第35話 秋葉原
「まあ、好きにすればいい」
出費を抑えられるのなら、今の涼介にとって願ってもない話だった。
彼も別にけちな人間ではない。
『Fate/stay night』が完成し、大ヒットした暁には、改めてまとまった報酬を渡せばいいだろう。
話がまとまったあとも、少女はしばらく涼介の部屋に居座っていた。
結局、時刻が夜の十時を回ったところで、涼介はたまりかねて彼女を自室へ追い返した。
部屋を出る直前、凌乃は念を押すように振り返る。
「私がああいうゲームをしてること、絶対に誰にも言わないでよ。特に瑠璃には」
「あんたの弱みも、私が握ってるってことを忘れないで」
「安心しろ。協力者を売るような真似はしない」
◇
それから高城家は、何事もなく一週間を過ごした。
土曜日の早朝。
高城涼介は家を出て、凌乃もまた、スタジオへ向かう電車に乗った。
「パソコンを買うなら、やっぱり秋葉原だよな」
涼介はそう考え、秋葉原行きの電車へ乗り込んだ。
東京都内にある秋葉原は、もともと家電量販店が集中する街だった。
九十年代初頭、大型のパソコン専門店『L』が開業したことをきっかけに、次第にパソコン街へと姿を変え始めている。
パソコン関連の店が街の中心となったからこそ、のちにオタク文化を愛好する人々が集まる土壌も生まれたのだろう。
もっとも、涼介にとって秋葉原はまったく馴染みのない土地だった。
未来の二次元文化の聖地を訪れるのは、今回が初めてだ。
幸い、この時代の看板はどれも派手で分かりやすい。
駅を出てすぐ、巨大な看板が目に入った。
――L・パソコン専門店。
ガラス張りの入口の向こうでは、多くの客が行き交っていた。
この時代のパソコンは、携帯電話と同じく、最先端でありながら高価な品だ。
二十万円や三十万円を超える商品も珍しくない。
それでも、多くの人々が興味を持ち、店を訪れている。
涼介が店内へ入ると、試用コーナーは人で埋め尽くされていた。
わざわざそこへ割り込む気にはならない。
パソコンなど、性能さえ見れば選べる。
そう考えていたのだが、展示棚の前を行き来し、現在の主力機種を眺めているうちに、涼介は頭を抱えたくなった。
記憶にある、技術が進んだ時代とはまるで違う。
今のパソコンに表示されているのは、最低限のCPU型番と、意味の分からない宣伝文句ばかりだった。
メーカーも、NEC、ソニー、東芝といった国内企業が中心で、あとはマイクロソフトくらいしか目につかない。
(これ、どうやって選べばいいんだ?)
涼介はようやく、試用コーナーに人が集まっている理由を理解した。
「やっぱり、実際に触ってみるか……」
試用コーナーへ向かおうと振り返った、そのとき。
突然、身体が大きな影に覆われた。
いつの間にか、すぐ隣に誰かが立っている。
白いシャツが細い腰を包み、女性らしい身体の線を際立たせていた。
下半身には、脚へぴたりと沿うスラックスを履いている。
そして、その顔を見た瞬間、涼介は驚きに目を見開いた。
「鳳凰院? どうしてここに?」
前回別れて以来、二人は頻繁にメッセージを交わしていた。
直接顔を合わせるのは、あの日以来だった。
「ふふ、見つかっちゃった」
「私、ここでアルバイトしてるんだよ」
以前とはまるで印象が違う。
鳳凰院は薄く化粧を施し、あの分厚い眼鏡も外していた。
露わになった素顔は、驚くほど整っている。
涼介は、彼女の胸元につけられた名札へ目を向けた。
――鳳凰院沙織。
(珍しい名字だけど、本名だったのか)
涼介はてっきり、鳳凰院という名前はネット上で使うハンドルネームだと思っていた。
「それより、時雨沢はパソコンを買いに来たの?」
「はい。原画を頼める人が見つかりました」
「報酬として、パソコンを一台用意してほしいと言われまして」
「なるほどね」
鳳凰院は納得したように頷いた。
「そういえば、一人でゲームを作れるほどの技術があるなら、普通に正社員として働けそうですけど」
「てっきり、どこかの大企業に勤めているのかと思っていました」
「まだ大学を卒業してないからね。空いた時間にアルバイトしてるだけ」
「それに――」
鳳凰院沙織は、手に持っていた『月刊Ae』を軽く振った。
「お客さんにパソコンを選んであげるくらいなら、簡単に説明すれば終わるし」
「暇なときは、こうして漫画も読めるから」
「ずいぶん自由なんですね」
「まあね。正社員じゃないし」
会話をしながら、涼介は彼女が開いているページへ目を向けた。
そこに掲載されていたのは、『カードキャプターさくら』だった。
鳳凰院沙織は涼介の視線に気づくと、片手を腰へ添え、首を傾げる。
「興味ある?」
「貸してあげてもいいよ。この漫画、私はかなり気に入ってるんだ」
「作者の前作も好きだったしね。肉感のある絵が最高だったよ」
「結構です」
「そう? 残念だなあ。良作を一つ逃したね」
涼介は思わず笑った。
『Fate/stay night』の原画を彼女へ渡し、その原画家が誰なのかを明かしたとき。
この美女がどんな顔をするのか、今から少し楽しみだった。
「先に用事を済ませましょう。俺もこのあと予定がありますから」
涼介は改めて展示棚へ視線を戻した。
「見る限り、どれにするか決められないみたいだね」
「私が選んであげようか?」
「それは助かります」
涼介はすぐに頷いた。
プログラマーである鳳凰院に機種を選んでもらえるなら、それが最善だ。
少なくとも現在のパソコン性能について、彼女は涼介より遥かに詳しい。
「本当に律儀だね、時雨沢は」
「私はここで働いてるんだから、これくらい仕事のうちだよ」
ほどなくして、鳳凰院の助言を受けながら、涼介は一台のパソコンを選んだ。
最新のPentiumプロセッサを搭載した、マイクロソフト製のモデル。
価格は二十八万八千円だった。
彼女を信頼していた涼介は、迷わず代金を支払う。
配送先には、凌乃のスタジオの住所を記入した。
「届け先は栄町なんだ」
「この距離なら、二時間もかからず届くと思うよ」
「それなら、俺はそろそろ行きます」
「来週末には、原画を渡せると思います」
「薄情な男だねえ。利用するだけ利用して、もう帰るの?」
鳳凰院はカウンターへ肘をつき、目を細めて笑った。
「せめて、別れのキスくらいしてくれてもいいんじゃない?」
隣にいたレジ係が目を見開き、二人を何度も見比べる。
涼介は、穴があったら入りたいほど気まずくなった。
(こいつ、冗談を言うにも場所を選べよ……)
こういう場では少しくらい自重すると思っていたが、むしろ大きな一発を狙っていたらしい。
高城涼介は聞こえなかったふりをして、足早に店を出た。
背後から、鳳凰院の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
◇
電車に乗り、凌乃のスタジオへ向かう。
途中、一階のコンビニで最新号の『月刊Ae』を購入してから、涼介は部屋の扉をノックした。
二分ほど待つと、扉がわずかに開く。
凌乃が隙間から顔を覗かせ、涼介だと確認した途端、不満そうな表情になった。
「遅すぎるわよ! パソコンなら、もう届いてるんだから!」
少女が扉を開く。
室内には、すでに大きな箱が一つ増えていた。
梱包には『L』のロゴが印刷されている。
「事前に話を通してあったのか? ずいぶん早いな」
涼介はその配送速度に感心した。
妹の文句は聞き流し、そのままスタジオへ足を踏み入れる。
「それ、何を買ってきたの?」
凌乃は涼介が持っているコンビニの袋に気づき、興味深そうに尋ねた。
「島川の月刊誌。途中で見かけたから買ってきた」
「見せて」
高城凌乃は少し興奮した様子で、袋から分厚い雑誌を取り出した。
今月号には、月例賞へ残った七作品がすべて掲載されている。
一作品につき、平均で二話ほどの内容が収録されていた。
扉ページを開くと、月例会で各作品が獲得した票数も掲載されている。
審査結果は、すべて公開される仕組みらしい。
『カードキャプターさくら』は四十八票を獲得し、圧倒的な首位に輝いていた。
高城凌乃は誇らしげに胸を張る。
小さな膨らみが、服越しに僅かに持ち上がった。
「さすが私ね」
結果自体は、すでに斎藤編集者から聞いていた。
それでも、実際に印刷された誌面で目にすると、喜びも格別だった。
自分の作品が誰かに認められる。
その感覚こそ、凌乃が絵を描き続ける原動力の一つだった。
高城凌乃は夢中になって『月刊Ae』を最後まで読み進める。
その間に、涼介は部屋の反対側へ机を一つ用意し、購入したパソコンを設置して電源へ接続した。
やがて画面が点灯する。
そこに、Windows 95のロゴが浮かび上がった。




