52・氷狼の魔術師
シリウス様は、室内へと一歩踏み込んでくる。
たったそれだけで部屋の空気が震え、ぴりっと肌が痺れるような気がした。
圧倒的な魔力が、部屋の隅々にまで満ちていく。
(……そういえばこの人、この国最強の魔術師だった)
国王陛下でさえ一目を置く、魔術国家アステリエ最強の魔術師長、シリウス・ヴェルナー。
相当な魔力を持っているだろうことは理解していたが、その片鱗に触れただけでまさかこれほどまでの圧を感じるとは思わなかった。
普段、シリウス様が魔力を過度にひけらかすようなことをしないから余計に、だ。
シリウス様は、近くにいるものすべてが凍りつきそうなほどの冷たい魔力をまとったまま、こちらへと近づいてくる。
(氷狼の、魔術師……)
シリウス様のあだ名である『氷狼の魔術師』。
彼がなぜそう呼ばれているのか、ここにきて妙に納得してしまった。
鋭く研ぎ澄まれたオッドアイと、とてつもない冷気と魔力をまとったシリウス様は、まるで雪原にたたずむ氷狼のようだ。
その姿は近寄りがたく恐ろしいはずなのに、私は足元から崩れ落ちそうなほどの安堵を覚えていた。
(助けに、来てくれたんだわ……)
「な、なんで……お前がここに……」
アルフレッドは震える声で呟きながら、シリウス様の魔力に気圧されるように後ずさった。
先ほどまで私に向けていた狂気は跡形もなく消えている。
シリウス様はアルフレッドをちらりと一瞥しただけで横を素通りし、真っ直ぐに私の目の前までやってきた。
「セレフィア、怪我はありませんか」
私へ問う声は、いつもの落ち着いたものだ。
けれど、瞳の奥には普段は私に見せることのない鋭さが宿っていた。
押し殺した怒気が、静かに揺れている。
(これは、怒っている……)
その怒りはアルフレッドへだけではなく、私にも向けられているような気がした。
「……は、い」
ぎこちない動きで小さく頷きながら答えた声は、自分でも驚くほど弱々しいものだった。
「ふざけるな……! セレフィアはお前のものじゃない……! 俺のものだ!」
アルフレッドが、振り絞るようにして叫んだ。
「お前が……お前が奪ったんだ……! 俺はただ、前のように幸せに暮らしたかっただけだ! セレフィアだって、俺といた方が幸せに決まってる!」
(嫌だ、聞きたくない)
アルフレッドのヒステリックな声をこれ以上聞きたくなくて、私は耳を塞いだ。
私の幸せはアルフレッドのもとにはない。
「……幸せ?」
アルフレッドの言葉に、シリウス様がぴくりと反応する。
シリウス様はゆっくりとアルフレッドの方へ振り返ると、私を庇うように立った。
まるで、私の視界からアルフレッドを消すように。
シリウス様の背中しか見えなくなる。
「あなたが今までしてきたことがセレフィアにとって幸せだと……本気で言っているのですか?」
シリウス様の声は、低く底冷えするようなものだった。
「給料を全部取り上げ、自由を管理することが? 彼女宛ての縁談をすべて握りつぶすことが?」
「……縁談?」
アルフレッドが、私宛ての縁談をすべて握りつぶしてきた?
そんなこと初耳だ。
思わず呟いてしまった私に、シリウス様は気遣わしげな視線を向けた。
「この男は、あなた宛ての縁談をすべて壊してきたんですよ。私が今まであなたに送っていた縁談も、ね」
「あ……」
シリウス様から以前聞いた話を思い出す。
シリウス様は、これまで私に数え切れないほど縁談を送ったと言っていた。
あの時、疑問には思ったのだ。
自分に関する大事なことなのに、どうして私はシリウス様から縁談話をもらっていたことを知らなかったのだろう、と。
(全部、お義兄様のせいだっていうの?)
胸の奥がえぐられているかのようにじくじくと痛む。
アルフレッドが私を騙して裏切っていたのは、そんなに昔からだったのか。
「どうしてそんなことを……」
問いかける声が震えた。
私は今までずっと、縁談が上手くいかなかったのは自分のせいだと思っていた。
私に魅力がないから破談になったのだろうと、自分に責任を感じていた。
それがまさか、アルフレッドによって壊されていただなんて。
「どうして、だって? そんなの当たり前だろ! セレフィアは俺の義妹だ! 俺が守ってやらないといけないだろ! 他の男には渡さない!」
アルフレッドが必死に叫ぶその内容に、私は反射的に顔をしかめた。
私は、アルフレッドに守って欲しいなんて頼んだ覚えは一度もない。
「……守る、ですか」
シリウス様は低くつぶやきを落とした。
「では問いますが……。あなたが『守る』と言い張る行為の中に、セレフィアの給料を搾取することも含まれているのですか?」
「あれは、家のためで……!」
「セレフィアの許可もなく、縁談をすべて握りつぶしたことは?」
「それはして当然だろ……! セレフィアを幸せにできるのは俺だけなんだから!」
「ご両親に何も告げず、勝手に家の金を持ち逃げしたことは?」
「……っ、それは……!」
「セレフィアを騙して、こんな場所へ連れてきたことは?」
シリウス様は淡々と問い続ける。
アルフレッドは徐々に言葉を詰まらせ、答えられなくなっていった。
喉がひくつき、声にならない音だけが漏れる。
シリウス様の背中からそっとアルフレッドの様子を見やれば、顔はすっかり青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいた。
「あなたがセレフィアのためと言ってしてきたことは、『守る』ではありません」
シリウス様は声を荒らげることもなく、静かに言葉を重ねる。
シリウス様の言葉は正論でしかない。だからこそ、アルフレッドは逃げ場がないのだろう。
「それはただの支配だ。あなたが守っていたのは、家でもセレフィアでもない。自分の欲だけです」
「ち、違う……! 俺は……俺はセレフィアを……!」
「セレフィアはあなたの所有物ではない。彼女がどこで生きるかも、何が幸せかも、決めていいのはセレフィアだけです」
なおもいい募ろうとするアルフレッドの声を遮り、シリウス様はきっぱりと告げた。
アルフレッドは口を開いたまま、呆然と固まる。
アルフレッドから戦意が喪失していくのが、私にも目に見えて分かった。
「そういえば、私がここに来る直前に攻撃魔術の気配がしましたね。我が国では平時において攻撃魔術の使用が禁じられていることはご存知で?」
「そ、れは……」
「詳しい罰則については、魔術省で話しましょうか」
シリウス様が軽く手を振ると、アルフレッドの周囲を取り囲むように、淡い光が細い線となって走った。
やがて光はアルフレッドの手足に絡みつき、溶けない氷の枷へと変化する。
「な……っ、離せ……!」
アルフレッドはじたばたともがいたが、枷はびくともしない。
魔術で作られた枷だ。シリウス様の魔力が尽きるか解除されるまで外れるわけもない。
「巡回中の魔術師団を呼んでいます。じきにここへやってくるでしょう。それまでここで、頭を冷やしていなさい」
シリウス様がそう言った直後、外から足音が近づいてきた。
破壊された扉の向こうで、月明かりに照らされたマントが揺れている。
やがて室内へ二人の魔術師が入ってきて、シリウス様へぴしっと敬礼を向けた。
「魔術師長! ただいま到着いたしました!」
「ご苦労。そこにいるアルフレッド・バクスターを、魔術不正使用の容疑で連行しなさい」
「はっ! 承知いたしました!」
シリウス様の命令に従い、魔術師団の二人がアルフレッドの両腕をがしりと捕まえる。
「や、やめろ……! 俺は悪くない……! 俺はただ、セレフィアのために……!」
いまだアルフレッドは抵抗しようとしていた。
だが、そのまま魔術師団の手によって、アルフレッドは外へと連れ出されていった。
アルフレッドの声が遠のいて、小さくなった叫び声も夜風にかき消されていく。
扉の破壊された室内へ残されたのは、私とシリウス様だけ。
「セレフィア、私たちも帰りますよ」
「あ……」
シリウス様は短く言うと、私の手を取った。




