維持しているのだから、作画に関しては嫉妬したくなるほどの才能だった。
「何よ、それ」
「ご機嫌取りのつもり? 気持ち悪い」
口ではそう言いながらも、口元はぴくぴくと緩みそうになるのを必死に堪えている。
どうやら褒め言葉そのものは、かなり嬉しかったらしい。
「仕事も終わったし、帰って勉強だな」
涼介は笑いながら立ち上がり、原稿をクリアファイルへ収めた。
来週、この原稿を鳳凰院へ渡す予定だ。
「あんたねぇ、人に休む時間くらいくれてもいいでしょう?」
「こんなに働いたのよ!」
そう文句を言う凌乃を、涼介は頭からつま先まで見回した。
元気そうに振る舞ってはいるが、目元には隠しきれない疲れが浮かんでいる。
「そうか?」
「じゃあ、家へ帰ったら素直に寝るんだな?」
「余計なお世話!」
高城凌乃はぷいっと顔を背けた。
ここ数日、涼介のせいでゲームにも触れられていない。
家のパソコンにはうっすら埃まで積もり始めている。
帰ったら思い切り遊ぶつもりでいた。
「次のテストは満点を取るって約束しただろ?」
「成績が落ちたら、希望する高校へ進学できないかもしれないぞ」
「それとも、この部屋の秘密をお父さんに知られてもいいのか?」
「やっぱり、あんたとは絶対に気が合わない!」
「本当に嫌い!」
高城凌乃は怒ったようにスタジオを飛び出した。
涼介は苦笑しながら、その後を追う。
別にゲームを禁止するつもりはない。
だが今の凌乃は、ゲームをすれば余計に疲労が溜まるだけだ。
その点、勉強は違う。
家へ戻ると、凌乃は机へ向かい、問題を数問解いただけで、そのまま机へ突っ伏して眠ってしまった。
勉強に苦手意識のある人間にとって、これほど強力な睡眠薬はない。
「お疲れさま」
涼介は小さく呟き、少女をそっと抱き上げる。
ベッドへ寝かせ、布団を掛け直してから、自分の部屋へ戻った。
◇
月曜日、島川漫画編集部。
早川留美は、ここ最近ずっと機嫌がよかった。
担当作品である『キノの旅』第三巻の内容が『Magazine』で連載され、読者の反応も上々だったからだ。
漫画よりも対象年齢が高い現在のライトノベル市場では、主な読者層は十四歳から三十歳前後までの若者である。
十五歳の時雨沢が書いた作品とは思えないほど、その物語には深みがあった。
寓話のような構成は、初めて読む読者でも抵抗なく入り込める。
そして続きを知りたくなった読者が単行本を手に取り、売上へつながっていく。
「新人としては十分すぎる結果だ」
「編集会議でも推薦しておく。正社員登用の準備をしておけ」
昼間、服部拓也は入社以来の仕事ぶりを評価し、そう告げた。
島川では、昇進にあたって先輩編集者からの推薦が大きな意味を持つ。
早川留美は幸運だった。
新人をきちんと育てようとしてくれる上司に巡り会えたのだから。
「ぜひ、お礼にご馳走させてください!」
「私に礼を言うくらいなら、時雨沢先生へ感謝したほうがいい」
「あの人こそ君の恩人だ」
服部拓也はやんわりと断った。
付き合いが苦手なのも理由だが、それ以上に、早川留美は目立ちすぎる美人だ。
二人きりで食事などすれば、社内で余計な噂を立てられかねない。
「何度かお誘いしたんですが、時雨沢先生はとてもお忙しくて……」
早川留美は何度も涼介へ電話をかけていた。
小説の売上報告や感謝の言葉も伝えている。
しかし食事の誘いは、そのたびに「時間がない」とやんわり断られていた。
「それも当然だ」
「学生にとって本業は勉強だ」
「しかも聞いた話では、高城留美子との漫画が月例賞で一位になったらしい」
「近いうちに連載も始まるだろう」
「そうなれば、今よりもっと忙しくなる」
「えっ!?」
早川留美は目を丸くした。
高城涼介を高く評価していたとはいえ、まさか月例賞の首位まで獲得するとは思っていなかった。
「時雨沢先生、本当にすごいですね」
「それとも、斎藤編集者の指導が良かったんでしょうか?」
「斎藤は関係ない」
「作品そのものの完成度が高かっただけだ」
「私も彼を見くびっていた」
「時雨沢は、一発屋の天才なんかじゃない」
服部拓也は感慨深げに言った。
天才とは、凡人が決して追いつけない存在だ。
ライトノベルを連載しながら、同時に漫画原作まで手がけ、それでもこれだけの結果を出す。
しかも、まだ高校生なのである。
すでに多くの大人を追い越していた。
そう思うと、服部拓也は改めて早川留美へ視線を向けた。
「私は以前、感覚だけで人を評価するなと言ったな」
「……あれは私の失言だった」
「え?」
早川留美は意味が分からず、小首を傾げる。
「とにかく、これから時雨沢はさらに忙しくなる」
「君は少なからず彼のおかげで成果を得ている」
「だから、きちんと礼を尽くすべきだ。それが礼儀というものだ」
「千葉に住んでいる相手を、わざわざ東京まで呼び出すのは失礼だ」
「時間を作って、君のほうから会いに行くといい」
そこまで言うと、服部拓也は会議室へ入っていった。
ここまで言えば十分だ。
まさか作者との付き合い方まで、一から十まで教えるつもりはない。
新人を育てるのは編集部を活性化するためであって、何でも面倒を見るためではないのだから。
早川留美はぱっと表情を明るくした。
なるほど、その通りだと思った。
◇
退勤後も、早川留美は担当作家へ送るメッセージをどう書くか考え続けていた。
どうすれば堅苦しくならず、自然な文面になるだろう。
結局、マンションへ帰り着いても答えは出なかった。
――カチャ。
鍵を回して玄関を開ける。
室内は明るく照明がつき、暖房の温かい空気が迎えてくれた。
早川留美は思わず驚く。
視線をリビングへ向けると、ソファには薄着の少女がうつ伏せになり、逆さまにこちらを見ていた。
「おかえり、お姉ちゃん」
早川留美は慌てて玄関の扉を閉める。
「早川静香! ちゃんと服を着なさい!」
「やだ」
「レッスン中はずっと締めつけられてるんだもん。家にいるくらい楽な格好でいたいの」
「だからって、下着だけは駄目でしょう!」




