第二話 命拾い
彰人は、目の前の獣から一歩も動けずにいた。
日本で平和に育ち、喧嘩らしい喧嘩をしたこともない。
学生時代にはバスケットボールやアメリカンフットボールをやっていたが、それはあくまでスポーツだ。
目の前の獣と戦うための経験など、あるはずもなかった。
「……落ち着け。落ち着け、俺」
自分に言い聞かせる。
だが、獣は待ってくれなかった。
「グルァッ!」
地面を蹴り、こちらへ飛びかかってくる。
「うわあああっ!」
彰人は反射的に身を引いた。
しかし、足がもつれた。
「うわっ!」
そのまま尻もちをつく。
獣の爪が、目の前の地面をえぐった。
「ひっ……!」
腰が抜けた。
逃げなければならない。
そう思っているのに、身体が動かない。
獣が再び身を低くする。
次は、確実に襲われる。
「誰か……誰か助けてくれ!」
彰人が叫んだ、そのときだった。
「そこまでだ!」
森の奥から、鋭い声が響いた。
次の瞬間、一本の矢が飛来し、獣の前脚に突き刺さる。
「グギャアアアッ!」
獣が悲鳴を上げ、彰人から距離を取った。
木々の間から、一人の人物が姿を現す。
革の鎧を身につけ、腰には剣。
背には弓を背負っている。
その人物は彰人を一瞥すると、すぐに獣へ向き直った。
「怪我はないか! そこから動くな!」
「は、はい!」
彰人は尻もちをついたまま、必死に頷いた。
冒険者らしき人物は剣を抜き放つ。
獣が唸り声を上げ、再び飛びかかった。
だが、冒険者は素早く身をかわし、すれ違いざまに剣を振り抜いた。
獣の身体から血が噴き出す。
さらに一撃。
そして最後に、喉元へ剣が突き立てられた。
「グル……」
巨大な獣は、地面に崩れ落ちた。
「…………」
彰人は、呆然とその光景を見つめていた。
ほんの数秒。
あれほど恐ろしかった獣が、あっという間に倒された。
冒険者は剣についた血を振り払い、鞘へ収める。
「立てるか?」
「あ……はい。たぶん……」
差し出された手を、彰人は震える手でつかんだ。
引き起こされる。
膝はまだ笑っていた。
「まったく。あんな魔獣に一人で近づくなんて、命知らずにもほどがある」
「いや、近づいたというか……襲われたというか……」
「そうなのか?」
冒険者は彰人の服装を見て、眉をひそめた。
「その格好……旅人には見えないな。どこの町から来た?」
「町……?」
彰人は言葉に詰まった。
答えられるはずがない。
ここがどこなのかすら、まだ分かっていないのだから。
「……俺は」
彰人は、遠くに広がる見知らぬ森を見た。
そして、先ほどの獣を思い出す。
日本ではありえない光景。
剣を使う冒険者。
魔獣と呼ばれた巨大な獣。
彰人は、ゆっくりと口を開いた。
「……自分が、どこから来たのかも分かりません」
冒険者は驚いたように目を見開いた。
「記憶喪失か?」
「そういうわけでは……」
彰人は首を横に振る。
自分の名前も、家族のことも覚えている。
ただ。
ここがどこなのかだけが、分からない。
「俺は杉石彰人。日本で普通に暮らしていて……気がついたら、ここにいました」
「ニホン?」
冒険者が聞き返す。
その反応を見て、彰人は確信した。
やはり、ここは自分の知る日本ではない。
彰人は、震える声で呟いた。
「……ここは、異世界なんですか?」
冒険者はしばらく黙っていた。
やがて、困ったように肩をすくめる。
「異世界という言葉の意味は分からないが……少なくとも、ここは王都から遠く離れた辺境だ」
彰人の胸が、大きく跳ねた。
異世界。
その言葉が、現実味を帯びて迫ってくる。
冒険者は倒れた魔獣を見てから、彰人へ視線を戻した。
「ここは危険だ。町まで連れていく。歩けるか?」
「……はい」
彰人は頷いた。
そして、冒険者の後を追って歩き出す。
こうして。
杉石彰人の異世界での生活は、魔獣に襲われ、尻もちをつき、通りがかった冒険者に助けられるという、あまりにも平和とは程遠い形で始まった。
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