番外編1
※レオンハルト視点
私が初めて彼女に出会った日のことを、忘れたことは一日だってない。
出会った……というよりは、私が一方的に彼女を見かけ、一方的に惹かれただけ。
だからその時のことを私は忘れられないが、彼女はその時のことを知らないはずだ。
彼女──今では私が心の底から愛するリリィを、一目見た瞬間。
心の底から、愛おしいと思った。
やっと会えたと。
待ち焦がれていた女性を、ようやく見つけたと。
花を前に、ふわりと微笑む彼女が、この世の何よりも、誰よりも、美しく見えた。
彼女を見かけた時、私はまだ5歳だった。
普段は本邸の建つ王都や、ハインヒューズ別邸の建つ領から離れることは滅多にない。
ハインヒューズ家は公爵であり、その三男でもある私は幼い頃から時々狙われることがあった。
その対策として、父上は物心つく前から私に剣を教えてくれた。
父上はかつて英雄とも謳われた剣豪で、兄上たちにも私と同じ歳の頃から剣を教えていたらしい。
幸いにも私には剣術との相性が良く、父上の教えてくださることは、比較的すぐに吸収することが出来た。
とはいえまだ5歳の頃に実践というのは早く、正確に言うと、母上の大反対をくらい諦めたそうだ。
結婚後、私たち3児を授かり夫婦生活が長年続いても、父上は相も変わらず母上にベタ惚れで、母上の言うことには頭が上がらないのだ。
母上が元は王女であり、父上はその護衛騎士も勤めたと聞いたことがあるし、その関係もあるのかもしれない。
貴族間では珍しい、恋愛結婚。
母上と父上は相思相愛で結ばれたからこそ、私たち兄弟に、無理に婚約者をあてがうことはなかった。
公爵家の子息ともなれば、家同士の繋がりやパワーバランスを考えて婚約を結ぶことは珍しくはない。
貴族にとって婚姻とは家同士の繋がり、いわば契約なのだ。
その相手が望ましくない──というのは、少なくない。
その結果、夫婦仲は冷めきり、家のことは義務的になり……という悪循環に陥るそうだ。
だから父上も母上も、常々「愛する女性を見つけなさい」と私たちに仰っていた。
愛する女性をみつければ、きっとその人のために、今以上に力をつけるからと。
力をつけることがあれば、愛する人を悲しませることも、きっと少なくなるからと。
その頃はまだ愛する女性に出会えるとは思っていなくて──だから、父上の剣を学ぶために、魔物が出没しやすいレイズ領に訪れた時。
彼女を見かけた時は、かなりの衝撃が走ったのをよく覚えている。
端的に言ってしまえば、一目惚れだった。
ただひたすらに、彼女の美しい笑顔を、可愛らしい笑顔を、愛おしい笑顔を、護りたいと思ったのだ。
しかし、たまたま通りがかった先で、偶然見かけた似たような歳の女の子。
相手が誰なのかも分からず、父上が剣でばっさり魔物を切り捨てるところを目の当たりにしても、モヤモヤとしたものが心を占めていた。
「父上……ご相談が、あるのですが」
「相談?珍しいな、レオンハルト。その内容は……先程から上の空であることと、関わりがあるのか?」
……やはり父上には、あの子を一目見た時から、私がぼんやりしていたことに気がついていたのだろう。
今思えば父上の表情は柔らかく──剣に関しては厳しい父上が、上の空であった私を叱りつけなかった時点で、なんとなくの察しはついていたのだろう。
私が素直に女の子の話をすると、父上は楽しそうに、それでいて嬉しそうに、母上が嫌がるからと決してヒゲは伸ばさず、きれいに整えられた顎を撫でた。
「その子を見つけることは可能だ」
「っ本当ですか!」
「もちろんだ。ただし、それには条件をつけることにしよう」
父上が仰る条件というのは、これからあの子を見つけるまでの期間、剣や魔術の鍛錬をつむこと。
そして、たとえその子を見つけたとしても、堂々と会いにいくことはしないこと。
一目見ることが出来なくても彼女への想いが消えることがなければ──彼女に会ってもよい、というものだった。
本当は、すぐにでもまた、あの子か会いに行きたかった。
もう一度あの笑顔が見たくて、その笑顔を、私に向けてほしいと思った。
けれど──それが、叶わないというのなら。
あの笑顔を心の糧に、彼女に再び会えるまでの間、この想いを温め続けるしかない。
再び彼女を目の当たりにし、彼女と互いに、目を合わせるために。
それから彼女を再び目にするまで、5年もの月日が流れてしまった。
彼女を一目見た時に心惹かれたというのは、父上だけではなく、母上や兄上たちにも報告して。
幼い頃はよくハインヒューズ家に訪れていた当時の友人であるジークやアランには、ついうっかり彼女のことを漏らしそうになり、慌てて口をつくんだものだ。
こんなにも心惹かれる彼女を、この国の王子である二人に見初められでもしたら──彼女を、取られてしまうかもしれないと思った。
機嫌がいいね、というアランの言葉に、つい、可愛い子を見つけたんだと、詳しく話してしまうところだった。
この国の王子が一言「その子を見つけて」とでも言えば、あっという間に彼女がどこの誰かはっきりとわかるだろう。
そしてあの子の笑顔に彼らが惹かれてしまったら……あの子が、自分以外の誰かに惹かれてしまったら。
想像するだけで、胸が張り裂けそうなほどに、苦しくなった。
不思議そうな表情を浮かべるジークやアランを適当に誤魔化せば、すぐに興味がなくなったのか、話は別の内容へと変わっていく。
これでいいのだ。
彼女を愛するのも……彼女が愛するのも……私だけであればいい。
5年の後、彼女を初めてまじまじと目にすることができた時。
心の底から膨れ上がる愛おしさは、初めて彼女の笑顔に惹かれた時のソレとはまるで違う、もっと大きくて、もっと心が苦しくなって、もっと心惹かれるようなものだった。
5年間で彼女への想いは燻るどころか大きく燃え上がり、轟轟と音を立てる炎のようになっていた。
ただ、ひたすら、彼女が欲しいと思って───。
「ん……」
小さく身じろぎ、私の腕の中でもぞもぞと動く、愛おしい女性。
あれから順調に肩書きだけの婚約者になり、互いに想い合う婚約者になり、そうして今では、夫婦になった。
婚姻前から共に暮らすようになった屋敷は、ドラゴン討伐の報酬や今まで魔物討伐により貯えてきた金を惜しみなくつぎ込んだ満足のいくものだった。
さすがに婚姻前に同衾することははばかられたため──もちろん私は大歓迎だったのだが、恥ずかしがり屋のリリィが辞退したのだ。
ほんのり顔を赤らめて「ちょっと、恥ずかしいわ」と小さく告げるリリィはこの世の何よりも可愛らしい。異論は認めない。
私の胸元に擦り寄って、すやすやと気持ちよさそうに寝入るリリィは、もう天使や女神といった存在と比較するのも烏滸がましいほどの神々しさだ。
そんな彼女が私なんかの妻であるというのは大変申し訳なさがこみ上げると同時に、彼女をなんとしてでも手に入れようと奮闘した過去の私を手放しで褒めたたえたくなる。
夫婦になって、数ヶ月。
婚姻式ではリリィには内緒に用意させたドレスを纏ってもらい──途中でついうっかり口が何度か滑りかけたが、たぶん、バレてはいなかったはずだ──リリィの美しさにもう数え切れないほど心臓を射抜かれた気分だった。
顔を赤らめて、でも嬉しそうに笑ったリリィの笑顔は、一目で惹かれたものと同じか、それ以上に美しいと思えるもので。
婚姻式のあとに初めて同衾して、初夜を迎えて、身も心も余すことなくようやく彼女を手に入れられて──きっとこれ以上の幸せを感じることはないだろうと、そう思った。
あいにくそれ以上の幸福というものは比較的すぐに訪れたのだが、それを恥ずかしそうに嬉しそうに教えてくれたリリィはこの世の至上で至高である。
まだまだ膨らんでこない彼女の腹に、私とリリィの血を分けた命が宿っているのかと思うと、とてつもなく、幸せだ。
妊婦のつわりは酷いと聞くし……少しでもリリィと、まだ見ぬわが子が苦しまぬように、新たな魔法道具を開発せねばなるまい。
まずはもう少し愛する妻の寝顔を堪能してから、着手するとしよう。
リリィの頬をそっと撫でれば、へにゃりとリリィの口元が緩む。
ついうっかり可愛すぎて叫びそうになったので、慌てて空いている手で口元を抑えた。
私の妻が死にそうなほど可愛い!