人形は蒼を通して夢を見る
泣いたのはひさしぶりだった。
未来の夫と共に親友を失ったときも、強引に娼婦とされたときも、養母に絶交を切り出されたときさえ、呆然として、事態を受け入れることしかできなかった。理不尽に泣きわめくことはなかったのだ。
そう考えかけて、いいえ、とエラは頭を振った。泣いたわ。自分が養母をおびき寄せる餌で、身体を求められるのはそのついでだと知ったとき。
道具のように扱われたことに悲しんだわけではない。最初から自分は愛玩の人形だったのだから。
何が悲しかったか。
イーサーが自分を選んだ理由が、エラ自身になかった、というその一点が、悲しくて悲しくてならなかった。
「お前には驚かされる、エラ」
電子音の響く薄暗い部屋の窓際に、男は腰掛けていた。
「何の意思もないのかと思えば、突然動き回る。あぁ、コーランに興味を持った女は初めてだったな。外の人間の癖にアッラーを偏見なく受け入れたことには驚いた」
彼は古い本を膝の上に開いて、ゆっくりと頁をめくっていた。彼の声音は淡々としていて、紙面に綴られた文字を読み上げているようにも感じられた。
「今時のムスリムの女たちよりも自由なはずなのに従順で。未来あるはずなのに絶望している。……腹立たしいな。お前より恵まれない境遇の女はごまんといる」
(ならどうして助けたの)
エラはイーサーの独白を耳にしながら胸中で呟いた。言葉の代わりに喉から零れた空気の塊が人工呼吸器の内側で跳ねる。エラは気怠さに目を閉じた。ややおいて、イーサーの立ち上がる気配がした。
「エラ。お前が戦わなかったわけじゃないことは知っている。経歴をみるかぎりきちんとしていた。不貞でもない。……それでももういいと思ったんだな、お前は」
イーサーの指先がエラの瞼に触れる。
「せっかく、自由になる機会を、お前はふいにしたいんだ。……お前が捨てた命を俺が拾おう。いいな? エラ」
エラが薄く瞼を上げると、男の眼窩に収まる紺碧と目があった。その瞳が窓から差し込む夕暮れの日差しに染められている。海の色だ、とエラは思った。幸せな花嫁に慣れるはずだった日、崖から見下ろした海の。
(あぁもしかしてまだ)
自分は夢を見ているのかもしれない。水底で、魚に突かれながら。
自分は才気あふれるわけでもないし、純真でもなければ、美しいわけでもない。
それでも。
弱い自分でも、いつかは救いがあると、愛してくれる人が現れるという、そんな美しい夢を。
おつきあいくださりありがとうございました。