少年、現れる。 12
「つゆり。きみって冷めてる奴だね」
ばたん、と扉が閉まる音がした後でカンタレッラが口を開いた。
「何が」
「だって、初対面の男にあんなことされても平然としていたじゃないか。処女ならもっと抵抗を見せろよ。冷静だと逆に慣れてる淫乱だと思われるよ」
「びっくりしたんだよ。だから、動けなかった」
嘘ではない。あんなふうに大人の男性に迫られたことは初めてで、どうしていいのかわからなかった。ほんの短い時間だったけど、軽くパニックになっていたのかもしれない。私はまだうるさく騒いでいる心臓をどうにか落ち着かせようと、チョコレート味のクッキーを一枚齧った。
「ねえ。どうしてぼくの両親が離婚したのか教えてあげようか」
「……一応聞いとく」
「簡単なことだよ。パパがちょっと浮気性で、マンマが嫉妬深かったからなんだ」
「ああ。それは確かに相性が悪い」
「それにロザーリオは、妻よりも息子を愛した。これがどういうことだかわかる?」
「……? いや……わからない」
私が首を横に振ると、カンタレッラは何故かいきなりブレザーとセーターを脱ぎ、静電気でシェルピンクの髪が浮き上がるのも気にせず、カッターシャツのボタンまで次々と外し始めた。
「ちょ、ちょっと――」
「ほら。見ろよ」
ばさり、と。まだ新しいカッターシャツが肌着と一緒に脱ぎ捨てられる。
私は言葉が出なかった。
半裸になったカンタレッラの白い滑らかな肌には、痛々しい痣と艶めかしいキスマークの跡が至るところに散らばっていた。
「…………!」
「つゆり。ぼくの面倒を見る役割をクラスメイトから押しつけられた可哀想なきみだけに教えてあげる」
そう言うとカンタレッラは私の右手首を掴んだ。そのまま自分の左胸に触れさせる。
「ロザーリオは、単純な女好きじゃない。息子のぼくまでをそういう目で見ているんだからね。十歳くらいの頃から、ぼくは性的虐待を受けてるんだよ」
性的虐待。
テレビの画面越しでしかその存在を知らない私にとって、その響きはひどく生々しくも現実離れしたものに聞こえる。そして私は彼が先ほどから父親のことを「パパ」ではなく、「ロザーリオ」と名前で呼んでいることに気づいた。
カンタレッラはまだ私の右手を解放することなく、今度は青い痣がある脇腹の辺りに触れさせた。その痣に隠れるよう存在していた小豆のような二つの丸いものに目を奪われる。キスマークに似ているけれど、違うものに見えた。
「あ、これはキスマークじゃなくて根性焼きの痕だよ。あのときの銘柄は確かラッキーストライクだったかな」
「…………」
「話を戻そうか。――ぼくはロザーリオから性的虐待を受けていた。マンマがそのことに気づいて、どうしたと思う?」
私は答えない。答えられない。
微笑を浮かべたまま、カンタレッラは世間話でもするかのような口調で続ける。
「まず最初に、ぼくの頬を打った。そして息子であるぼくを妬むようになったんだよ。我が子を見る目じゃなくて、まるで自分の夫に声をかけた薄汚い娼婦でも見るような目に変わった。そのときからマンマは多分、母親じゃなくて一人の女になっちゃったんだろうね。ぼくはもう、マンマが母親に戻れないんじゃないかと思ったよ。それで前々から一触即発だったぼくの両親は二年前に離婚してしまったんだ。そしてぼくは今ロザーリオと二人きり。もちろん虐待は続いてる」
「け、警察には……」
ようやく喉から出てきた言葉は、それだけだった。カンタレッラは無知の子供を憐れむような目で私をじっと見つめると、首をゆるゆると横に振った。同時に私の右手を離す。
「ぼくはロザーリオが好きなんだ。煙草臭いカクテルキスも愛撫も暴力も受け入れるくらいには。あくまで父親としてね。きみや世間一般の目から見れば異常なんだろうけど」
その言葉は、暗に「絶対に誰にも言うな」と言っているようでもあった。
親から虐待されている子供は、その親を庇う傾向があると以前テレビで心理学者が説明しているのを見たことがある。カンタレッラとその父親も同じような関係なのかもしれない。
「それで、あなたはいいの?」
「何が」
「ずっとそのままでいて、本当にいいって思ってる?」
「………………」
しばらくの間カンタレッラは沈黙していた。やがて不貞腐れたような表情で煙草を銜えると、ジッポーライターで火を点け、小さな口からバニラの香りがする煙を吐き出した。
「もう帰れよ」
「……うん」
私はソファーを立ったところで、それまですっかり忘れていたことを思い出した。
「あ、そうだ。雛月から伝言を頼まれてたんだけど」
「誰?」
「二年一組の学級委員長、南里雛月。女子だよ」
「ふうん。で、なんだって?」
「次の日曜日、暇だったら一緒に町外れのショッピングモールに行かない? よかったら十時半、駅前に待ち合わせで。以上」
「いいよ」
「じゃあ、明日そう伝えるね。ご馳走様でした」
「ん。これ、タクシー代」
そう言ってカンタレッラは財布からいくらかの紙幣と硬貨を取り出して私の手に握らせた。
「え、でも――」
「ここに連れてきたのはぼくだし、きみは今お金を持ってないんだろう。駅前ロータリーから黄昏中学校の前までなら、それで足りるはずだよ」
「……ありがとう。お邪魔しました」
私は礼を言って、カンタレッラの家を出た。
……意外だった。私はもうすっかり、この寒空の下を長い時間徒歩で帰宅する羽目になるのかと思っていたのに。
閉められたドアを見つめてから、踵を返す。しばらく歩いていると閑散としたプラットホームが見えてきた。あの駅の前にあるロータリーでは、こんな一地方の町でも出番を待ち侘びているバスやタクシーがそれなりに多く行き来している。私はすでに薄暗くなり始めた空の色を気にしながらブレザーのポケットに紙幣と硬貨を押し込み、歩みを速めた。




