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 有意義な朝食が終わると、王様トリオは国政の話し合いとかで早々に部屋を出て行ってしまった。

 兄さん達も父さんが今日行うはずだった公務を消化するために、俺の頭を撫でてから追われるように部屋を後にする。

 そんなみんなの後ろ姿を眺めながら、俺だけが全く役に立てていないことを今更だけど痛感していた。

 この前までは眠っていたんだから仕方がないのかもしれないけど、この世界で生きていこうと決めた以上俺だって何かの役に立ちたい。

 しかも折角国のために行動できる『王子』っていう立場なんだから、一刻でも早く体力付けて知識も詰め込んで公務に就きたい。


「ミュラ様、お食事が終わったのでしたら部屋へ戻りましょう」


 俺の食事の手が止まっていたことに気付いたのか、パオが腹をパンパンに膨らませている白金を小脇に抱えて伺いを立ててくる。

 ミーミーと鳴きながら短い手足をじたばたとさせている白金を見ていると、何となく和んでいくのを感じる。


「そうだな、戻ろっか。ご馳走様でした」


 フォークとナイフを皿の上に置くと、両手を合わせてお馴染みの言葉を口にする。

 暴れまくる白金を涼しい顔をして捕まえているパオに促されて立ち上がり、メイドさんが開けてくれている扉から自分の足で歩いて出た。

 まだ身体が万全じゃないから歩みは遅いけど、目覚めた時から比べればかなりの進歩だよな。

 少し後ろを歩くパオも急かすことなく俺に合わせてくれているし、廊下を行く使用人のみんなも温かく見守ってくれているみたいだ。

 優しい人達に囲まれて、俺はやっぱり幸せ者だ。

 早く恩を返せるようにできることから頑張らなくちゃな。


 俺に宛がわれた日当たりのいい部屋に入ると、出た時よりも明らかに物が増えている。

 大方また何処ぞの金持ちから贈られた物だろう。

 俺が不在の時くらいはプレゼント置いていかなくてもいいだろうに…


「ミュラ様、俺は白金の湯浴みに向かいます。何かありましたら表の兵に声をかけてください」


 テーブルセットに紅茶の支度をすると、パオが白金を抱えたまま恭しく頭を下げてくる。

 ペットの入浴くらい飼い主がするべきだとは重々わかってるんだけど、俺は自分の入浴すらままならないから誰かに頼まざるを得ない。

 パオは俺の従者だから本来なら他の使用人に白金を任せないといけないんだけど、何故だか白金はパオ以外だと暴れて暴れて手が付けられないらしい。

 俺が想像するに、パオの時にも白金は暴れまくってるけど、ただ単にパオが物ともしてないだけだと思う。

 現に今もずっとパオの小脇で白金が暴れてるし。


「うん、いつもありがとな、パオ。白金もいい子で綺麗にしてもらうんだぞ?」


 今にもパオの腕に噛み付こうとしている白金の頭を緩く撫でてやると、途端に大人しく俺の掌に額を擦り付けてくる姿に笑みを誘われる。


「お任せ下さい。半時ほどで戻りますので、その間はお茶でも召し上がられて休んでいて下さい」


 やんわりと身体を離すパオに手を引っ込めて椅子に腰掛けると、扉の前で律義に一礼してから去っていく姿に小さく手を振る。

 パタンという扉が閉まる音と共に、一人ぼっちになってしまった。

 いつも誰かしら傍にいるから、こんなにちゃんとした一人は久し振りかもしれない。

 みんなでわいわいするのも嫌いじゃないけど、たまにはこうやって一人の時間を持つのもいいかもな。


 パオが用意してくれたポットからティーカップに紅茶を注ぎ入れて、大きな窓から朝日に輝く庭を眺める。

 どんだけセレブな奥様だよ!!

 とツッコミたくなる気持ちを押さえて、花の香りがする紅茶をゆっくりと楽しむ。

 このティーカップも紅茶もお茶請けも祝いとして贈られた高級品らしいけど、生憎とその価値をわからない俺には全く有り難みが湧かない。

 こんなプレゼントなんかよりも、ヴォルグ帝王陛下やティオニ国王陛下みたいに面と向かって言葉をくれる方が何倍も嬉しい。

 だからといって、くれる物を捨てるなんて出来ずにこうやって使ってるわけだけど。

 椅子の背もたれに身体を預けてぼんやりと紅茶を飲んでいると、不意に何の音も立てずに俺の喉元にひやりとした物が当てられた。


「声を立てたら殺します」


 俺、いきなりピンチみたいです。


 いつの間にか背後に回っていたらしい謎の人物が、俺の首に何かを押し付けている。

 この状況で冷たい物といったら、選択肢は自ずと限られてくるだろう。

 刃物的なアレだ。

 こんな状況ドラマか映画か漫画くらいでしか見たことがない平和な国出身の俺は、滝のように溢れ出る冷や汗を拭うこともできずにただただカップ片手に硬直する。

 それ以外に俺に何ができよう…


「あ、あああ、あの…騒がなかったら、殺さないんですよね?」


 取り合えず、今一番大切なのは俺の命だ。

 これだけは確認しておかないと、緊張からくる動悸だけで死んでしまいそうになる。


「殺害が目的ではありません。貴方さえ大人しくしてくだされば、危害を加える気はありません」


 どうやら殺されるという最悪の結果にはならないみたいだ。

 命の保証がされたことで僅かに余裕が出てきた俺は、震える手でソーサーにカップを戻しながら背後の人物の様子を伺ってみる。

 声からしてまだ若い大人の男だと思う。


「そそそれじゃ、一体何が目的なんですか…?」


 死亡が遠退いたとしても、未だに喉に当てられた刃物的な存在のせいで声が震えてしまう。

 情けないけどそれでも果敢に話し掛ける俺を誰か褒めてくれ。

 命が目的じゃないなら、俺の利用価値なんかそんなにないだろう。

 1番有り得そうなのは、俺を人質にとってアーレ国を脅すことかな…


「貴方には今から我が国にお越しいただきます」


 キタコレ……てことは、誘拐ですか、拐かしですか、神隠しですか?


「いいいやいや、俺なんかがお邪魔したところで、穀潰しにしかなりませんよ? こう言っちゃ何ですけど、俺は国の極秘事項なんか知りませんし、ただの末っ子であんまり価値はありませんからね?」


「……貴方は、ご自分の価値がわかっていないのですか?」


 不意に首に当てられていた刃物的な物が離れていった。

 何となくだけど、謎の青年が俺の言葉を聞いて盛大に呆れているような気がする。

 俺のヘタレ具合に抵抗しないとでも思ったのか、謎の青年が背後から前へと移動した。

 ようやく見ることができた姿は、全身黒ずくめで頭には黒い布を巻いている、まるで忍者みたいな風体だ。

 唯一見える目は琥珀色で、静かに俺を見下ろしている。


「そういえば、目覚められたばかりだそうですね。知らないのも無理はない…か」


 手に持っていた刃物的な物…鎌のように湾曲した刃を懐にしまい込みながら、俺を見詰める目が一気に冷たさを帯びたような気がする。

 俺は大人しく両手を膝の上に置いて、込み上げてくる恐怖を押し殺し懸命に青年を見上げた。


「随分と甘やかされているのですね…。私達が血反吐を吐いて死に物狂いで生きているというのに、貴方はこんな温室で何も知らないままぬくぬくと生きている」


 悲しみや苦しみどころか憎しみまで滲んだ眼差しを向けてくる青年に、嘘偽りを口にしていないことは何となくわかった。

 この青年が言うことを信じるなら、俺は何か重要なことを知らないらしい。

 しかもそれは俺の価値に関すること…いわゆる俺自身のことのようだ。


「……俺は、何も知りません。だけど、無知が免罪符になるとは思いません。無知は罪です…だから、貴方が知っていることを教えてください」


 知らないことは知らなきゃいけない。

 それがどんなに覚悟がいることでも。

 俺は全てを聞く決心をして膝の上で硬く拳を握った。


「…この世には、人間と魔族が存在しています。魔族は少ないですが、その手下である魔物は数も多く人間を襲います。しかし、稀に魔物が嫌う『気』を放っている人間が産まれるそうです。その者は『破魔神子』と呼ばれ、大陸に存在するだけで魔物を遠避けることができます。でも…私が住むグノンアーデ和国は北の端にあるため、破魔神子の力が及ばないのです」


 切れ長な琥珀色の瞳が悲しみに揺れている。

 俺を真っ直ぐに見詰めているけど、俺を通した遠くを思っているようにゆっくりと目が細められていく。


 魔族に魔物に破魔神子にグノンアーデ和国。

 知らないことばかりの内容に、俺のためを思ってみんなが口をつぐんでくれていたのがわかり、何だか複雑な気持ちになってくる。

 だけど、この話の流れで言うと嫌な予感しかしない。


「何としてでもお越しいただきます。貴方の力が必要なのです、破魔神子」


 ……

 ご都合主義にもほどがあるだろぉおおおっ!!!!


 この世界には凶暴な化け物がいて、そいつらが苦手なオーラみたいなのを出してる破魔神子って奴がいて、何処からともなくやって来た忍者もどきが俺を破魔神子って呼んでるってことは、真偽はともかく少なくともこの青年は俺がその破魔神子だと思っているということになる。

 って、んなわけねぇだろぉぉおおおおっっ!!

 確かに俺は、眠っている間も破格の待遇を受けていたらしいし、起きたら起きたで各国の役人や王族からプレゼント攻撃されるし、破魔神子の話なんて全然教わってないし…


 ………

 あれ?

 これまでの不可解な事柄も、俺が実は『破魔神子』だったら…って当て嵌めたら全部辻褄が合うんですけど。

 性別関係なしに男の俺を嫁に貰おうとするのも、みんなが大切にしてくれたのも、俺が自国から化け物を追い払うのに必要な存在だったからかもしれない。


「ちょっ、ちょっと待ってください! 俺がその破魔神子だって根拠は!? メッチャ普通で平凡な人間なんですけど、俺!」


 コイツが言うような不思議な力を感じたこともないし、いきなり言われてはいそうですかといくわけがない。

 怪訝そうに俺を見下ろす青年の表情が、ちょっと人間味を帯びてきてるような気がする。

 俺はそんなに変なことを言っただろうか…


「破魔神子は代々このアーレ国に現れ、その髪は世にも稀なる銀色だといいます」


 いやいや、俺黒髪だし…

 …………あ。

 しまったぁあああっ!

 今の俺超銀髪だった!!

 17年間培ってきた平凡根性は、一朝一夕には中々抜けないもんだ。

 そういえば父さんも茶髪だし、兄さん達も金髪だったっけ。

 銀髪が破魔神子とかいう奴の証拠だって言われれば、紛れも無く俺はそれに当て嵌まってしまう。


「そ、それで…もし貴方について行ったら、他の国はどうなるんですか?」


 アーレ国は大陸のほぼ中央に位置してるから青年の言う化け物が寄り付かないオーラが効いてるわけで、北のグノンアーデ和国に行ってしまえば南の国はどうなってしまうんだ。


「我が国はこれまで苦しんできました。国は傾き、国民は飢えと恐怖に毎日のようにその命を落としています。私達にこれからもその苦しみに堪え続けろとおっしゃるのですか」


 琥珀色の瞳が悲しみと憤りに揺れているように見える。

 俺が知るこの国も両隣の国も貧富の差こそあれ、飢えることなどないとないと聞いている。

 グノンアーデ和国の苦しみが俺の存在ひとつで左右されるなんて。


「どうしても俺が行かないとダメですか? 他のモノで代用とかは…」

「腕でもくれるというのですか? 破魔神子の血肉はかなりの効力を持つと言われていますしね」

「血肉は…ちょっと…」

「私としても、神聖な貴方を傷付けたくはありません。どうか大人しく私について来て下さい」


 困った。

 この青年はきっと誠実な人だ。

 きっと俺を奪うことで被る他国の災いを理解しているけど、自国への愛に心を鬼にしているんだ。

 できることならこの人もグノンアーデの人達も助けてあげたい。

 本当に俺にそんな不思議な力があるのなら、大陸中の人達のために等しく尽力したい。

 痛いのは嫌だけど極端な話、俺の身体を死なない程度にバラバラにして大陸の端っこに置いていけば化け物から人々を守ることができる。

 実際には無理だけど、もしそれが可能なら…


 不意にさっきヴォルグ帝王に貰った剣の存在に気が付いた。

 目の前のテーブルに置かれた、切りたいと思ったものだけを切ることができる剣。

 もしかしたら、使いようによってはこれならどうにかなるかもしれない。

 きっと、俺がこの世界に生まれた理由はこれだったんだ。


 剣に腕を伸ばそうとした矢先、大きな音を立てて扉が開かれた。

 まるで初めて目を覚ました時のようだと微かに思いながらも、そこからぞろぞろと入ってきた面々に俺はただただ目を見開くしかできない。

 父さんを筆頭にヴォルグ帝王、ティオニ国王、兄さん達、パオと抱えられた白金。

 何処からどう聞き付けたのかはわからないけど、俺の部屋に勢揃いした男達に青年は鋭く舌打ちすると素早く俺の首に腕を回した。

 俺は咄嗟に剣を手にしたものの、座ったまま抵抗すらできずに硬直する。


「その服、グノンアーデの者か」


 父さんが苦い顔で呟く。

 他の人達の顔も一様に険しくなり、俺はどうやら青年の言葉が真実だったのだと悟った。


 ジェザノイド帝国の王とバマン大国の王とアーレ国の王と双子王子という錚々たる顔触れを前にしても、俺の首を締めてる青年は至極冷静に鎌のような刃物を取り出して頬に押し付けてきた。

 頬に感じる冷たさにビクッと身体が跳ねると、睨むようにこっちを見ていたみんなに動揺が走る。

 結局人質になってるじゃん、俺。


「貴様ッ、何処から入ったんだ!」

「ここの警備は城の何処よりも厳重なはずだ!」


 あっさりと捕まった俺を気にして、兄さん達が一歩も近付けないでいる。


「私はグノンアーデ和国に代々仕える暗殺一族の当主。この程度の警備、ないに等しく存じます」


 頬にピッタリと当てられた鎌は少しでも動いたら切れてしまいそうだけど、俺は不思議と最初みたいな恐怖は感じなかった。

 それは、この人と少し話をしたからかもしれない。

 悪い人には到底思えないもんな。


「ミュラ王子を自国に連れ帰る腹積もりですか」

「王子を誘拐するってことは、この大陸中を敵に回すってことだぞ」


 ティオニ国王もヴォルグ帝王も俺を心配してくれている。

 その真意は俺が破魔神子だからかもしれないけど。

 部屋に重苦しくビリビリとした雰囲気が充満して、無意識に呼吸が浅くなっていく。


「我が国に魔物以上の脅威はございません。破魔神子を迎えられれば、いくら大国のバマンであろうと、軍国のジェザノイドであろうと手出しは出来ないでしょう」


 青年の言う通りなんだろう、王様ふたりが悔しそうに歯噛みしている。

 俺ひとりのせいで大陸全体を巻き込むような戦争なんか起こさせたくない。

 こんなちっぽけな俺のために、そんな馬鹿げた話あるか。

 人一人の存在に左右される国なんて、平和になんか成り得ない。

 大陸の真ん中だけが守られてるなんて、誰が見たって不公平だ。


 俺は手に持っていた鞘からゆっくりと剣を引き抜く。

 細身の刃が明かりを反射するのを見咎めて、みんなが鋭く息を飲んだのが聞こえる。

 首に腕を回している青年も気が付いたのか鎌を持った手で剣を奪おうとするけど、それよりも一瞬早く俺は剣を振りかざした。


 目指すは、首。

 首に回っている青年の腕、じゃない。

 俺は一心に願いながら剣を振り下ろした。


 一瞬、みんなの顔が見えた。

 父さんの蒼白な顔。

 ロレス兄さんとルクス兄さんの泣き出しそうな顔。

 ヴォルグ帝王の驚愕の顔。

 ティオニ国王の悲愴な顔。

 パオの硬直した顔。

 白金の悲しそうな顔。

 青年の顔は見えないけど、きっとビックリしてるに違いない。

 人間って1秒にも満たない時間で、メチャクチャたくさんのことを考えられるんだから凄いよな。

 なんて関係ないことまで考えてしまいそうだ。

 それくらい、俺には剣が振り下ろされるのが遅く感じた。


 ―――ザクッ!!


 息が止まる。

 一瞬視界が真っ白になって、首に感じていた圧迫がなくなった。

 多分青年が腕を離したんだろう。

 そのまま床に倒れ込んだ俺は、ゆっくりと意識を手放して……

 いくわけもなく。


「………超怖かったぁああっ!! 息止まったしっ、視界真っ白になるし!! ちょっ、これ、パオ、これ! 切れてない!? 俺切れてない!? 首んとこ切れてないいぃいいっっ!!!?」

「…切れてます、御髪が」


 呆然となっている一同からいち早く立ち直ったパオが、相変わらずの無表情で返してきた。

 俺の長ったらしかった髪の毛は床にばらまかれ、ちょっとしたオカルトみたいになっている。

 そう、俺が狙ったのは青年の腕でもなければ、俺の首でもない。その後ろで結わえられていた俺の髪の毛だ。

 いくら切りたい物だけ切れるってわかってても、自分の首に向かって振り下ろすなんて並大抵の恐怖じゃなかった。

 震える手から剣を取り落とし高い金属音が室内に響いた瞬間、それまで固まっていたみんながハッと我に返った。


「「「ミュラァアアアーーーッッ!!!!」」」

「ギャアアァアアッッ!!」


 父さんを筆頭に兄さん達も勢い良く俺に抱き着いてくる。

 その迫ってくる絵面はかなりの迫力で、ついつい化け物に遭遇した時のような悲鳴を上げてしまった。

 だけど、涙を滲ませながら頬擦りしてくる父さんを押し退けることもできずに、安心させるように正面の父さんと両サイドの兄さん達を手でポンポンと叩いていく。


「驚かせて、ゴメン」

「ミュラッ、なんてことをするんだい! 綺麗な銀髪がこんなに短くなってるじゃないか!!」


 左側にいるルクス兄さんが、すっかり短くなった襟足を撫でながら嘆いている。

 元々短く切りたかった俺としては清々したと思ってるくらいだけど、どうやらみんなは違うみたいだ。


「ミュラ、可愛い息子。破魔神子の話…聞いたのだね」


 紫色の目を潤ませている父さんに小さく頷くと、再び深く抱き込まれてしまう。


「私の口から教えてやれなくて、すまなかった…!」

「ミュラ、私達は世界なんて重荷を君に背負わせたくなかったんだ…」

「不甲斐ないお兄ちゃんを許しておくれ、ミュラ!」


 三方向からギュウギュウと抱き締められる苦しさに感動どころかげんなりしていると、白金を小脇に抱えたままのパオがこっちに歩いてくるのが見えた。

 あ、これはまさか…


「邪魔です」

「「うわっ!!」」


 パオがロレス兄さんの頭を鷲掴みにして後ろ向きに転ばせながら、ルクス兄さんの肩を足蹴にして横向きに転ばせた。

 朝も思ったけど、パオは双子の扱いに慣れてるよな…


「陛下、ミュラ様が苦しがっておいでです」

「あぁ、すまなかった…ミュラ」


 流石に国王に対しては暴力をふるわないパオに改めて逆らわないことを決意していると、ゆっくりと父さんが身体を離してくれた。

 父さんも髪のことを気にしてか、しきりに俺の後ろ髪を撫でてくる。


「王子っ、髪を切るなんて正気か!? もしそれがナーデアの剣じゃなかったら…ッ、俺を心臓麻痺で殺す気かよ!?」


 少し離れたところでヴォルグ帝王が仁王立ちで怒りをあらわにしている。

 いや、これは心配故の怒りかな………ちょっとお母さんみたいだと思ってしまったことは秘密だ。

 その隣には口は笑っているけど蛇のような目になってるティオニ国王がいる。

 俺としては怒鳴るヴォルグ帝王よりティオニ国王の方が余っ程おっかない。


「ミュラ王子、貴方という人はご自分がしたことをおわかりですか? 破魔神子にとって御髪は魔力の貯蔵庫。神器にも等しき物なのです。それをあっさり切ってしまわれるなんて…何よりも、この世で唯一無二の美しい銀髪を手放してしまうなんて!! 愛らしい貴方には結い上げた銀髪がよく似合っていたというのに!!」


 うわ、段々ヒートアップしてきたよ…この人。

 だけど、


「……あー…良かった」

「何が良かったんですかっ、王子!」

「だって、すっっっごく怖い思いして切ったのに、この髪の毛に何の力もないんだったら意味ないじゃん。身体は切り分けられないけど、髪の毛だったら干からびることもないし、また伸びるし、痛くないし、スッキリするし、魔物除けになるし、まさに一石五鳥じゃん! 俺賢くね?」


 俺が床に座ったまま満面の笑みで言うと、みんなの目が真ん丸になっていく。

 あ、しまった。

 一応隣国の王様達には『ミュラ王子』として敬語使ってたのに、ついつい地が出てしまった。

 また王族の品格とか何とか諸々を、しこたまパオに叱られてしまう…


「ま、ミュラ様らしいと言えば、この上なくらしいですね」


 パオの呆れたような言葉が、俺の胸に刺ささった。


「ミィーッ!!」

「うごっ!!」


 見下ろしてくるパオの圧力に顔を引き攣らせていると、小脇に抱えられていたはずの白金がまるで弾丸のように俺の胸に飛び込んできた。

 いや、飛び込んできたなんてもんじゃない。

 突っ込んできた……いや、頭突きをかましてきたと言った方が正確かもしれない。

 余りの衝撃に倒れそうになるのを寸前で踏ん張り、胸に顔を押し付けて小さな前足で必死に服を掴んでくる白金を抱き締めてやった。


「白金も心配してくれたのか、ありがとな」

「ミーッ」


 あぁ…太い尻尾をブンブン振り回して喜んでいる姿が可愛すぎる。

 さっきまでの殺伐とした雰囲気に疲弊していた心が、白金のおかげで和らいでいくようだ。

 心にゆとりが生まれた俺はちらりと後ろに立っていた黒服の青年を見上げる。

 未だに唖然と琥珀色の瞳を見開いて俺や散らばった髪の毛を見ている姿には、ついさっきまでの鋭い雰囲気は見受けられない。


「あの、この髪の毛で良いなら持って行ってください。全部ってわけにはいきませんけど、化け物…魔物、でしたっけ? それが寄り付かなくなる程度は持ち帰ってください」


 自分の髪の毛なんかにそんな力があるのかまだ全然実感は湧かないけど、こんなものでも役に立てるなら出し惜しみはしない。


「なっ、何だと!? それなら我がジェザノイド帝国にも王子の髪をくれ!!」

「僕達バマン大国にも王子の御髪が必要です!」


 青年に言ったのに、突っ立っていた王様達の方が激しく食いついてきた。

 正気じゃないとか言いながら、結局は自分達も髪の毛を欲しがるんだから同レベルだよな。


「嘘をつくな!」

「お前等の国にはミュラの加護がしっかり行き渡ってるでしょ!? 国を建前にただミュラの身体の一部が欲しいだけなんだっ、この変態国王!!」

「何だとテメェッ!」

「一番の変態に言われたくありません!!」


 幼馴染み4人組がまた勝手に白熱しはじめたことを気にも留めず、俺は父さんに向き直って床に落ちた髪を一房掬い上げる。


「父さん…本当に俺の髪に力があるなら、大陸の端っこの国に無償でこれを配ってほしいんだ。勿論グノンアーデにも」

「ミュラ、しかしお前に手を出したグノンアーデを不問に付すことはできない。時に非情な判断を下さなければならないのが王の責務だ」


 俺には激甘い父さんが、厳しい国王の表情に変わる。

 確かにこんな無礼を容認していたら、アーレ国が他国に舐められてしまうから仕方がないのはわかっている。

 だけど、日本風に言うのなら情状酌量の余地は十二分にあるはずだ。


「父さん、俺は誘拐なんてされてない。ただこの人は、俺に嘆願していただけなんだ。傷付けられてもいないし、侮辱を受けたわけでもないんだから、この人を裁く理由は何処にもないよ」


 口から出任せのように見えて実際にその通りなんだから、俺も堂々と言って退けることができた。

 この件で誰も傷付いてはいないし誰もが被害者なんだから、ここは何事もなく円満に終わらせたいと思うのが人情だろう。

 俺の言葉に後ろに立っていた青年がようやく動きはじめた。

 瞬間周りに緊張が走るけど、青年はそのまま床に片膝をついて俺に向かって頭を下げる


「……我が国の為に御髪を切ってしまわれるなんて、私は…どう償えば良いのですか…」


 その肩が微かに震えているのが見えて、俺は白金を抱えたまま向き直った。

 俺が望むこと、それはたったひとつ。


「グノンアーデを平和な国にするために、これからも尽力してください」


 この青年が悪いわけじゃない。

 確かにその手段は褒められるようなものではないけど、俺にもっと知識があれば…もっと早くこうしていれば、青年は誘拐しようだなんて思わなかったはずだ。


 俺の言葉を聞いて驚いたのか顔を上げる青年に、クサイことを言ってしまった恥ずかしさが今更込み上げてくる。

 ヤバイ、かなりハズイ…

 じわじわと頬に血が上るのを感じていると、不意に青年の指が顔を覆っていた布を引っ掛けて何の躊躇もなく下げた。

 いやいやいやっ、暗殺を生業にしてるのに顔見せたらマズイんじゃないの!?

 黒い布の下に隠れていたのはスッと通った鼻筋に薄い唇、シャープな頬に細い顎…つまりはメチャクチャ美人なお顔で。

 一瞬この世界を呪いそうになったわ。


「あ、あの…顔……」

「顔を隠すなど元より無礼だったのです。その上貴方は我が国の救世主…この身を投げ出す覚悟はできておりましたが、貴方のご慈悲により救われたこの命。グノンアーデ和国ラン一族が当主ツェルカの全てを、ミュラ様に捧げたく存じます」


 堅苦しい言葉を並べ立てたかと思えば、青年・ツェルカは床に投げ出された俺の右足を恭しく両手で包み、あまつさえ上体を屈めて足の甲にキ、キ、キス…しやがった。


「「ミュラァア゛アアアッッ!!」」

「テメェふざけんな!! 表に出ろっ叩き切ってやる!!」

「貴様ッ、ミュラ様の御御足に接吻するなど…身の程を弁えなさい!!」


 幼馴染みカルテットが爆発するように絶叫する中、俺と父さんとパオはただただ目を真ん丸にして驚いていた。

 キスはする場所によってその意味が変わってくるらしいけど、確かこの世界じゃ足の甲へは隷属に下るという意味だったはずだ。

 いち早く復活したパオが兄さん達を沈め…鎮めて、今にも抜刀しそうなヴォルグを押さえているなんて気付きもせず、俺はただただ白金を抱き締めて硬直していた。


「……は? 今、のは…」

「我が一族はグノンアーデに仕えるが定め。しかし、私はミュラ様だけにお仕えしたく存じます。お気になさらずとも私には優秀な腹違いの兄がおります故、家督をそちらに譲れば一族は安泰でしょう」


 あれだけグノンアーデを愛していた男が、ちょっと散髪したくらいで国を捨て俺に仕えるだなんて信じられない。

 だけど、こんなに堅物っぽい人が冗談や嘘であんな誓いのキスをするようにも思えない。


「でも、それじゃ国を裏切ることに…」

「ふざけるな、誰に家督を押し付けてるんだお前は」

「……え?」


 不意に不機嫌な声が聞こえたかと思えば、それは隣に立っているパオからだったみたいだ。

 そういえばいつも以上に喋ってないと思ってたけど、これはよもやひょっとして…


「俺も母上も、もうラン家とは関わりがない。お前は大人しく祖国に帰れ」


 パ…パオが、敬語じゃない!!

 いや、それ以前にパオって暗殺一族の出身だったのか!?

 いやいや、それ以前にこのツェルカって人とパオは異母兄弟だったのか!?

 周りのみんなはその事実を知っていたみたいで、驚いてるのは俺だけだ。

 仁王立ちのパオが腕を組んだまま、膝をついたツェルカを冷たく見下ろしている。

 腹違いって言ってたし、もしかしたら俺なんかじゃ計り知れない二人の因縁があるのかもしれない。

 そう思わせるくらい、パオの瞳には静かな怒りが浮かんでいるように見えた。


「俺はお前が許せない。例え血の繋がった弟であろうとも」


 パオを見上げるツェルカに微かな動揺が走った。

 やっぱり、何かあるんだ…


「ツェルカ、お前は許されないことをした。よりにもよって俺がお仕えしているミュラ様に刃を向けた、理由はどうあれその罪は重い。そんなお前がどの面下げてミュラ様のお傍にいられると思う?」


 俺のせいかぁあああっ!!

 俺のせいで兄弟喧嘩が勃発しようとしてんのか!?

 もしかしたら久し振りの再会なのかも知れないのに、何で俺なんかのせいで争ってんだよ!!

 さっきとはまた違った殺伐とした雰囲気に、俺はどうやら白金を抱き潰す勢いで締め上げていたらしい。

 急激な光りが部屋を包んだかと思えば、目の前には人間になった白金が…


「母上様っ、白金を潰す気ですか?」


 もちろん今回も服を具現化できていないわけで。


「ぎゃああぁあああぁっっ!!」


 俺の意識はそこで途切れた。




 ***




 ただただ黒い空間だけが続いている。


 上も下もない暗闇の中でも、自分の姿だけははっきりと見えるから不思議だ。

 いや、これは夢なんだから不思議でも何でもないか。

 これは俺が小さい頃から時々見る、変にリアリティのある夢だ。

 子供の時には夢か現実かわからなくなって言いようのない不安を感じていたけど、何度か見るうちに慣れてしまった。

 今となってはまるで水に浮かんでいるようなふわふわとした浮遊感に、俺は恐怖どころか心地良さすら感じている。

 だけど、それもそう長くは続かないだろう。


「テメェ、また来やがったのか」


 不意に身体に何かが当たって、乱暴に腕を掴まれた。

 チラッとそっちを見れば、昔から変わることのない黒い甲冑姿の男がいた。

 これは俺の夢だというのに、毎回この男に不法侵入者扱いされて叱られる。

 折角いい気持ちで漂っていたのに、いつもいつもこの男のせいで台なしだ。


「うっさいよ。俺だって来たくて来たんじゃないって言ってるじゃんか」


 灰色の長髪にグネッと曲がった太い羊の角みたいなのが生えている男は、鋭い眼差しで俺を見下ろしている。

 今にも殺さんばかりの眼光だけど、一度も暴力は振るわれたことがないから怖くはない。

 灰色の目に浅黒い肌、口許から見える発達した犬歯はいつ見ても悪魔そのものだ。


「ざけんな。毎度毎度勝手に入ってきやがって…テメェの言葉なんざ信用できるか」


 低く冷たい声に一瞬ビクッと肩が跳ねるけど、すぐに掴まれていた腕を振り払い男から距離を置く。


「それはこっちの台詞だ! 人が折角いい気持ちで漂ってたのに、邪魔したのはそっちだろ!」


 俺の夢の中の住人のクセに、この男は初めから偉そうだった。

 こんな濃いキャラを作るなんて、どれだけ想像力豊かなんだよ、俺…


「……いい気持ち? 此処がか?」


 振り払われた手もそのままに、いつもは冷たく眇られた目が僅かに丸くなっている。

 この男が驚くなんて初めてだ。


「あぁ、暗い所って落ち着くし、ふわふわしてるのも楽しいし。ま、安全だってわかってるからこそ出来ることだけどな」

「落ち着く…楽しい、安全…?」


 思ったままのことを言ったのに、目の前の悪魔は全く理解が出来ていないようだ。

 この世の物とは思えないほど整った顔を歪め、遂には顎に手を当てて考え込んでしまった。

 俺ははっきり言って頭が良いわけじゃないから、悪魔が何をそんなに考えているのか全然わからない。


「………お前、馬鹿なのか?」

「馬鹿じゃねぇよ!! 良くもないけど、馬鹿じゃねぇっ!!」


 しばらくしてようやく顔を上げたと思ったら、何てことを言い出すんだコイツは!!

 やっぱり悪魔だ。

 俺の中で悪魔決定だ。


「こんな暗くて辛気臭くて不確かで汚らしい空間で、そんな呑気なことが言える奴は馬鹿以外ない」


 凄い言われようだけど、何故かその瞳が揺れているような気がして咄嗟に言い返すことが出来なかった。

 コイツはこの俺が作り出した空間に棲んでいるクセに、この場所がお気に召さないらしい。


「俺は、此処が……」

「遊ぶか!」

「………は?」


 暗い場所で暗い雰囲気になりそうだったから、俺は咄嗟に悪魔の腕を掴んだ。


「要は気の持ちようだろ? 楽しいことすれば、どんな所だって関係ないよ」


 心底怪訝そうな悪魔の顔が面白くて、俺はついつい笑ってしまいそうになる。

 掴んだ腕を振り払うことなく、悪魔はまた考え事をはじめた。

 まさかの俺放置。

 いや、スルーと言った方が正確か?


「なら、楽しいこと…するか」

「……へ?」


 どういう結論に達したのか、悪魔が掴まれていない方の手で俺の腰を引き寄せる。

 硬い甲冑の感触と冷たさにほうけたように口を開いていると、何故かどんどん悪魔の綺麗過ぎる顔が近付いてきた。

 吐息が唇にかかるほど寄せられ、そしてそっと覆い被さるように少し厚い唇が俺の物を塞ごうとする。

 唇に悪魔の吐息を感じた瞬間、俺の中で何かが音を立ててブチ切れた。


「何さらしとんじゃっ、我ぇええええっっ!!!!」


 唯一鎧をつけていない部分、顔を渾身の力でぶん殴った。

 夢だというのに鈍く走る拳の痛みに俺は眉をひそめるけど、殴られた方の悪魔は僅かに顔を離したものの全くダメージを受けていないように見える。

 俺の夢の中だというのに余りに理不尽だ。


「……何するんだ」

「それはこっちの台詞だっつーの!! そういうことはな、好きな奴か女の子としろよ!」


 殴られながらも俺の腰から手を離さないコイツにいい加減苛々していると、何を思ったのかもう片方の手で俺の髪をサラリと撫でてきた。

 いやいやいや、何なのこの状況。

 もし俺が女の子だったら、きっとときめきを感じるところなんだろうけど…残念ながら俺は男の子だ。


「……何?」

「髪、切ったのか? 見事な銀髪だったのに…」


 銀、髪…?

 黒髪じゃなくて、銀髪?

 もしかして、この夢の中ではずっと黒髪黒目の平凡・咲じゃなくて、ミュラの姿で漂ってたのか?


「は…? あれ、え…俺ってばずっと前から銀髪だった?」

「何言ってんだ。テメェは喋れないくらいちっせぇ頃から、ずっと銀髪だろうがよ。それより何で切ったんだ、勿体ねぇ…」


 指先まで鎧に覆われているからそんな手で撫でられたら冷たいはずなのに、俺はそんなことにすら気付かないほど動揺していた。

 ずっと前から?

 17年間平凡として生きて来たのに、夢の中ではずっとミュラの姿だったというのか?

 いや、これは俺の夢なんだからコイツの言葉は俺の深層心理が見せたまがい物の言葉かもしれない。

 だけどもし悪魔の言ったことが本当なら、この魂はやっぱりミュラの物だったということになる。

 つまり佐久間咲という日本人の器にミュラの魂が入っていたと。


「あー…マジか」

「テメェ、人の話聞いて……チッ、もう時間か」


 目の前の綺麗過ぎる顔がぼんやりと歪みはじめる。

 この感覚には覚えがある。

 俺はもうすぐ目を覚ますんだ。

 いつもなら素っ気なく振り向きもしない悪魔の腕の中にいることが、何だか少し可笑しい。

 しかも何でか知らないけど、悪魔が焦ってるみたいだし笑えるな。

 いつもなら、だけど。


「おい、クソガキ。何でそんな面してんのか知んねぇが、テメェはテメェだろうが。いつもみたいに喚きやがれ」


 悪魔の顔がまた近付いてくる。


「…じゃねぇと、調子狂うだろうが……」


 唇に吐息がかかった瞬間、全ては真っ黒に染まった。




 悪夢を見た。


 そこは暗くて狭くて、まるで棺の中のようなところだった。

 横たわる以外体勢を変えることもできず、どんどんと息苦しさだけが増していく。

 苦しい、狭い、怖い…

 いい知れない恐怖に急速に意識が浮上し、


「お前が原因かぁああああっっ!!」


 目の前にあったのは、俺をきつく抱き締めて身体に乗り上げている薄紫色の髪の毛だった。

 間違えた、人間の形をした白金だった。

 道理で動けないし息苦しい夢を見るはずだ。


「は、母上、様…ッ…ごめんなさい! 白金のせいで、母上様が…っ」


 しかも布団越しに俺の胸に顔を埋めて泣いてるみたいだし。

 あの夢を見たせいで忘れかけていたけど、確か俺はツェルカとか言う暗殺者に人質にされて、刀で首を通り抜けさせて髪を切ったんだ。

 そんで足に下僕の忠誠を誓うキスされて、パニクってるところに白金が全裸で現れて脳が許容オーバーでショートしたんだっけ。

 恐る恐るしがみ付いている白金の身体を見ると、白くてシンプルだけど上質な服を身に纏っていた。

 多分パオが用意してくれたんだろう、また全裸かと思ったからちょっと安心した。


 確かに俺が気を失う引き金になったのは白金だけど、そうなるまでには様々な要因が重なった結果なわけで。

 一概に白金が悪いとは言いきれない。

 俺の上でえぐえぐと泣く白金の頭を撫でてやると、涙で目元をキラキラと輝かせている美し過ぎる顔が俺を真っ直ぐに見詰めてきた。

 白金の人間バージョンを見るのは2、3回目だけど、この美貌は一生見慣れることはないだろう。

 白い肌に色素の薄い唇、白に近い紫色の髪の毛に角度によって輝き方が変わる金色の瞳。

 まるで人形と見紛うばかりの完璧な顔にジッと見られるのは、今に限って心臓的にかなりヤバイ。

 いくら男とはわかっていながらも、下世話な話ここまでの美形ならいける気がする…

 いやいやいやっ俺はノーマル以外の何者でもないんだけど、ぶっちゃけこの世界にミュラとして目覚めてから今まで一度もそういうことを致してないだけだから!

 フラストレーション溜まりまくりなだけだから!

 だって一人になることなんて寝る時しかないし、この世界にはティッシュなんて便利な物もない。

 それ以前についこの間までは歩くことすらままならなかったんだから、性的な行為なんて何ひとつできるわけもなかった。

 このままじゃ道を踏み外してしまいそうだ。

 こんな純粋培養のような白金の眼差しを向けられてドキドキするなんて、最早見境を無くした野獣じゃないか!!

 だがしかし、理性で乗り切ったとしても健康な男子だからこそ生理現象は免れない。

 夢精という名の羞恥プレイに、俺は堪えることなど不可能だ。

 どうしよう…湯浴みを一人でさせてもらうしかないのかな。


「あの、母上様…」


 生々しい思春期の悩みに思考を巡らせている俺を不安に思ったのか、白金が僅かに眉を寄せて綺麗な瞳に涙の膜を作ったまま見下ろしてくる。

 いつの間にか俺の顔を挟むようにシーツに両手をつく体勢で、メチャクチャ間近まで迫っている白金の顔にピシリと身体が硬直する。


「しっ、ししし、し白金っ、近、ちち近いって!」


 動揺しまくっている俺が不思議なのか、白金が小さく首を傾げる。

 チクショーッ、可愛いじゃねぇかコノヤロー!

 あー…ヤバイヤバイ。

 欲求不満と精神的肉体的疲労と目覚めたばかりだという状況のせいで、なんか…その、とにかくヤバイ。


「……取り合えず、まずは離れろ」

「そんな…母上様っ、白金のことを嫌いに…ッ、……あれ、母上様…白金のお腹に、あれ…?」


 嗚呼…今日ほどこの布団が薄っぺらなことを恨んだ日はない。

 自分でもわかってる。

 意志とは関係無しに元気になってしまったとある部分が、布団を押し上げて白金の腹付近に当たっていることを。


「……だから離れろって言ったのに。ほら、気持ち悪いだろ? いい加減俺の上から下りなさい」


 長く白い睫毛に覆われた目をパチクリと瞬かせた白金は、何を思ったのか下りるどころか満面の笑みを浮かべている。

 うわぁ…笑顔がキラキラ輝いて見える。

 バックに大輪の花まで見えてきそうな素晴らしい笑みを浮かべた白金は、あろうことか俺達を隔てている布団を剥ぎ取ろうとしやがった。


「うわっ、ちょっ待て! 今の俺には布団が必要なんだよ!! これだけが俺に唯一与えられた最後の希望なんだ!! このパンドラの箱を開いてみろっ、中には絶望しかないからな!!」


 笑顔で布団をひん剥こうとしている白金から、俺は懸命に最後の希望を死守する。

 しかしそこは竜王種といったところか、白金の力は半端なく強い。


「母上様、白金は心配なのです。人間のことはよくわかりませんが、ひょっとしたら重い病気かも知れません。竜王種の体液には治癒の効能があります。だから母上様の病気を治す為に、白金が舐めて差し上げますね」

「なっ、舐めっ!?」


 そりゃ舐めれば治るよ!

 治癒効果がなくても治るよ!!

 だけどこの素晴らしい笑顔は絶対に心配なんかしてない。

 まるで宝物を見付けた時のような、大好物を目の前にした時のようなそういった類いの笑顔だ。

 絶対そうだ!


「ギャアァアアーーッ!! やめろやめれやめろぉっ!! 布団を剥ぐんじゃねぇえええーーーっっ!!!!」

「貴様、ミュラ様に対する無礼…覚悟は出来ているのでしょうね」


 俺の上に喜々として跨がっていた白金の首に突如として刃物が宛てがわれるのが見えた。

 白金の透き通るように白い首筋に映える、鈍い鉛色の湾曲した刃物には見覚えがある。

 いや、それ以前に低く押し殺したような敬語にはかなり聞き覚えがあった。

 だけど、咄嗟に名前が出てこない。


「ほぅ、人間風情が我に刃を向けると申すか。このような鈍で我を傷付けられるとでも思っているのか、愚か者め」


 …出た、ブラック白金。

 さっきまでのキラキラ笑顔が幻だったのかと思うくらい、今の白金には表情らしきものは見当たらない。

 完全なる無表情で焦ることも怒ることもせずに背後の影にピシャリと言って退ける姿は、まさに誇り高き竜王種といった佇まいだ。

 カッコイイけど近寄りがたくて、俺はいつもの甘えん坊な白金の方がいいかな。


「……ならば、試してみましょうか?」


 俺から唯一見える刃物を持った手に力が込められたのに気が付くと、何を思ったのか俺は反射的に身体を起こしてしまった。

 腹に跨がるような体勢をとっていた白金は、咄嗟のことでバランスが取れずにそのまま後ろへと倒れていく。

 それにつられるようにして、白金の後ろにいた男もそのままベッドに倒れ込んでしまった。

 白金の後ろから見える白いシーツに広がった琥珀色の長髪を見て、予想通りの人物だったことに溜息が出そうになる。


「……ツェルカさん、貴方まだこの国にいたんですか…」


 俺に失神させるほどのプレッシャーを与え続けた張本人の登場に、さっきまでの生理現象なんて無限の彼方までぶっ飛んでしまった。


「…母上様、酷いです…。白金を突き飛ばすだなんて…」

「突き飛ばしてないだろうが、人聞きの悪いこと言うんじゃねぇよ」


 俺からすっかり熱が引いてしまったことが不服なのか、拗ねたように唇を尖らせてながらも起き上がった白金は俺の隣に腰を下ろす。

 拗ねているクセに甘えてくるなんてよくわからない奴だ。

 ベッドに仰向けで倒れ込んだまま唖然としているツェルカの様子を伺えば、状況が掴めていないのか鋭い瞳をあどけなく瞬かせている。

 こうやって見ると、やっぱりこの人も恐ろしくカッコイイ。

 今は口布も下げているから、パオに良く似た面差しに感心してしまう。

 例え腹違いだとしても二人は兄弟なんだな。


「ツェルカ、おい…聞こえてるのか?」


 心配になってついつい敬語を忘れてしまうけど、そんなのもう知ったこっちゃない。

 横から腕を組んでこようとする白金を避けながら、ツェルカに覆い被さるような四つん這いの体勢で乗り上げ放けている頬を軽く叩いてやる。

 すると綺麗な琥珀色の瞳に理性的な光りが戻り、瞬きと同時に俺を見詰め返してきた。


「お、ようやく戻った? ったく、どうしたんだよいきなりボーッとして」

「………ミュラ、様…?」

「ん? 何、ツェルカ」


 ツェルカの肌は暗躍しているからか白金ほどじゃないけど十分に白い。

 その白い頬がどんどんと赤く染まっていく光景を、俺は訳もわからず首を傾げて見下ろしていた。


「ミ、ミュラ様が…私の名前を…っ! いや、それよりこの体勢は…嗚呼…いけません、ミュラ様…。私のような下劣なものに触れては、貴方が汚れてしまう…っ」

「……は? 何言ってんだ、ツェルカ?」


 赤くなったかと思えば急に自分を卑下しはじめたツェルカに戸惑うけど、その言動とは正反対に俺の背中に回ってくるこの腕は一体何なんだ?


「立場を弁えるがいい、人間! 母上様を離せ!!」


 俺の背中を抱く力に負けてボフンとツェルカの上に倒れ込むと、耐え切れないとばかりに後ろから白金がのしかかってきた。

 いやいやいや、重いから!!

 ってか、二人分の体重でツェルカが潰れるから!!




 ***




 今日の夕食はいつも通り家族水入らずだった。

 ヴォルグ帝王とティオニ国王は俺が気絶している間に帰ってしまったらしい。

 あの後ツェルカと白金は案の定パオの鉄槌を喰らって、ツェルカはグノンアーデ和国に強制送還、白金は部屋に監禁されてしまっている。

 あれだけ騒がしかったのに、いざこうやって人数が半分になると少し寂しいものだ。

 しかも夕食の間中、父さんと兄さん達が気遣わしげな眼差しを向けてくるのが更に居心地が悪かった。

 どうやら俺を危険に曝した上、秘密にしていたことがバレ、俺に髪を切らせてしまったことが気になって仕方ないらしい。

 だけど、ここで俺が何を言ったって無駄だとわかっていたから、これから気にしていないということを態度で表そうと決めたところで夕食が終わった。


「ミュラ様、御髪を携えた使者達が先程遠方の諸国を目指して出立いたしました」

「そっか。これで化け物からみんなを守れるんだよな」


 念のためにと自室に戻ってベッドに横になったところで、傍に控えていたパオが相変わらずの無表情で俺が知り得ない現状を教えてくれる。

 その真っ黒な瞳には父さんや兄さん達のような気遣う色も、怒っているような色も浮かんでいない。

 全くもっていつも通りのパオの態度に、俺は知らず安堵の息を吐き出してしまった。


「ご安心下さい。ミュラ様の望まれた通り、これで格段に魔物の被害が減ることでしょう」


 横になっている俺の布団をさりげなくかけ直しながら、パオが俺を安心させようと言葉を続ける。

 俺の溜息が不安から出たものだと勘違いしてしまったのかも知れないな。


「我が国は以前からグノンアーデ和国には援助を行っていたのですが、この度の件で国王陛下は増額を決意されたようです」

「あっ、それじゃ俺への贈り物も使ってくれよ。気持ちは嬉しいけど俺にはいらない物ばかりだからさ」

「そうおっしゃると思いまして、すでに宝物庫の中で嵩張るものを中心にいくつか輸出の手続きをしています。勿論贈り主とは別の国にですが」


 パオのアグレッシブさには感服するけど、容赦なく売っ払おうとしているのに何処となく満足げな顔をしているのがちょっと怖い。

 あの波状攻撃の如く押し寄せてくる贈り物の嵐に、パオがどれほど苛立っていたのか今になってわかった気がする。

 確かに新しく宝物庫を作らないといけないくらい嵩張ってるから、パオの気持ちもわからない訳じゃないけど。


「あ、ありがとな、パオ。それにしてもパオに兄弟がいたなんてビックリだな。俺、全然知らなかった」

「俺はツェルカやラン家とは最早関係ありませんからね。前当主からの手切れ金こそ受け取りませんでしたが、俺も母もこのアーレ王国を祖国だと思い国王陛下には多大な恩義を感じています。そしてミュラ様、貴方にお仕えすることこそが俺の全てと存じます。俺の全ては、貴方だけのために」


 ………ちょ、

 パオがデレたぁああああ―――っっ!!!!

 何、何なのっ、恥ずかしいんですけど!!

 メチャクチャ恥ずかしいんですけど!!

 羞恥プレイなんですけどぉおおっ!!

 パオが無表情のまま静かに見下ろしてくるのがまた凄まじいほどに恥ずかしい。

 俺はその真っ直ぐな視線に耐え切れず、火を噴くんじゃないかと思うほど熱くなった顔を隠すように布団を引き上げて潜り込んだ。

 かなり子供っぽい行動かもしれないけど、動悸息切れの激しい俺はこうでもしなきゃ変なことを口走ってしまいそうになるんだから仕方ない。


「……ミュラ様、もうお休みになられますか? それでは何かありましたら、ご遠慮なくお呼び付け下さい」


 あぁ、そうだ。

 コイツ変なところで天然だったんだ…!

 いいなっ、羨ましいよ天然って!

 パタンという扉が閉まる音を聞いて、俺は布団の中で激しく身悶えた。

 パオの全部が俺のものって…何かエロ臭くないッ!?

 普段の態度からして俺を大切にしてくれてるのはわかってたけど、あぁして言葉にされると何だかゾワゾワする。

 クソッ、パオのせいで今夜は眠れそうにない。




 ***




 お騒がせな暗殺者や王様達が帰った後には、いつもの日常が戻ってきた。

 髪の毛を切った日から1週間。

 いつものように兄さん達は騒がしくて、いつものようにパオが二人を沈めている。

 いつものように執務の合間を縫って父さんは会いに来てくれるし、いつものように白金は俺にべったりだ。

 何事も変わらない日常。

 まさかそれが崩れる日が来るなんて、リハビリと筋トレに勤しむ俺は全く気付かなかった。


 はじまりは、朝食を終えた直後に飛び込んできた兵士の言葉からだった。

 息も絶え絶えになるほど急いでやって来たらしいその兵士は、非礼を詫びるのも底々に震える声で言い放った。


「ガルーザ帝国が進軍してまいりました!!」


 途端に緊張が走る。

 父さんや兄さん達だけじゃなく、給仕をしていたパオをはじめとする男性もメイド達でさえ顔色を失っていた。

 初めて聞く国の名前だったけど、それがとてつもない災いをもたらすことだけは俺にもわかった。


「何処に向かっているのだ」


 さっきまではだらしのない顔で俺に話し掛けていた父さんが、今は眉間に深い皺を刻んで兵士に目を移している。

 俺の両斜め隣に座っている兄さん達の顔も、未だかつて見たことがないほど鋭さを帯びていた。


「わかり兼ねます。ガルーザ帝国は大陸とは離れた海に浮かぶ国。この大陸に上陸するのは確実ですが、何処まで進軍してくるのかは不明です」


 海に浮かぶ国ということは、ガルーザ帝国とはひとつの島からなる国なのかも知れない。


「ただし、進行方向の先には我が国がございます」

「兵力は」

「軍艦が5隻、兵士の総数は最低でも10万かと」


「「10万!!」」


 兄さん達の顔色が途端に土色を帯びてくる。

 それはそうだろう。

 このアーレ王国は小国だから、国民全員で3万人…兵の数は4千人余りしかいないのだから、その圧倒的な人数に俺でさえ背筋が寒くなりそうだ。


「父上、大陸の中央に位置する我が国まで海から7つの国があります」

「それにガルーザ側にあるこの国の隣国は、幸いなことに軍国でもあるジェザノイド帝国だし、万が一奴等の目的がこの国だとしても大丈夫だろ」


 苦虫を噛み潰したような顔をしている父さんに、安心させるかのように兄さん達が言葉を続けるけどやっぱりその表情は一様に暗いままだ。

 確かジェザノイド帝国も兵力は10万以上あったはずだから、決して数では負けはしない。

 だけどみんなの表情からして、話はそんなに簡単なものではないようだ。


「ミュラ様、大丈夫ですか?」


 無知故の不安に押し潰されそうになっていると、パオが気遣わしげな様子で隣に片膝をついて見上げてきた。


「…うん、大丈夫だけど…俺にはわからない話ばっかだからさ」


 俺が肩を竦めて苦笑すると、それまで真剣に議論していたみんなが一斉に俺の方を振り向く。

 ちょっとビビったのは内緒の話だ。


「あぁ、ミュラ! お前が不安がることなどない。父がお前を全力で守ってあげるからな!!」

「いえ、父上。父上は国王なのですから、一刻も早く対策会議でもしていて下さい! ミュラはこの私が命に代えても守ってみせます!」

「いーや! ロレスは頭だけは良いんだから、会議でその実力を遺憾無く発揮してきなよ。ミュラはお兄ちゃんであるこの俺が守るから!!」


 ……さっきまでのシリアスはどこに行ったんだ、マイファミリーよ。


「ご冗談を交わしている暇などありません。国王陛下とロレス王子は早急に大臣達を集めて会議を、ルクス王子は条約を交わしている各国とガルーザ帝国の進路上にある国々へ連絡を。それがミュラ様を守るために最も重要なことと存じます」

「「「………わかったよ」」」


 一国の国王と王子を従わせるなんて、もしかしたらこの国を動かしているのはパオなのかも知れない。

 そう改めて思いながらヒタヒタと忍び寄る不穏な足音に、俺は言い知れない恐怖を感じていた。




 ガルーザ帝国進軍の知らせから10日。

 とうとう10万の兵が海に面した国に上陸し、村や町を蹂躙しながら真っ直ぐ進んでいるらしい。

 父さんも兄さん達もガルーザ帝国軍への対処に掛かり切りで、ここ二、三日は食事も一緒にとっていない。

 みんながこんなにも大変な時に、何もできない自分に腹が立つ。

 目覚めたばかりだからとか、体力がないからだとか、そんなのはただの言い訳だ。

 だけど、何かさせてくれと頼むことすらみんなの負担になるってわかっているから、俺は一日中自分の部屋で筋トレと勉強に励んでいる。

 ロレス兄さんが見てくれていた勉強は、今はパオが見てくれている。

 本当なら俺の面倒なんか見ずにパオには父さん達の力になってほしかったんだけど、それを言ったらあの無愛想な顔で一喝されてしまった。

 俺を守ることが父さん達にとって1番の助けになるんだって言われて、それからは温和しくパオの世話になっている。

 あのマイペースな白金でさえ空気を読んで温和しくしてるんだから、俺も俺にできる限りのことをしなくちゃ。


「でさ、ガルーザは黒魔術を使うから危険なんだよな? …ってか、そもそも黒魔術って何?」

「黒魔術とは、魔物を生み出している魔族を召喚し、契約を結ぶことによって得られる禁断の力です。黒魔術を使える術師自体は極小数なのですが、その者一人で小国の軍隊と同等の力を有しているから厄介なのです」


 魔族を召喚……悪魔信仰みたいなものなのかな?

 おいおい…俺なんかまだこの城から出たことすらないのに、何だってこんなファンタジー色満載な展開になっちゃってんだよ!?

 すでにトリップと白金と凄い刀だけでバリバリファンタジーだと思ってたのに、その上魔族だとか魔法だとか戦争だとか本当についていけない。

 ノルマの体力アップメニューを熟してお風呂に入って、ようやくのんびりできるティータイムだったのに…

 そんな恐ろしい国が、まだ目的がわかっていないとはいえ進軍してきてるってなったらはっきり言ってかなり怖い。

 もちろん俺がいた世界にも戦争はあったけど、それは現実味のない話だった。

 だけど今回は違う。

 俺が頼んだから毎日パオが教えてくれる状況を聞いている内に、その余りに生々しい惨事がリアルな形となって俺を恐怖させる。


「後一週間ほどで、次の国境を越えると予想されています」


 冷めきってしまった紅茶を入れ替えながら、いつも通りの淡々とした口調でパオが言う。

 海に面した国も持ち得る全ての軍事力を結集させているらしいけど、魔族の加護を受けているガルーザ帝国には歯が立たないそうだ。

 こうやって俺が紅茶を飲んでいる間にも、確実に誰かが殺されている。

 本当ならどうにかしたい。

 何とか話し合いで解決して、ガルーザ帝国軍には自国に引き返してもらいたい。

 だけど俺にはそんな力なんて微塵もなくて、ただこうやって迷惑をかけないように部屋でじっとしているしかない。

 ひょっとしたら俺のせいかも知れないのに。

 魔族を崇拝してるなら、その手下である魔物を寄せ付けない力を持っている破魔神子は邪魔以外の何物でもないだろう。

 もし、目的が俺だった場合、俺がガルーザ帝国に行けば全ては丸く収まるのか?

 そうしたらまた、グノンアーデ和国みたいに大陸中で魔物が蔓延ってしまう。

 俺は居ても災いを呼び、居なくても災いを呼んでしまうんだ。


「ミュラ様、気分転換を致しましょうか」


 不意にパオが、何の脈絡もなく言い出した。

 もしかしてまた考えを読まれてしまったのかな?

 俺がマイナス思考に陥ってるって気付いて、こんなことを提案してくれているのかも知れない。


「そうだな、それがいいかも。温泉とか入ってリフレッシュしたいよ」


 気遣ってくれたパオに合わせて軽口を返す俺だったけど、これがきっかけでまさかあんなことになるとは思っても見なかった。




 ***




「ようこそいらっしゃいました、ミュラ王子。我が国は如何ですか?」


 俺の目の前にはキラキラと輝かんばかりの笑みを浮かべているイケメンがいらっしゃいます。

 柔らかなブラウンの軍服みたいな服に、衿の高いマントを羽織っている姿はまさに国王といった佇まいだ。

 わざわざ城門まで出迎えてくれたイケメン様は、サラサラの紺の髪を風に遊ばせ碧い瞳を優しげに細めて俺を見詰めてくる。


「お出迎えありがとうございます、ティオニ陛下。アーレ王国もいいですが、バマン大国も素晴らしいですね」


 そう、俺は今ジェザノイド帝国の反対隣にあるバマン大国に来ていたりする。

 一週間前、パオに軽く返事してしまったばっかりにその日の内に俺は出立することになった。

 初めて見たアーレ城は白地に薄紫色の屋根が美しく、街も石畳や煉瓦造りの家が可愛らしかった。

 まるで絵本の中から飛び出したような国に感心する暇もなく、俺は馬車に揺られ揺られてバマン大国まで来てしまった。


 道中はパオや白金のおかげで退屈することはなかったけど、初めての外出がこんな遠出になるとは思ってなかったからかなり疲れた。

 だけど一国の王子たるもの、他国の国王を目の前にして疲れを見せるわけにはいかない。

 そんなことをしたらアーレ王国が軽んじられるとか言って、パオに延々説教されてしまう。

 バマン大国はアーレ王国よりもずっと大きくて立派で、王都に入ると美しく整備された道路と白い建物に目を奪われた。

 街路樹や噴水に至るまで、全てを計算し尽くしているかのような芸術的な町並みだった。

 城もアーレ王国のものよりかなり大きくて、城下街の建物と同様白で統一されている。

 どこもかしこも真っ白なこの国は、流石医療に長けているだけあって清潔感の塊のようだ。


「そうですか、気に入って頂けたなら幸いです。さぁ、ミュラ王子。今夜は貴方のために宴を用意しています。それまでの間、温泉に浸かって旅の疲れを癒して下さい」


 にこにこと上機嫌なティオニ陛下に腕を取られると、そのまま歩き出してしまった相手につられて王族らしいお決まりの挨拶をする間もなく城に入ってしまった。

 後ろからついて来ている暴れる白金を小脇に挟んだパオを振り返るけど、小さく肩を竦めただけで助けてくれるつもりはないらしい。

 一応アーレ王国の王族として来ている以上挨拶は必要なんだろうけど、肝心のティオニ陛下が全く気にしていないんだからこの際もういいだろう。

 宴とか正直気が重いけど、温泉に入れるのは嬉しい。


「ミュラ王子は好き嫌い等はありますか?」

「あ、いえ…特にはありません」

「そう、それは良かったです。我が国は薬膳料理も有名ですから、存分に楽しんでいって下さいね」

「はい、よろしくお願いします」


 意外なことに父さんも兄さん達も、俺のバマン大国行きを止めなかった。

 恐らくガルーザ帝国から俺を少しでも離したかったんだと思う。

 こんな厄介な俺を快く歓迎してくれたティオニ陛下には、本当に感謝してもし足りない。

 だけど、俺だけが安全なところに居てもいいのだろうか。

 恐らく今頃はガルーザ帝国も国境を越え、二つ目の国に入っているはずだ。

 アーレ王国まで残り五つ。

 この分で行くとジェザノイド帝国とガルーザ帝国が衝突するまで、どんなに遅くても残り2ヶ月もないだろう。

 それまでに何とか和平を持ち掛けようと、ジェザノイド帝国のヴォルグ陛下が奔走していると聞いた。

 軍事国家の頂点であるヴォルグ陛下が戦争を回避しようと働くのは、きっとそれだけで屈辱のはずだ。

 だけど、アーレ王国や他の国々のためにプライドを捩切って働くヴォルグ陛下に申し訳ない気持ちになる。

 それを助力するべく働く父さん達にも申し訳が立たない。

 無力な俺はこうやって逃げるしかできないんだ。

 誰も責めたりしないのが、余計に辛い。

 俺は目覚めない方が良かったんじゃないか……?




 ***




 side:ティオニ




 ガルーザ帝国の進軍。

 それが意味するのは、世界をかけた戦いが始まるということだ。

 大陸の守護者が長き眠りから目覚め、その破魔の力は眠っていた時の比ではないらしい。

 しかも今の破魔神子は、歴代の破魔神子達が力の低下を恐れて切ることが出来なかった御髪を、いとも簡単に切ってしまうほど豪胆で優しい心を持った人だ。

 これまでの儚く神々しいだけの破魔神子とは全く違う、人間くさくて明るく快活なミュラ王子にガルーザ帝国は恐怖している。

 積極的に魔物を退けられては、ガルーザ帝国が信仰している魔族が面白くないからだ。

 何故自らが作り出した魔物に人間を襲わせるのか、何故ガルーザ帝国にはその強大な力を貸し与えるのかはわかっていない。

 ガルーザ帝国は建国当初から強固な鎖国体制を築いていたので、僕達には知りようもなかったからだ。

 表向きはバカンスと療養を兼ねた訪問となってはいるが、その実はミュラ王子を匿うために行われた今回の入国。

 進軍してくるガルーザ帝国から、ミュラ王子を少しでも離したいアーレ王国の気持ちは理解できる。

 けれど、これでは焼石に水としか言いようがない。

 ミュラ王子を大陸の中心部から離すことは難しい。

 逃げられないのなら、根本を叩き潰すしかないのだ。


「ティオニ陛下、医療呪術師3名と支援部隊が現地に到着致しました」

「状況は?」

「それが、奴らが通った町や村は凌辱され焼き尽くされていたとのことです。恐らく食料などを補給しながら進軍しているのではないかと。それと…王都などには見向きもせず、ただ真っ直ぐにアーレ王国へと進んでいるとの報告が…」


 やはり狙いはミュラ王子か。

 執務室で報告を受ける端から苛立ちと焦燥が込み上げてくる。

 殆ど抵抗らしい抵抗すら出来なかった国を蹂躙し尽くすガルーザ帝国のやり方も、それを止めることが出来ない無力な僕自身も全てが重しとなって心を押し潰していく。

 だけど、僕には僕にしか出来ないことがある。

 ガルーザ帝国を倒すのはヴォルグに任せるとして、僕はバマン大国の総力をもってしてミュラ王子を守ろう。

 定期報告を終えて、僕はミュラ王子がいるであろう客室へと向かった。

 ミュラ王子がこの城を訪れて10日になるが、事態は一向に良くはならない。

 けれど、彼の笑顔を見ると不思議と力が沸いてくる。

 眠っていたミュラ王子を見て恋をした。

 目覚めたミュラ王子を見て恋に落ちた。

 強く光り輝くその姿を目の当たりにしてしまえば、もう二度と目を逸らすことは叶わない。

 客室に近付くにしたがって、賑やかな声が聞こえてきた。

 扉の前に立っている護衛の兵士と目が合えば、困ったような笑みを返されてしまった。

 どうやらこの兵士もまた、ミュラ王子の外見と内面の隔たりに戸惑っているのだろう。

 扉を開けようとする兵士を制して、自分で扉をノックし押し開く。


「こんにちは、ミュラ王子。何をそんなに騒いでおられるの…です、か…」


 扉を開けると、そこは一面水浸しだった。

 何をどうしたらこんなことになるのかと目を白黒させている僕に気付いたのか、ミュラ王子がヘラリと笑いながら申し訳なさそうに軽く頭を下げてくる。


「ごめんなさい! テラスで白金を洗っていたんですけど、途中で白金が嫌がって濡れたまま部屋に飛び込んでしまったんです」


 少し砕けているとはいえ未だに敬語で話し掛けてくるミュラ王子に寂しく思うも、この室内の惨状では快適に過ごすことは不可能だろうと思い至る。


「ご安心下さい。この程度なら…」


 精神を集中させて精霊に呼び掛ける。

 ゆっくりと動きはじめた風が室内の水分を吸い上げ、ついでに逃げ回っていたらしい白金も乾かしていく。


「…これくらいで如何です?」

「すっ、スゲェッ! ちょっ、パオ! 今の見た!? これって魔法だよなっ、ティオニ陛下が使えるなんて聞いてねぇし!!」

「ティオニ陛下は、精霊を媒介とする呪術に於いては大陸一だそうです」


 簡単な呪術でこんなにも喜んでくれるミュラ王子を見詰め、僕まで嬉しくなってくるから不思議だ。

 驚きに敬語もなくなっていることに、彼は気付いていないんだろう。

 なんて愛らしい人なんだ。


「そろそろお茶にしませんか?」


 君は僕が、この命に代えても守り抜くよ。




 ***




 side:ヴォルグ




「ざけんじゃねぇぞっ」


 机に拳を叩き付けて、俺は深く椅子に腰掛けた。

 長きに渡り沈黙を守り続けてきたガルーザ帝国がついに動き出したのは1ヶ月前。

 ミュラ王子がバマン大国に入国したのが今から2週間前。

 その間に事態は良くなるどころか悪化の一途を辿っていた。

 奴等の狙いはわかりきっているが、ミュラ王子を奴等から遠ざけることは大陸の端にいる者達を危険に曝すことになる。

 俺個人はミュラ王子を危険に曝さなければ守れない平和など、何の意味もないと思っている。

 ミュラ王子さえ無事なら、俺は喜んで自ら魔物討伐を指揮しても構わない。

 だが、心の優しいミュラ王子はそれを良しとしないだろう。

 ならば、今の俺に出来るのはジェザノイド帝国の誇りをかけて、ガルーザ帝国を打ち破ることだけだ。


 たった今届けられた報告書には、ガルーザが4つ目の国に入ったと書かれていた。

 進軍のスピードが上がっている。

 最短距離でアーレ王国に向かいながらも、凌辱してきた町や村で馬や荷車を現地調達しているのだ。

 この分だと後1ヶ月もしない内にガルーザが我が国に入るだろう。

 しかし問題はその速度ではない。

 各国が全兵力をもってしてガルーザ帝国を撃退にかかっているため、俺の計算ではジェザノイド帝国に辿り着く頃には最低でも半分以上戦力が落ちているだろうと踏んでいた。

 最低でも半分?

 とんでもない。

 今まで1ヶ月をかけて3つの国を進んできたガルーザ帝国は、報告書を読む限り戦闘での死亡者は一人もいない。

 奴等は一人の犠牲も出さずに、三国の兵を全て打ち破ったのだ。

 単純な兵力ではガルーザとジェザノイドは拮抗している。

 ただし戦闘になった際には、地の利がある俺達の方が圧倒的に有利になる。

 だが、事は単純な兵力の問題ではない。

 グノンアーデ和国に協力を仰ぎ、暗殺一族であり隠密諜報に長けたラン家を借り受けて探らせたが、その報告はとても信じたくはないものだった。


『ガルーザ帝国はその皇帝自ら出陣しており、傍らにはひとりの黒魔術師のみを置いているようで、後の兵は兵と呼ぶのも憚られる雑魚ばかりでございました』


 兵が雑魚ばかりだと言うことは、そのたったひとりの黒魔術師が三国の軍を退かせたということだ。

 しかも、その三国は決して小国などではない。

 我がジェザノイドには及ばずとも、魔物程度なら自軍で打ち払えるほどの軍事力を有している強国だ。

 それをひとりでなど、長い歴史の中これほどまでに強大な力を持った人間など存在しただろうか?

 恐ろしいほど力の強い魔族を召喚したとしても、人の身に余る力を振るうことは不可能だ。

 そしてもうひとつ。


『通過した村や町の者達は一様に外傷もなく死んでいました。更に、ガルーザ帝国の兵は戦闘では死亡しておりませんが、その人数は10万から7万程度へと減ってございます。その死体にも外傷はなく、ガルーザが進軍した中でも人気のないところばかりに打ち捨てられておりました』


 外傷のない死体。

 町や村がないところで捨てられているガルーザ兵の死体。

 強大過ぎる力を持つ黒魔術師。

 これらが指し示すものはたったひとつしかない。


「ガルーザの王には人としての心がねぇのか!!」


 ガルーザ帝国は魔族を召喚し、そのまま召し抱えているのだ。

 その代償は人間の命。

 攻め入った国の者達を食わせ、人がいない場所では自軍の兵を食わせている。

 あの10万もの人間は、兵力ではなくただの食料に過ぎなかったのだ。

 とても人のすることではない。

 俺は恐らくこの大陸で最も足の速いであろうラン家当主・ツェルカに一通の手紙を託した。

 軍国であるジェザノイド帝国だけでは、最早アーレ王国の壁になることすら出来はしないだろう。

 王としてのプライドは激しく傷付くが、ミュラ王子の安全のためならばいくらでも頭を下げてみせる。

 そこまでしたとしても協力してくれる可能性は極めて低いが、賭けてみて損はない。

 兵力には兵力を。

 呪術には呪術を。

 魔族には、魔族を。




 ***




 何処までも続いているんじゃないかと思うほど綺麗に整備された白煉瓦の道。

 道行く人々も白っぽい服を着ている中、俺も例に漏れず白い服を着ていた。

 まだ早朝だというのに、この城下街では朝市が賑わいを見せている。

 建物や服、道までも真っ白だけど市場に並ぶのはどれも色とりどりで、まるで白いキャンバスにペンキをぶちまけたような極彩色だ。

 バマン大国は気候も良いし、何より治安がすこぶる良い。

 ティオニ陛下が言ってたんだけど、人は仕事がないから犯罪を犯すんだそうだ。

 万人に仕事を与えるには先ず教育が大事だということで、この国は日本みたいに義務教育があるらしい。

 しかも無料!!

 その中でも医学や医療呪術師を目指す人なら、資格を取って就職するまで支援してくれるんだとか。

 だから若者達もこぞって医者を目指すし、多少貧しくてもチャンスがたくさんあるから犯罪に手を染めにくい。

 もちろん医療もタダだから、ご老人にも安心だ。


 そんなバマン大国にやって来て、早いものでもう20日が経つ。

 その間に温泉やらプロフェッショナルなリハビリやら筋トレやらで、俺はすっかり普通の生活を送れるまでになっていた。

 何よりも、ティオニ陛下のマッサージが効いたと思う。

 日中どれだけパオや白金を相手に乱闘しても、お風呂上がりに全身をマッサージしてもらえば不思議なことに全く筋肉痛にはならない。

 あれこそまさにゴッド・ハンドだろう。


「お嬢ちゃん、こっち見て行きな!」

「朝市名物のヤグーだよ、食べてきなよ!」

「お嬢ちゃん可愛いから、負けとくよ~!」


 露店の兄ちゃんやおいちゃん達からかけられる威勢の良い声は好きなんだけど、何故に俺を女と勘違いしてるんだ?

 服だってみんなが着ている薄いグレーのスラックスに白いカッターシャツだし、もちろん尻も胸もペッタンコだ。

 城を出る時にティオニ陛下には泣かれそうになったけど、今の俺の髪の毛は普通に真っ黒だし。

 パオが切り揃えてくれた髪型は襟足が短くて横髪が少し長い、俺が佐久間咲だった頃のものに似ていてビビりはしたけど女には到底見えない。

 流石に銀髪で出歩くことを許してくれるわけもないパオに、髪の色を変えるならと言われたから黒くしただけなんだけど、まさかあんなにティオニ陛下が驚くとは思わなかったな。

 いつもは穏やかな人だからこそ、この世の終わりのように悲愴に暮れていたティオニ陛下はちょっと面白かった。

 斯くして俺は、悠々自適なひとりでの散策に出掛けることになったわけだ。

 離れたところにパオがいることは気付いてるけど、そんなの気にならないくらい俺は今を満喫している。

 しかし、困った。


「迷子か………ベタだな」


 硬貨を落としてしまって、それを追い掛けてしまったのがまずかった。

 この分だとパオとも逸れてしまったんだろう。

 いくら治安が良いからとはいえ、こんな大通りから離れたような空間にいては怪しまれること山の如しだ。

 さて、俺はどの道を通ってきたんだ?

 四方八方を背の高い建物に囲まれているから方向もわからないし、全部似たような建物に見えてしまうから下手に動くと一生戻れないかも知れない。


「あー……こりゃ、パオに叱られるな」

「パオってだぁれ?」

「パオは俺の世話役兼護衛兼秘書兼トレーナーのスーパーマルチ……あ?」


 不意にかけられた言葉についついナチュラルに答えていたけど、ようやく俺は違和感に気付いた。

 今日の気象占いでは一日中晴れだったはずなのに、今は薄暗い。

 そんでもって、身体が動かない。

 そんな俺の動揺に気付いたのが、背後に立っている奴がおかしそうに笑っている。

 まるでこの場所だけ切り取ったかのような違和感に、俺の背中に冷たい汗が流れ落ちる。

 薄暗いだけじゃない。

 さっきまで遠くの方で聞こえていた喧騒が、今はまるで夢だったかのように消えている。

 俺と俺の後ろで笑っている男の二人だけしか存在しない空間。

 逃げ出したくても動かない身体。


 これはアレだ。

 紛れも無く魔法的な感じのやつだ。

 この状況でこんなことしてくる人間が良い人だとは思えない。

 良い人じゃないとすると、十中八九悪い人というわけで。

 更に言うと今、黒魔術を使って悪さをしている人達を俺は知っている。

 ガルーザ帝国。

 最近5つ目の国に入ったらしい軍隊は、ひたすら真っ直ぐにアーレ国を目指しているらしい。

 もしこのケラケラ笑っている男がガルーザ帝国の奴だったら…しかも噂の黒魔術師だったら、俺終わったな。


「フハハッ、かーわいー。幻想的な美貌からは全く想像できないくらい、人間くさくて感情豊かなんだねぇ君は」


 静かな空間で奴が歩く靴音と声だけが響く。

 コツン、コツンと俺の背後から右側を通り、やたらと勿体振った足取りで目の前までやって来た男を見た瞬間、俺の意識はぶっ飛びそうになった。


「………有り得ないだろ、その格好…」


 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた男は狐を彷彿とさせるような糸目で、色白に吊り上がった眉、薄い唇がいかにも軽薄そうな雰囲気を醸し出していた。

 いや、問題はそこじゃない。

 少し踵の高いロングブーツにスラックス、シャツにベストに太腿の中程くらいまであるジャケット、棒ネクタイから砂塵避けのマントや細い眼鏡のフレームに至るまで、身につけているもの全てが金金金の真っキラ金だ。

 有り得ない…こんなに金ピカな人間、数いる成金野郎の中でも早々お目にかかれないに違いない。

 唯一違うのは、真っ黒なその髪だけ。

 それもメチャクチャ変な髪型で、右側は耳朶が見えるくらいの長さなのに左側は臍くらいの長さなのだ。

 きっと後ろから見たら綺麗な右肩上がりの線を描いていることだろう。


「なぁに? この僕の姿に驚いちゃったの? 確かにこんなに輝いている人間はこの世にはいないだろうけど、そんなに見詰められたら照れちゃうよぉ」


 これが見ないでいられるか。

 もしかしたら自分を誘拐しようとしているのかも知れない、最悪殺そうとさえしているのかも知れない男なんだけど、こんなヘンテコな人間見たことがなくてついついガン見してしまう。

 よく見たら決して不細工な訳じゃなくて、それどころかカッコイイ部類のはずなのに何て趣味の悪い人だ。


「よぉし、そんなに気に入ったのなら君にはこれを進呈しよう」

「え、いらな…」

「あぁっ、良く似合うね! 僕の見立ての通りだよ」


 俺の肩にさっきまで男が身につけていたマントが掛けられてしまった。

 抵抗したくても金縛り状態の俺に出来るはずもない。

 コイツの目、絶対に腐ってる。


「初めにあの小僧に頼まれた時には願い下げだと思ったけど、僕の高尚な趣味を理解するだなんて君は中々見込みがあるね!」


 俺の両肩を掴んで嬉しそうに笑っているのはいいけど、早く金縛りを解いてくれないものだろうか。


「あの、ところで貴方は…?」

「嗚呼っ、僕としたことが自己紹介も忘れるなんて! 僕の名前はギュゾー、魔物がうじゃうじゃいる北の森から来たんだぁ。この大陸に於いて最強の黒魔術師であり、歴史上最も長生きな人間だよぉ」


 マジモンの黒魔術師キタ―――!!


「そんでもって、君を守るために来たんだぁ。よろしくね!」


 ………

 は?

 いや、この状況でその台詞…信憑性ないよね?

 だって俺、見えない力で拘束されてるんですけど。

 絶対に悪人だよね!?


「ミュラ様!」


 あまりにも信用できない言葉を耳にしたおかげで遠くなりはじめた意識を、耳障りの良い声が引き戻す。

 またもや後ろからの登場にその姿こそ見えないものの、耳に馴染むこの低い声を俺が聞き間違えるはずがない。


「パ…!」

「ミュ―――ッ!!」

「うごぉッッ!!!!」


 恐らく捜し続けていてくれたのだろうパオの名前を呼ぼうとしたら、弾丸が俺の脇腹を直撃した。

 そのあまりの衝撃に魔法的な力による金縛り的なものは解けたみたいだけど、著しく俺のHPが減ったのは言うまでもない。

 石畳の道に身体を投げ出され、強かに打ち付けた背中と腕の痛いこと痛いこと。

 高校生にもなってちょっぴり泣きそうになってしまったじゃないか!

 文句のひとつでも言ってやろうと口を開くけど、脇腹にへばり付きキュイキュイ鳴いている弾丸こと白金を見てしまえば怒りも急速に萎んでいく。

 何でここに白金がいるのかはわからないけど、コイツも俺のことを心配してくれたんだな。

 光沢のある白い身体をやんわりと撫でてやると、顔を上げた白金の金色の瞳からほろりと涙が零れ落ちた。

 泣かせるつもりなんてなかったのに…


「白が…」

「あれぇ、僕が捕獲した竜じゃない。ティオニ君ってば本当に君に贈ったんだねぇ」


 俺は言葉を遮られる星の下に生まれてきてしまったのだろうか。

 ぐぐっと身体を折り曲げて覗き込んできた真っキラ金に気付いた瞬間、腹にへばり付いていた白金がブルブル震えはじめた。

 あまりの恐怖からか涙すら止まってしまった白金を見下ろし、続けて真っキラ金を見上げる。

 白金を捕まえたのは、この変質者だったのか。

 あの気丈な白金をここまで怯えさせるなんて、コイツは一体どんな捕獲の仕方をしたんだ。


「あの、白金が怯えているんで離れ…」

「あれあれあれぇっ? コレ、もしかして竜王種じゃない? あっちゃー…こぉんな希少種だったんなら、売るんじゃなかったなぁ。鱗剥いで成分解析したいし、血液も採取したい。爪も牙も最上級魔術に必要不可欠な物だし、この金の眼球は素晴らしい魔玉になるよぉ。ねぇ、ミュラ君。今からでもコレ返してくれないかな? 悪いようにはしないからさぁ」

「そんな話し聞かされてっ、返す訳無いだろ変態野郎ぉおおお―――っっ!!!!」


 悪いことする気満々にしか見えない黒魔術師から隠すように白金を胸に抱いて、俺はここら一帯に響き渡るほどの怒声を上げた。

 それを呆れたように見ているパオにイラッとしたけど、更にそれをニコニコと面白そうに見ている変質者には殊更腸が煮え繰り返るかと思った。

 反射的に頭突きかましてしまったから、実際に腸煮え繰り返ってたんだな。




 何処もかしこも白い街。

 白い王宮の洗練された応接間に、恐ろしいほど浮いた存在が我が物顔で踏ん反り返っている。

 身に付けている物全てが真っ金金の糸目男・ギュゾーの態度には相変わらず苛つかされるけど、その顎が赤くなっているは中々に滑稽だ。

 俺に頭突きを喰らったっていうのにこの自称大陸一の黒魔術師は怒るどころか更に楽しそうに笑い出し、終いにはパオに連れられて王宮へと向かう道中ずっと上機嫌で鼻歌まで歌っていた。

 服装のセンス以上に訳のわからない男だ。


「ところで、ジェザノイド帝国の皇帝からの嘆願でミュラ王子の警護に就くというのは、本当なのですか?」


 ティーカップを優雅に傾けているティオニ陛下だけど、そのやんわりとした笑顔の裏にはどこかピリピリとした雰囲気を滲ませている。


「だからそうだって言ってるじゃない。あの小僧がどうしてもって言うから、心優しい僕がわざわざ出向いてあげたんじゃないの」

「北の森に引き篭り魔術にしか興味のない貴方が、我々の頼みを温和しく聞き届けて下さるなんてどういった風の吹き回しですか?」


 長椅子の隅っこに座っている俺とその隣を陣取っている変質者、テーブルを挟んで向かいに腰を下ろしているティオニ陛下の3人の間に何故か不穏な空気が流れる。

 唯一パオだけは我関せずな態度を決め込んで、扉の近くに突っ立っていた。

 お前はいいな、自由で。


 ちらりと横目でギュゾーさんを見ると、薄い唇が楽しそうな笑みの形に変わる。

 糸目だから気付かなかったけど、もしかしてギュゾーさんも俺のこと見てたのかな?

 とにかくその笑顔は子供がプレゼントのラッピングを破る時のような、とても楽しそうで無邪気な…純粋過ぎてちょっと怖いようなそんな笑顔だった。

 だから白金もこの人のことを怖がってるのだろう。

 いつも俺にベッタリな白金が部屋に引き篭ってしまうほどだから、きっとギュゾーさんはただ者じゃない。


「そりゃ僕だって、ヴォルグ君からの嘆願書を読んだ時には燃やしてやりたくなったよ? はっきり言って破魔神子の研究は4代前ので終了してるから、僕にとってはもう何の価値も興味もないんだよね。そんな者のために僕がわざわざ北の森を出る訳がない」


 ギュゾーさんが白い指で角砂糖を摘み、次々と美しい紅色のお茶へと落としていく。

 1つ、2つ、3つ、4つ…………13!?

 いやいやいやっ、溶けきれてないから!!

 辛うじて浸透圧で角砂糖の形は崩れてはいるけど、最早砂糖の中にお茶を注いだみたいになってるから!!

 むしろそれは飲めるの!?

 医療が発達しているだけあって、この国のお茶は美味しくて身体にも良い。

 ティオニ陛下もお茶には並々ならぬこだわりがあるらしくって、そんな作品とも呼ぶべきお茶が見る見る内に砂糖漬けにされていく光景を苦々しげに見詰めている。

 あの柔らかな笑顔は自顔なのではと勘繰っていたほどだけど、そんなティオニ陛下に苦い顔をさせられるなんて流石はギュゾーさん。


「………では、何故貴方はここにいらっしゃるのですか?」


 砂糖に凌辱されていくお茶から無理矢理目を逸らして、ティオニ陛下が殊更にっこりと微笑んだ。

 これは、戦闘モードの笑顔なのかも知れない。


「破魔神子には興味ないけど、ミュラ君には大いに興味があるんだよねぇ」


 溢れ返りそうなティーカップの中身を、ギュゾーさんがティースプーンで器用に混ぜていく。

 ざりざりと聞こえてくる音ですら、すでに液体のそれとは遠く掛け離れてしまっている。

 そしてそれをスプーンで掬って、あろうことかそのまま口へと運んだのだった。

 なるほど、それはそうやって食するのか……

 って、糖尿になるわっ!!


「ミュラ君は実に興味深い。破魔神子のシンボルである髪をあっさり切ったらしいし、暗殺者でさえ手なずけたらしいし、大国の王達を虜にしたにも関わらず、金や貴金属はもちろん魔具や権力にもまるで興味がない。そして何より、この僕の高尚な趣味を理解できる審美眼を持っている!」


 ギュゾーさんの言葉、特に最後の一文を聞いてティオニ陛下やパオまでも驚いたように俺に視線を移した。

 その瞳が『信じられない』『憐れな』『予想外』と言っているのが手に取るようにわかって、俺は慌てて首を振った。

 こんな金ピカが好きだなんて思われたら、一生白い目で見られ続けるに決まってる!

 俺のあまりに必死な顔に誤解だと気付いたのか、パオは小さな溜息を吐きティオニ陛下は苦笑を浮かべ首を軽く竦めた。

 そして諸悪の根源はといえば、2杯目の砂糖漬けお茶を美味そうに頬張っている。

 コイツ…いつか眼鏡をサラダ油に漬けてやる!!


「それにさぁ、僕んトコの子もミュラ君のことが気になるみたいだから。あの子が他人を気にかけるなんて珍しくってねぇ、フフフ。だから今回、僕は君達の味方だよ」

「貴方の……ということは、彼がミュラ王子に興味を? 人間をゴミ屑同然と蔑んでいる彼が?」


 二人の言うあの子や彼ってのがどんな人かはわからないけど、物凄く嫌な予感しかしない。

 しかも変態ギュゾーさんと一緒に住んでいるっぽいし、類は友を呼ぶ方式からするとその人もかなり濃いキャラなのだろうことは予想に難くない。

 せめて、せめてその人のセンスが壊滅的でないことを祈るばかりだ。




 ***




「うぉぇえええ―――ッッ!!!!」


 冒頭から不快な声、大変失礼致しました。

 佐久間咲ことミュラは、ただ今絶賛ゲロゲロ中です。

 最早黒歴史として忘れ去ってしまいたい、変態黒魔術師ギュゾーさんとの出会いから早数日。

 遂にジェザノイド帝国に到達してしまったガルーザ帝国から身を守るために、ギュゾーさんが住む北の森にたった今到着したところです。

 破魔の役目を果たすために大陸の中央から離れる訳にはいかないと思い込んでいたけど、どうやら各地に送った髪の毛も無事到着したらしいしアーレ王国にも大量の髪があるから俺が離れても大丈夫なんだそうだ。

 そして何故、俺がこんな情けないことになっているのかというと…


「ミュラ君ってば、顔に似合わず豪快な吐きっぷりだね。だから言ったでしょ? 移動中は目を閉じておきなさいって」


 そう、俺はギュゾーさんの忠告を忘れて、黒魔術での移動中についつい目を開いてしまったのだ。

 それはもう、物凄かった。

 あれは絶対この世のものではなくて、違う次元というかトンネルというか穴というか…グロテスクな訳じゃないんだけど何だか無性に気持ち悪くなる景色だった。

 結果俺はギュゾーさんの家の傍らで、木に取り縋る惨めな状況に陥っているという訳だ。

 ニマニマと愉快そうに眺めているギュゾーさんに文句を言うこともできず、俺は胃が空っぽになるまで吐きまくった。


「アッハ。でも、目をうるうるさせて顔なんか真っ赤で息遣いも荒くて、そーんな君の姿をあの王様達が見たらムラムラものだよね~?」


 クソ…この金ピカ眼鏡野郎、嘔吐物ぶっかけてやろうかコノヤロー。


「そのプレイ斬新だね! 何なら僕の口で受け止めて…」


 ズガァアーンッ!!!!


 何故か俺の心を読んで変態発言をかまそうとしていたギュゾーさんが、物凄い音と共に森の中へとぶっ飛んでいった。

 あ、コレ死んだな。

 バキバキと木を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいくギュゾーさんを見送って、これで生きていたら最早人間じゃないと俺の顔から血が引いていく。

 目の前で起こったバトル漫画みたいな光景に、俺の吐き気はすっかり何処かにいってしまった。


「もー、気持ち悪ぃコト言ってんじゃないよ。危うくコッチがテメェにゲロぶっかけそうになったでしょーよ」


 なんか新しい人きた。

 全身金ピカ男の次は、全身真っ赤男の登場だ。

 いや、赤っていうかもっと黒くて深い、血を被ったような色。

 襟足は短いのに横髪は太腿に付くくらい長い変なヘアスタイルで、鋭い目も髪も深紅。

 スラリと高い身長にピッタリとした薄っぺらい深紅の甲冑が良く似合う。

 唯一深紅じゃないのは小麦色の肌だけだ。

 もちろんメチャクチャイケメンなんだけど、冷たい口調と軽薄そうな薄い唇が近付きにくい雰囲気を醸し出している。


「……あ? お前だぁれ?」


 恐らくギュゾーさんを何らかの方法で吹き飛ばした張本人であろう赤い人が、その深紅の瞳を俺に向けてきた。

 いや、メッチャ怖いから!

 何っ、もしかして俺もあんな風に吹っ飛ばされんの!?


「え、えー…っと、アーレ王国第三王子の、ミュラ…です?」


 俺の頬が引き攣っていたのは仕方がないと思う。

 ……あれ?

 だけどこの人の雰囲気、あの夢に出てくる悪魔に似ているような…


「ミュラ! お前が噂の破魔神子なんだっ、うわっ…ヤバイ! どうしよう!!」


 何故か知らんけどいきなりテンションが上がりまくっている赤い人は、足速に俺の元まで駆け寄ってきた。

 今まで横顔だったから気付かなかったけど、この人…右の頭に角みたいなのが生えてる。

 羊みたいにグルッととぐろを巻いた深紅の角。

 こりゃマジで悪魔かもしれない…


「うんうん、確かに神子って感じの髪と瞳だね! あ、だけど歴代の神子よりもなんかちょびっと目の色が薄くない? あれ、気のせい?」


 ちょっ、今激しく近付いてほしくないんですけど!

 別に悪魔的な見た目にビビったとかそんなんじゃなくて、あんまり近寄られると、ほら…俺ってばさっきまでゲーゲーしちゃってたわけだし匂いとか気になるじゃん!

 こう見えても思春期真っ只中なんだし!!

 まぁ、流石に北の森だけあって周り一面雪塗れだからあんまり匂い立つってほどじゃないんだけど、だからってどっしり構えていられるほど俺ってば図太くない。

 てか、もう手を伸ばしたら届くくらいまで迫ってきちゃってるんですけどっ!

 今口を開いたら口臭が!!

 俺は乙女どころか大雑把でがさつな普通の男子だけど、流石に気になるだろっ、気になるよね!?

 最低限のエチケットだよね!?


「どったのー? えー…っと、ミュラちゃん…だっけ? 手で口を押さえたりしちゃって……あ、もしかしてまだ気分悪かったり? あの変態も人間の中じゃ別格だけど、魔族からすれば低級レベルだもん。転移魔法も一瞬にしちゃ長い時間がかかるし、その間に酔っちゃうのも当然だよー。こんなことだったら俺もついていけば良かったなぁ。ミュラちゃんの体抱っこして、瞬きの間に魔界まで連れてっちゃうんだけどなー」


 何か魔族とか魔界とか不穏な言葉が聞こえたけど、それよりも何よりも近い近い近い!!

 もう鼻同士が接触しそうなんですけど!!

 スゲェ赤い目が真っ直ぐに俺の目ん玉を覗き込んでくる。

 魔族が作り出した魔物の天敵であるはずの俺を目の前にしているのに、その瞳からは負の感情なんて一切感じられない。

 この人、本当に魔族なのか?

 いや、まぁ確かに、頭から角を生やした人間はそうそういないとは思うけど。

 うぁ―――っ、駄目だ!

 頭がこんがらがってきた!

 とにかくここはこの人から出来る限り距離を置いて…


 ちゅっ


 …………………へ?


 俺があまりの寒さと気持ち悪さで幻覚を見た…なんてことがないのなら、今この魔族(仮)の野郎は俺の口を塞いでる手にキッ、キキキ、キ、スッ…しやがりませんでしたか!?

 一瞬だったけど男の唇も意外に柔らかいんだな……って何言わせんだよ!!


「ふはっ、カーワイー! 指に口付けただけで慌てまくっちゃって。もしかしてミュラちゃんってば、童貞処女以前にキスもまだ…とか?」

「キッ、キスじゃねぇ!! 今のは断固キスなんていう甘酸っぱいものじゃなくって、ただ距離感を見誤ってぶつかっただけの事故!! そうっ、事故なんだよ!!」

「んー、そう思い込まなきゃ自我を保てないなら事故でもいいよ? けど今一番重要なのは、キスくらいではしゃいじゃっててイイのってことだよねぇ」


 あ…何かコイツ、いきなり雰囲気が変わった。

 たった今までヘラヘラニヤニヤしてたクセに、燃えるみたいに赤い瞳が凍てついたように冷え冷えとした色を湛えている。


「なぁ、今何が起こってんのかわかってる? ミュラちゃんを巡る争いで毎時毎分毎秒、数え切れないくらいたくさんの人間が死んでる。君がいることで救われた人間より、君がいるせいで犠牲になった人間の方が遥かに多いんだって、ミュラちゃんは気付いてんのかにゃ?」


 未だに触れ合ってしまいそうなほど間近に迫っている美しい顔を、俺はただただ見上げることしかできない。

 コイツの言ってることはわかっているつもりだ。

 俺の意思も性格も行動も心も全然関係なく、ただ存在しているってだけでこの戦争は行われている。

 なのに原因である俺は戦いから一番遠い場所で、優しい人達に囲まれながら悠々自適に暮らしている。

 そりゃ、コイツが侮蔑を含んだ目で見下ろしてくる気持ちもわかるってもんだ。


 深紅の瞳が真っ直ぐに俺を見詰めてくる。

 虹彩が猫のような瞳は明らかに人外のそれで、まるで心の奥底まで覗き込まれてるみたいだ。


「俺はさぁ、ミュラちゃんのことあんまり知らないんだけど、与えられる愛情に胡座をかいてる子はキライだよ?」


 ついに嫌いとまで言われてしまった。

 この世界で目覚めてから初めて『俺自身』に負の感情を向けられた。

 ツェルカさんの時とは違う、破魔神子としてでもアーレ国王子としてでもない俺という存在に向けられた純粋な嫌悪。

 この赤い魔族が言う通り、いつのまにか俺はみんなからの好意に甘えていたのかもしれない。

 否定するのは簡単だ。

 けど、平和な日本で暮らしていた俺は、やっぱり心の何処かで戦争を実感できていなかったんだと思う。

 人伝に聞かされる死傷者の人数が多くなれば多くなるほど、俺のリアルから離れていくような気がしていた。

 そしてそんな事実をみんなが隠そうとするから、その優しさに甘えて俺は現実から目を逸らそうとしていたんだ。

 全くもって、この魔族の言うことは正しい。

 だけど…


「アンタの言うことはもっともだ。でもさ、誰かの優しさに甘えようが甘えまいが、俺にできることは生きることだけだ」


 俺はこの世界で目覚め、ミュラとしての時間を歩き始めてまだ日が浅い。

 ついこの前まで自力で立つことさえままならなかったんだ。

 例え俺の中に世界をひっくり返せるような力が眠っていたとしても、今の俺じゃ使い物にならないどころか状況を悪化させかねない。

 なら俺ができることは、生きることしかないじゃないか。

 生き延びることで救われる誰かがいるなら、俺はその人のために生きなきゃならない。


「だから安易に、俺さえいなければ…とか考えられねぇ。俺は今なお消えていく命のためにも、何が何でも生き延びる」

「詭弁じゃん? ただミュラちゃんは自分が可愛いだけなんでしょーよ。それを周りのせいにして、悲劇の主人公を演じてるだけ…」

「はぁーい、ストーップ!」


 眼前に迫っていた赤い瞳が、一瞬にして消えた。

 正確にはいつの間にか復活したらしいギュゾーさんが、魔族の目を手で覆って目隠ししただけなんだけど。


「ゼネイールってば、いくらミュラ君が可愛くて魂までピカピカのピュアっ子だからって、会って早々に惑わしたらダメでしょ? これだから魔族は~って言われるんだよぉ?」

「魔族が惑わして何が悪いんよ? 大体この子、俺の言葉にあんまし動揺してなかったし? あのままギュゾーが邪魔しなくても俺の術中には嵌まらなかったと思うんだけど。ってか、いい加減にこの気持ちの悪い手を離してくんにゃい?」


 なるほど、俺は惑わされてたのか。

 悪魔が人間を惑わせて悪の道に進ませるみたいな感じのアレみたいな?

 それじゃ何だ、俺はこの全身真っ赤キテレツ魔族に試されていたってことか?

 ふっ、ざけんなよ!?

 人が慣れないシリアスの果てに結構なキメ顔で『生きる!』みたいなこと言ったってのに、ちょっとこっ恥ずかしいじゃねぇかっ!!

 自分の目から手を離させた魔族…ゼネイール…?さん?…からはもう負の感情は感じられない。

 というか木々をへし折りながら吹き飛ばされたはずのギュゾーさんが無傷、ってか服さえも汚れてないってどういうことよ!?


「ふはっ、ミュラちゃんってば間抜け面じゃん! ねぇねぇ、具合はどう? もう良くなったんじゃない?」

「はぁ? 具合って…あれ、吐き気が治まってる…?」

「んふふー。魔族は癒しの術は使えないからね、ショック療法ってヤツだにゃ」


 おいっ!!

 語尾を猫っぽくして可愛子振ったって俺は誤魔化されないぞ!?


「まぁまぁ、とにかく中に入ろうよ~。ミュラ君をいつまでも雪の中に立たせておく訳にはいかないし、鬼の居ぬ間に積もる話しもあるからねぇ」


 片目を瞑ってウインクを向けてくるギュゾーさんのキメ顔に若干イラッとはしたものの、確かに今の俺にはこの寒さはかなり堪える。

 ツッコミたい気持ちを抑えて仕方なく促されるままに、ド派手なギュゾーさんからは想像できないほどこぢんまりとした一軒家へと足を踏み入れた。


 ………

 あれ?

 つい今し方こぢんまりした一軒家って、俺言ったばっかだよな?

 森の中に佇む落ち着いた家は、丸太と煉瓦で造られているカントリーな感じだった。

 雪が積もっている屋根には今にもサンタさんが今晩はしそうな煙突があって、そこからうっすらと煙が出ているのも見えた。

 何かグリム童話に出てきそうな家だって思ったのに…


「ギュ、ギュゾーさん、もしかして移動の魔術…使いました?」

「え? 僕は何もしてないけど?」


 だって、コレ。

 アンタ、コレ。

 何、コレ。

 ちょ、コレ。

 キンキラキンなんですけどぉおお―――っっ!!!!!!!!

 天井から壁から床から柱から窓枠から、テーブルやチェストの家具類も、飾り棚の中の食器や置物、カーテンやクッションといった布製品に至るまで全部が全部真っ金々。

 最早誰の趣味かだなんて聞かなくてもわかるけど、それ以上に驚きなのはどう見てもあの外観からは想像できないくらい広いってことだ。

 あの見た目からすると2DKがやっとこさって感じなのに、この玄関から見えるリビングダイニングだけで軽く20畳はありそうだ。

 しかも壁にはまだドアがいくつかあるから、少なくともここの他に部屋が4~5室くらいあると予測される。

 魔法ってさ、便利だよな。

 非現実的なことに直面しても、どうせ魔法や魔術の類いなんでしょ…って折り合いがつけれるし。

 そもそも、俺自身の身に起こったこと事態が非現実的な訳だし、もうこのくらいじゃ驚かない。

 いや、驚くもんか。

 いや、ホントは結構驚いたけど…


「バッカじゃん。ミュラちゃんはギュゾーの悪趣味にビックリしちゃんてんだよー」


 俺の後ろから入ってきて扉を閉めているゼネイールさんが、ケラケラと笑いながら心底馬鹿にしたようにギュゾーさんを振り返る。

 ギュゾーさんはもちろんだけど、頭に角生やした全身真っ赤っ赤なゼネイールさんも大概悪趣味だと思います。

 …だなんて、さっきのこともあるから言わないけど。


「バカは君だろ、ゼネイール。黄金は高貴で気高く神々しい、この世で最も僕に相応しい色なんだよ~? 逆を言えば、黄金とは僕がいるからこそその存在を許されていると言ってもいいだろうね!」

「ゴメンね、ミュラちゃん。この人、魔族の俺が言うのも何なんだけどある意味人外なんだー。主に頭の辺りが」

「人間じゃない君に、僕の崇高な思想が理解できないのは仕方のないことさ~。わかり合うことは出会った瞬間から諦めていたから安心するといい!」

「出会いのことは言わないでくれにゃーい? 今思い出しただけでも腸が煮え繰り返っちゃうからさぁ。まぁ、そんなにこの目に痛い部屋を美しい紅に染め上げたいんなら、喜んでこの俺自らアンタの頭を身体からバイバイさせてあげてもいーけど?」


 ニマニマと余裕を感じさせる笑みを浮かべているギュゾーさんと両手をバキバキと鳴らしているゼネイールさんは、はっきり言って似た者同士だと俺は思いました、マル。


「………あの、金ぴかでも真っ赤でも本人に似合っていることが一番大事なんだから、俺は悪いとは思いませんよ。だからさっさと話の続きを…」


 人の趣味に口出しするほど俺は図々しくないつもりだ。

 というか、この人たちの可笑しな趣味嗜好の話よりも、さっきギュゾーさんが言った積もる話ってやつの方が気になる。

 何せ俺は、国どころか超絶可愛い白金さえ置いて単身こんなところにまで逃げてきたんだから。

 優しいみんなを残してギュゾーさんについてきたのは、その話を聞くためでもあるんだ。


「あー…ゴメンね、ミュラ君。ま、とりあえず適当に座って。長い話になるからね」

「はい、じゃあお邪魔します」


 目に痛い金ぴかのソファに腰を下ろすと、予想外に柔らかく座り心地のいい感触にちょっと驚いた。

 尻に当たる柔らかさに意識が向いている間に、当たり前のように何故か隣にゼネイールさんが腰掛けてきた。

 しかも背凭れに腕まで回すもんだから、端から見ればまるで俺の肩を抱き寄せてるみたいなんですけど。

 俺は隅っこに座ってるからこれ以上逃げ場はないけど、ゼネイールさんはど真ん中に座ってるからもっと向こうに行けるはずだろ?

 何だってこんなに近いんだ、この人は!

 いや…この悪魔は、か?


「なぁに、当たり前みたいにミュラ君の隣に座ってるのかな? ゼネイールはそこの、1人掛けソファが定位置じゃなかったっけ?」

「俺が何処に座ろうと関係なくなーい? それに、ミュラちゃんの傍って、なんかキモチーんだもん」

「純白の破魔神子を汚らわしい思考で汚さないでくれる? この半落ち悪魔」

「それはテメェだろっ、変態魔術師」


 テーブルを挟んで向かいに座ったギュゾーさんは、指パッチンで紅茶やらお菓子やらをいとも簡単に出してしまった。

 超凄い。

 こんな凄いものを見たんだから、俺に驚きのリアクションをとらせてくれよ。

 全く、会話をすればすぐに言い合いに発展するこの人たちは、同族嫌悪ってやつなんだろうか。

 もしそうなら、よく今まで一緒に暮らしてきたもんだ。


「さっきまでミュラ君を虐めていたくせに、どの面下げて隣に座ってるんだい?」

「この絶世の美貌を引っ提げてだよっ、糸目野郎!」

「はっ、悪魔と人間じゃ美的感覚も違うのだろうね。僕からすれば君なんて、ただの角が折れた真っ赤な羊だよ」

「俺の角を折ったのはテメェだろうがっ、ギュゾーッッ!!!! 人が熟睡してる隙にノコギリでぶった切りやがって!! お陰で魔界にも帰れやしねぇっ!!」

「ノコギリで切られてるのに気付かないで眠りこけてるなんて、君って本当に残念な悪魔だよね」

「残念言うなっ!!」


 どんどんゼネイールさんのイライラゲージが上がってって、口調まで変わってきている。

 それにしても、ギュゾーさんの言葉じゃないけど、ゼネイールさんは確かにちょっと抜けてるよな。

 角をギコギコされたら普通起きるよ。

 そのお陰で魔界に帰れないなんて、まるで羽衣伝説みたいじゃないか。


「そうやってすぐに怒鳴り散らすのは、流石野蛮で下劣な悪魔って感じだよね」

「人間ごとき下等生物が魔族を下劣だと…? 表に出やがれっ、陰険眼鏡!!!! その悪趣味な金ピカの服を真っ赤に染め上げてやるっ!!!!」

「へぇ、君にとって人間は下等生物なんだ?」

「当然だろう! 脆弱で浅ましく卑しい、醜いだけの害虫だ!!」

「…だってさ、ミュラ君」

「俺を害虫だと思ってたんですか、ゼネイールさん…」

「―――ッッ!!!!」


 急に話を振られたもんだから、つい反射的に悲しげな顔を作ってしまった。

 ノリの良い性格にも困ったもんだ。

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