二十一話 近付いてきた魔王
黒地に白線が全ての形の輪郭を描いている。そんな世界にわたしは居た。
「ここどこ?」
呟いてみると急に空気が冬のものになって、わたしは軽く身震いした。
ここはどう見ても普通の場所じゃない。わたしはどうしてこんな場所に居るのか解らなくて、寒くて、不安になった。
寒さに身を縮めていたら、わたしは本当に縮んでいた。まるで十年前に戻ったみたいだった。
「あなた」
どこか驚いた様子の声に振り返ると女の人がいた。いつかどこかで見たような気がするその人は、わたしのすぐ傍まで来ると、脇に落ちていた刀を拾って、刀とわたしを交互に見ていた。
「私の声、聞こえる?」
「うん」
躊躇い無く答えると、女の人は嬉しそうに笑って言った。
「可愛らしい人ね。あなたは母様のお友達?」
「母様って、だれ?」
女の人はわたしが聞いているのに、何も答えず、わたしのことを母様のお友達として話し出していた。
「お願い。私を母様のところまで案内して」
「え? でも、わたし解んないよ」
わたしがそう言うと女の人は顔を隠していた前髪を手で分けて、紅い瞳でわたしを一目見て、微笑んでいた。
「解らなくても大丈夫。あなたはこれから歩く道をまっすぐ行けばいいから」
目が覚めた。すぐに今のが夢だと理解したわたしは、またすぐにそれが本当に夢かどうか考えていた。
気が付くと抱いて一緒に寝ていた『季節名』を左手が強く握り締めていた。放そうとしても、手が開かない。段々と手の平が熱くなってきて、見ればどんどん白くなっていって、やがて血が流れてきた。それだけ強く握っているのに、わたしは少し手の平が熱いとしか感じなかった。
「寝ぼけてるのかなあ、それとも普段しないことしたからどこか寝違えちゃった?」
言いながら右手で左手を叩いて手を開かせた。落ちた刀を右手でゆっくりと掴むと、そのまま横一線に振り抜いた。
「すまない。寝室に忍び込んだのは謝ろう。まさかそんな薄着で寝ているとは夢にも思わなくてだな」
辛うじて避けたらしいフォルティスは両手を前に出して何か言い訳をしているみたいだった。
「ん〜ん、おはようフォルひぃす」
欠伸交じりで挨拶をするわたしを置いてフォルティスは寝室から出て行ってしまった。挨拶を返してくれないのはどうかと思うのだけれど、これから着替えることを思うと気遣ってくれたんだろうな。
刀を置いてから手早く着替える。帯の結びを確認して、それから刀に手を伸ばして、手を止めた。このまま、刀を取ることにわたしは強い抵抗を感じて、すぐに薬棚から包帯を取り出して鍔から鐺までを縛って抜けないようにした。さすがにさらしできつく巻くのは気が引けてしまう。
準備はできた。あとは歩き出すだけでいい。最後に鏡に映った自分の姿を見ておく。黒い髪に、蒼い瞳、彼女と同じ姿、でも彼女に負けないくらいにわたしは立派なお姉さんだった。それでもまだ全然子供だから、もう少し見た目に合わせて大人っぽく振舞ったほうがいいのかなと思って、そこで考えるのはやめた。無理をしてもいいことなんかない。わたしはわたしのままでいよう。
ドアを開けるとフォルティスが愛用の十手を見ながら唸っていた。覗き込んで見ると大分傷が目立っている。きっとわたしと戦ったときに付けられたものなんだろうけど、そんな状態の武器で戦いに行くのは危ないと思った。
「ねえフォルティス」
「ああ、何だトキナ?」
わたしは目釘を抜いて柄ごと仕込みの短刀を差し出した。フォルティスには死んでほしくないからお守りに渡しておきたくなったのだけれど、彼は随分と驚いた様子だった。
「それ、どうしたんだ?」
フォルティスは包帯で抜けないように縛られたわたしの刀を指差して訊いてきた。
「わたしは魔王だけを斬ります。そのためのおまじないです」
「じゃあ、この短刀は?」
「フォルティスの十手、傷が目立っているから、良ければ代わり使ってほしいの」
「だが、それだとお前の柄が無いだろう。なあ、その刀の銘は、」
柄を取ったのは初めてだったわたしは、それを見ても最初、それが何かはよく解らなかった。
「そうか、トキナの愛刀は季節名と言うのか。それだと初代はどんな思いで季節名という剣を使っていたんだろうな?」
わたしは今まで何とも思っていなかったことが、とても無神経なように思えた。トキナの愛刀の名前は『季節名』だというその一致は、ただの偶然のように思ってた。けれど、そう。それは絶対に違うんだ。
―――― 我が名はあらず ただ手に携えし 刃の名を借りて ――――
彼女は誰でもなかった。それじゃあ、トキナって誰なんだろう。わたしは無性に悲しくなった。
「きっと、とても大事に思ってたと思う。だって、この刀はいつも彼女の手の中にあったから」
わたしの声が震えていることにフォルティスは何も言わず、ただ黙って短刀を受け取ってくれた。
今は、それでとても安らぐことができた。
「それじゃあ、行こっか」
目の端に溜まった涙を拭って言うと、フォルティスは目の光を複雑そうに揺らしていた。
「ああ……トキナ」
「何ですか?」
笑顔で訊くと、彼は言いかけていた言葉を呑み込んでしまった。
「いや、何でもない」
わたしたちはまず、シルクリムたちの居る町へと足を運んだ。町に着くまでの間はこれといった障害もなく、実にスムーズな道のりでした。そのことでシルクリムたちの活躍ぶりがよく解ります。ここのところ魔物が一体も出なくなったと言って、喜ぶ人たちを見ていると、わたしがこれからすることはとても大きな意味を持つんだと実感できた。
町に着いてみると随分と賑やかだった。そのうえ、わたしたちのように他所から来た人にも随分と親しみを持って接してくれるのは、今の時代では珍しいことだとフォルティスが言っていた。
「これもシルクリムのおかげかな?」
「きっとそうなんだろうな」フォルティスは周囲を見回しながら言った。「シルクリムという人物は英雄になれるかもな」
フォルティスは、すごく羨ましそうに言った。
「英雄」その言葉にわたしは不思議な気持ちになった。「魔王を討てば、わたしも英雄になるのかな?」
「どうかな。俺が魔王を討てば、英雄になるのは俺だろう?」
二人で話しながら、間に立った秋ちゃんと手を繋いで歩いている。昔、彼女がわたしと手を繋いで歩いているのもこんな風に温かいと感じていたのかな。そうだといいなとわたしは空を仰ぎ見ながら思った。
町の広場をぐるりと見渡すと、シルクリムは十年前と何も変わらない姿で立っていた。ただ、武器を脇に立てかけているのが昔とは違っていた。
「随分と立派になられましたね」シルクリムはそう言って笑顔を浮かべた。「お連れの方がいるようですけど、彼らを伴って行くんですか?」
「言っておくが、俺はトキナのお供じゃない。ただ、行き先が同じというだけの間柄だ」
「では、その子は?」
「私はトキナの弟子よ」
秋ちゃんからそう言ってくれたのでわたしが言う手間は無くなったけれど、シルクリムは大分驚いていた。
「それは驚きですね。トキナは弟子を取らないものと思っていました」
シルクリムから向けられた視線は何だかとても興味深そうにわたしを見てきていた。
「何か気になるな。その目」
「トキナ。貴女は型捨無流をこの子が継げると考えていますか?」
そう言われてわたしは秋ちゃんを見て、それから大きく頷いた。
「大丈夫。秋ちゃんは多分、わたしや、トッキーにもできないことができるようになるよ」
「そうですか。貴女も剣を教えるのですね。それでも、貴女を見ていると彼女は間違えなかったと思えます」
シルクリムは片目を瞑るとわたしにある場所を示す。そこで話をしようということだと察したわたしは無言で彼女のあとについて行った。秋ちゃんも付いてきたけれど、フォルティスだけはその場に佇んで、その場を動こうとはしなかった。
結局フォルティスは一緒に来なかった。そのことに少しばかりの寂しさを感じながら、人気の無い飲み屋さんにやって来たわたしと秋ちゃんはシルクリムとテーブルを挟んで向かい合っていた。
「魔王の行動に関する情報を言いますと、現在魔王は」テーブルの上に地図を広げて印に指を当てる。「このあたりで人間を狩っていますね。連れていた大勢の魔物も今や無く、単独でフラフラとしているような状況です」
「何だか意外だね」
魔王がフラフラするなんて、何だか想像と違う。想像では雷雲が覆っている空の下に悪い感じのする意匠をこらしたお城で椅子に座っている感じがするのに。
「十年も戦っていればいい加減に気付いたのでしょう。自ら事を行ったほうが遥かに良いと」
そういうものなんだと思いながら、わたしは飲み屋のおじいさんがグラスを熱心に磨く音と姿に魅入っていた。そしたら、わたしの視線に気が付いたみたいで、ほっほっと優しげに笑って飲み物を持って来てくれた。その親切が心に染みました。
ふと、風の匂いが気になった。さっきまでよく晴れていたのに、雨が降りそうな気配がする。世界は明るさを弱めて灰色に覆われ始めていた。
「おじいさんありがとう」
お礼を言うと、また穏やかに笑って去って行くおじいさんの背中を眺めながら、わたしは飲み物を一口飲んでその温かさにほっと息を吐いた。シルクリムへと視線を戻すと、彼女は秋ちゃんの頭を撫でようとして逃げられていた。けれど、その動きが急に止まって表情が消えた。
「まずいですね。魔王が近くに来ています」
「どうしてそんなことが解るの?」
わたしはそれが不思議でならなかったのですぐに訊いた。シルクリムは黙って天井を指差した。
「上がどうかしたの?」
「魔王は頭上に常に嵐を付き従えているのです。この空模様・・・間違いないでしょう」
「じゃあ魔王はいつも嵐の中を歩いてるの?傘をさしてるのかなあ、それともコート?」
「貴女は何故魔王が人の姿をしてると考えているんですか?」
「だって、あんまり怖いのはイヤ。想像したくない」
そう言うとシルクリムは弾けるように笑い出した。
「あははは、あまり緊張はしていないようですね。これから貴女は魔なる存在との戦いに決着を着けようとしているのに」
その言葉を聞いたとき、わたしはとても悪いような、良いようなよく解らない予感を感じて、次に言葉の意味を考えて首を傾げていた。
「あれ? あれ? 何でだろう。今、とっても不思議な気分なの」
刀を手に取ってお店を出ると、雨が地面に当たる音が耳に聞こえる。わたしは秋ちゃんのことをシルクリムに任せて嵐へと足を向けて、空を見上げる。黒い雲の下には、確かに魔の王様がいても変じゃない。わたしは太腿にベルトで留めておいた予備の柄を手にして、刃に付けられた銘を目に焼き付けてから、取り付けて釘でしっかりと留める。これで準備は万端だ。
そんなときに落ち着きを無くし始めたわたしは、最後に帯の結びをしっかりと直してから町をあとにした。