#08「Message」
数分後。
「はぁ…はぁ…」
僕は目的地に辿り着いた。屋上に入る一歩手前、非常用の鉄扉の前に。
ここまで計画性に忠実だった連続殺人だ。再び紅葉を狙って、その巻き添えで莇が殺されない事を願う。
僕はドアノブを回して、その重い扉をゆっくりと開いた。
「…!!」
突然、扉に大きな衝撃が飛来した。同時に、破裂音も。
(やば…!)
僕は咄嗟にドアを閉める。大きな凹みがドアノブ付近にできていた。発砲されたか。
続けて2発、炸裂音がした。扉の中心付近と、足元。どちらも鉄扉を貫通するには及ばなかった。
一気に心臓の脈拍が激しくなる。3日前、錦糸町の家電量販店から身を投じて自殺した時は恐怖なんてものは無かったが、他人に殺されかけるという感覚は意外と恐ろしいものだ。一瞬の出来事だったから、尚更だった。
さっきのは威嚇で発砲したのかも知れないが、次開けたら間違いなく弾丸が僕の脳を穿つ。かと言ってこのままでは事が進まない。何か手を打たねば。
(…!)
そこで僕ははっとして、試しに叫んでみた。
「---誤射した犯人を殺しても、娘は戻って来ない!」
鉄扉越しでも聞こえるよう、大声で。コンクリート臭のする非常階段の空間に、繰り返し響く。
「…」
長い沈黙。やがて、小さな返事が聞こえる。
「…入れ。撃たない」
野太い声だ。何だかんだ言って、五十嵐信次の肉声を聞くのは初めてだ。
(…)
言葉の信憑性に欠けてはいたが、それでも進まなければ。僕はドアノブをゆっくりと開いた。
眩しい夕日が差し込む。単調で味気ないコンクリートの地面。その中央に、彼は立っていた。
目を鋭くしてこちらを強く警戒している。右手には簡素な九四式拳銃を持って、銃口を僕に向けていた。狩猟会のサイトや本部の机にあった彼の写真とは変わって、そこに笑顔の二文字は存在しない。全くの別人のようだった。
「…私服警官か?」
「一般人です。個人的に事件は調べていましたが」
「…誤射と言ったな。どこまで知っている?」
「…2年前、雪山の狩猟で《欅坂》の誰かがあなたの娘---五十嵐雪乃を誤って撃った、ってくらいは」
「充分だ」
信次は唸るような声で答えると、拳銃を下ろした。少しだけ、心理的余裕が生まれる。
「さっきの銃声で誰かが通報したんじゃないですか?」
「かもな。君が立ち塞がるなら、私は捕まるだろう」
「捕まる気なんですか?」
「そうだ」
彼は大きく頷く。
「…どうして、2年前の行方不明の事件を、今更殺人だと疑ったんですか」
「警察の捜査が無価値だと思ったからだ。雪乃は空気銃を使っていたから、火薬の匂いを警察犬に嗅がせても仕方無い。血の匂いは探れたようだが、獲物の血も混じっているから無意味だ。香りじゃDNA鑑定もできないしな」
「それじゃあ、自主的に調べたんですか」
「ああ…実際にあの山へ踏み込んで、一人の《猟師》として捜査した。麓のログハウスに猟銃レンタルをする店があってな、その店主にも手伝ってもらったが」
「…」
「店主の証言が気になった。『気付いたら車が忽然と姿を消していて、後から戻って来た』と。通報はその後だったらしい。当時は山の周囲を一度捜索したんだろうと思っていたが、私がやって来て別の可能性を考えた」
「…なるほど」
残念ながら、誤射の疑いは晴らしようがなさそうだ。僕は話を変えた。
「あなたはこの後、どうするんですか」
「さっきも言っただろう。警察に捕まると」
「それは嘘です。あなたは自殺するつもりです」
僕の発言に、信次は耳をピクリと動かした。
「きっと向こうにある、ここより一段高いビルに空薬莢でも置いているのでしょう。どうして他殺に見せかけるんですか」
「その前に質問させろ。何故自殺すると分かった」
「---動機があるからです。娘に狩猟を教えた事、後悔しているんじゃないですか?」
「…!」
信次の表情が一変する。
僕は、何故信次が前の時間軸で自殺したのか、色々考えてみた。娘を殺した犯人に復讐するまでは理解が及ぶが、自分を殺す動機が思い当たらなかったのだ。だが、莇と一緒にあの記事を見た時に、何となくではあるが、彼の心理が覗けたように思えた。
自然との触れ合いが心を踊らす戦いだと宣伝して、娘に狩猟を推した自分が赦せなかったのかも知れない。娘は、自らの趣味のせいで、自分が狩猟を学ばせたせいで---
---即ち、自身が原因で娘が死んだのだから。
父親は精神を病んだ。心が愛しい子供のことで満たされていた彼は急速に崩壊を進め、自分を極限まで追い詰めた。それが、本来の優しい父親を、復讐に燃える殺人鬼に変えてしまった。自殺の動機としては、娘の居ない世界に耐えられなかったというより、自責の念の方が強いのかも知れない。
「…ああ、その通りだ」
信次は諦めたように溜め息をついた。誰にも打ち明けられなかったこの思いを、すっと吐き出すように。
「他殺に見せ掛ける理由は?」
「私もこの連続射殺事件の被害者になりたかっただけだ。娘の気持ちになって死のうと思って」
そう言って、信次は拳銃を自らのこめかみに向けた。銃口と距離を離しているのは、頭皮に火傷跡を残して自殺だと思わせないためか。
すると突然、信次がふっと笑みを浮かべた。
「だが、その前に殺さなきゃならない人がいるな」
「え?」
そう言うと、信次は銃口の向きを変えた。
僕の立つ方向へと。
「…っ!?」
「さらばだ、青年」
瞬間、銃口から、無慈悲に火が放たれた。
「…っ!!?」
鮮血が踊る。
冷徹の弾丸が、体を抜けて空を裂いていく。
血がコンクリートの床へとポタポタと垂れ、屋上に吹く風に流されたように、その場へ膝をついた---
---その弾丸を撃ったはずの、五十嵐信次が。
「なっ…!?」
五十嵐は目を剥いて僕の後ろを見た。僕は反射的に、背後を振り向いた。銃声は、僕の後ろからしたのだ。
3つの大きな弾痕を残した鉄扉。
その裏で煙を吹かす拳銃を持っていたのは---
「…あまり、無茶はするな」
警察の制服に身を包んだ、守谷二朗だった。
「守谷!」
「ホント不思議だわ…。何で射撃場所がここだって分かって---おっと、これは訊かない契約だったな」
守谷は僕の手を掴んで背中側に回らせると、相手の持っていた九四式拳銃を屋上の端へと蹴り飛ばした。
信次は、右肩を射抜かれていたようだった。激痛を必死に堪えるように、歯を剥き出しにして呼吸する。
「大丈夫、掠めただけだ」
守谷の言葉で、信次はきつく閉じていた目を開く。出血部分を押さえていた左手を退かすと、そこには鎖骨付近を赤く塗られたYシャツがあった。確かに、損傷は少ないように見える。
「私を…」
「ん?」
「私を、早く殺せ…!」
苦痛の中、信次が叫んだ。
勿論、娘のいる天国に逝きたいからではない。これが、彼なりの贖罪。
だが、守谷は信次の手を取って言い放つ。
「…娘さんは、そんな事望んでないみたいだぞ?」
「え?」
すると、守谷は制服のポケットから派手な装飾がなされたスマホを取り出す。そのカバーの色に、僕ははっとした。
「…!それが…」
「ああ、五十嵐雪乃のスマホだ」
そう言うと、守谷は塞がっていない右手でそのスマホを操作する。まるで自分のスマホのように、暗証番号を「0411」と入力して。
守谷が開いたのは、トークアプリだった。僕と信次は、その画面を覗く。
「…?」
「あんたのスマホに、娘さんが2年前のあの日、送ろうとしたメッセージを再送信した。きっと、狩猟中の山の中じゃ圏外だったんだろう」
すると、信次の上着のポケットで何かが鳴動した。彼は、ゆっくりとその中へ左手を入れ、スマホを取り出した。危険物でも取り扱うかのような手つきで。
ロック解除、アプリ起動。画面をタップする指は震えている。
僕は守谷の持つスマホを覗いた。
今しがた、既読のマークが付いたそのメッセージは---
『---みんな、赦してあげて』
---それだけ。
彼女の意図は伝わる。
だけど、伝わるのが遅すぎた。
「…!!」
目の前で、彼がスマホを落とした。コンクリートの床に打ち付けられて、画面に大きなヒビが入ってしまう。
「…私は…!!」
消え入るような声で、掠れた声で、復讐に燃えていたハンターは泣く。
「…本当に、天使みたいに優しい子だ」
守谷はそう言うと、鞄から錆びた手錠を取り出した。絶望にうちひしがれた彼には、抵抗する気力など残っていなかった。
---後悔に囚われたその男は、守谷に手を掴まれ、本物の枷に捕らわれた。
メッセージ送信時間、9月6日18時16分。
これがあと2日早かったら、この父親と《欅坂》はどれだけ救われただろうか---
***
僕と守谷は、信次を連行してかもめ橋の近くへ降りた。ビルの下にはパトカーが数台停まっていて、3人はそれで移動した。何の罪も犯していないのにパトカーに乗せられるのは、僕としては居心地が悪かった。
車から出ると、木のベンチにその少女---芳野紅葉は座っていた。莇は服のよれを気にしながら、彼女の隣に佇んでいる。
「あんたが、最後の被害者か」
「…はい」
彼女は極めて細い声で答えた。この至近距離でいるからこそ聞こえるくらいの、小さな声だ。僕には、パトカーの方にいる信次のことを気にしているようにも見えた。
「これを」
「…?」
「五十嵐雪乃が父親に---いや、父親と《欅坂》に届け損ねた、2年前のメッセージだ」
守谷はさっきと同じように、雪乃のスマホを彼女に見せた。彼女が2年前、愛する父親に送れなかった、短い遺言を。
「…!!」
彼女ははっとした顔をした。そして、割れたスマホの画面を何度も何度も読み返す。その目まぐるしく動く眼球から塩辛い水滴が流れ出すまでは、そう時間は掛からなかった。
「…雪乃…っ…!!」
彼女は、目の周りを赤くして号泣した。袖で涙を拭いても、止めどなく溢れる。夕日の沈んだ橋の側で、ただ、その声は長々と響いた。
(…)
妥当な反応だ。彼女の優しさは、他の誰をも越えることはできない。その優しさに触れた紅葉は、2年間双肩に担っていたその重責から、一気に解放されたのだから。
僕はついでに、隣に座る莇の反応も観察した。守谷の持つスマホを横から覗いて、一瞬あっとした表情を浮かべたが、すぐに口を真一文字に閉じ、左の紅葉を見やっている。
(…?)
何と言うか、表情と言動が合わない。紅葉を気遣っているようにも見えるが、それならもう少し柔らかい顔を見せるべきだ。今の莇の顔は無表情どころか、僅かな苛立ちさえ感じられた。一体何を考えているのか。
やがて瘧が落ちたように、紅葉の号哭が収まった。守谷がタイミングを見計らって、だが厳かな声で尋ねる。
「…やっぱ、アンタが彼女を誤射した当人か?」
紅葉は、暫く何も答えなかった。視線を地面に向けて、今にもまた泣き出しそうだった。
一つ冷たい秋風がその場を吹いた後、微細な声で彼女は返した。
「…はい」
「…分かった」
守谷がそう言った時、遠くからサイレンの音がした。側に止まっているパトカーとは別のものだ。紅葉がすっと立ち上がる。
「…ごめんなさい」
彼女は、呟いた。守谷は何か言いたげだったが、警察という立場に責任を感じているようで、何ともやり辛そうな顔で無言を貫いた。
代わりに声を掛けたのは、意外にも莇だった。
「---それは、誰に対しての謝罪ですか?」
「え…?」
意表を突いた話し手に紅葉は戸惑いながらも、彼女の口元を見る。
僕はそれとなく想像してみた。僕と信次がビルの屋上で対峙している間、この二人がどんな会話を交わしていたのか。
莇は寡黙だったのではなかろうか。紅葉がビルと反対方向を向いていたことから彼女には殺される覚悟があったのに、それを阻害されたことを彼女は怒って、莇は言い返せなかったのではなかろうか。
でも僕には紅葉が声を荒げるところも、莇が何も言わないところもイメージできなかった。極めて普通に、莇が大丈夫かと尋ね、それだけで後はずっと無言で僕らを待っていた気がしてきた。だからこそ、ここで莇が堪えきれず口を開いたのだと、僕は勝手に納得した。
「もし、あのメッセージが父親に届いていたら、彼はあなたを赦したでしょう。謝罪の必要はない」
「それだけじゃない…。雪乃にも…」
「なら、彼女の分まで生きて下さい」
莇は、鋭い目付きで紅葉を見据える。
「---彼女のメッセージは『生きろ』という意味です。それが、彼女の願いです」
---私以外の血を流さないで、という切なる願い。
本当に短い文面だが、そこには3人の猟師と1人の父親の人命が懸かっていた。
約束は、半分しか果たされなかったが。
いや、半分は果たされたのだ。
紅葉は年下の少女の壮大な発言に、暫し言葉を失ったが、
「…はい」
さっきよりも確信を持った返事が僕らの耳を強く打った。
少しして新たなパトカーが守谷の後ろに停まり、サイレン音を切る。
「…さあ」
「はい」
守谷の優しい呼び掛けに、紅葉は抵抗なく車両の中へと入って行く。紅葉の顔は、とても複雑な表情をしていた。恐怖、後悔、感動---色んな感情が絡み合って、一つの形容できない心だ。
その後搭乗しようとした守谷は、こちらを一瞥する。
「…お前、本当に不思議だ」
「そうかな」
僕は適当にはぐらかす。守谷はじっとこちらを見据えるが、やがて観念したように、パトカーに乗車した。
僕と莇は、最後まで見届けた。
赤いサイレンの音が聞こえなくなる、その瞬間まで。