祐介の過去
幼い頃の思い出を出来れば振り返る事はしたくない。何もいい思い出がないからだ。本当の母親の記憶がない。
いつも手足に真っ赤なマニュキュアを塗っている女が法律上の母親だった。言葉使いが悪くて気性の激しい女。一緒に居た兄の淳史が小学生にして既に自然にそういうしゃべり方になっていた。バカヤロウとかテメエなどと言うのだ。
昼夜逆転の生活で朝の目覚ましが鳴ると「早く支度して学校行けよ!」とめんどくさそうに布団の中から毎朝怒鳴る。学校でもらってくるプリントにろくに目を通してもらえず、行事ごとや集金の時など決まっていつも恥かしい思いをした。
数年父親が刑務所に入っていた時なんかは全く家事をやらないあの女のせいで毎晩カップラーメンとかうどんの出前が続いたし、洗濯もろくにしてもらえないから二日続けて同じ体操着や靴下を履いて行ったりしていた。学校から帰ってきても家に鍵がかかっている事が多くてそんな時は近所のパチンコ屋に行き、脚を組みながらタバコをふかして険しい顔で台を打っている女を探して鍵をもらって家に入るのだ。
祐介の心はいつでも寂しかった。夕方、近所の友達の家々を通る度に夕食のいい匂いがするのにうちは違う。もっと友達が沢山欲しいのに小学校の時から既にやくざの息子だと知れ渡っていたからいつも皆から恐がられていた。
お盆に入る少し前、家に出入りしている男と母親である女とのイヤらしい行為に気がついたけど恐ろしくて誰にも言えなかった。それは幼い祐介の心にショックにも近い感情として刻まれる。
中学生になり3つ上の淳史とは重ならないにしても兄の不良ぶりが中学の伝説になっていて、やくざの息子だけでなくその弟として何もしないでも自動的に有名人だった。学校の先生までがどこか祐介を色眼鏡で見ている。周りを敏感に観察しなくてもそれがひしひしと伝わってくるのだった。
それから自分がタバコ臭いというのにも気がついた。気がついたというより、席替えの後の放課時間に女子たちがが「内藤くんってさ~いつもタバコ臭いよね。うん臭い臭い。近くにいるとすごい臭ってくる~」とコソコソ話しているのが聞こえたのである。
僕はタバコ臭いんだ。そう言えば、家にいる人や出入りしている人 皆がタバコを吸う。時々、大人数が集まる部屋の天井はタバコの煙で曇ってるし、食卓の上にある灰皿には必ず誰かの吸殻が溜まっている。またあの家が一層嫌いになった。
淳史を好きだったという2年や3年の不良女子が話しかけてくるのも嫌だった。中に一人だけ綺麗な先輩がいたけど言葉使いの悪さに吐き気がした。あの女みたいだから…。気分で人の頭を叩いたり、物を投げつけたり、ご飯もろくに作らない、朝もずっと寝てるし、僕と兄さんを施設に入れようと夜な夜な父親に何回も話を持ちかけていた。中学の時から不良なら将来はあんな女になるんだ。最悪…。
中3の時に初めて少し信頼できる先生に恵まれた。大野先生はベテラン教師の学年主任兼、祐介のクラスの副担任でもちろん淳史の事もよく知っている。それでも真面目に勉強をする祐介の性格を見抜き彼のレベルの合った的確な高校受験のアドバイスをしてくれた。それが人生の小さな分岐点だったかも知れない。その高校に行っていなければ大学受験のチャンスもなかったように思える。
晴れて高校も決まり、入学早々に他のクラスの女子に告白された。なんとなくその子が気になり初めて付き合ったが数ヵ月後に同じ中学の奴が漏らしたのだろうか?やくざの息子だと高校中に知れ渡り彼女に振られた。
彼女は別れたい理由も教えてくれずに一方的に祐介を退ける態度を取って別れに至った。何も言われなくても祐介には振られた理由なんて簡単に想像がついたし、人って思っている事を素直に言ってくれる温かさもないんだ、所詮人間関係なんてその程度のもの。そんな風に思えた。
虚しさと同時に心がひどく傷ついた。自分を全否定されたように思えたし、存在すらも否定された…。僕は誰にも受け入れられないんだ。世界の嫌われ者。祐介は人間不信に陥る。
学校の友達ともあまりつるまなくなっていた。教室でも一人窓際でぼんやりと過ごし業後は幽霊のようにすうーっと教室から姿を消す。
家では自分の部屋に閉じこもりがちだった。人の家で酒を飲んで賑やかに面白おかしく笑いながら食事を共にする他人のくせに家族面する奴らがうっとうしかった。関わりたくなくて部屋でラジオを聴いたり雑誌を読んだり学校でも家でも自分の居場所がない気がしていた。
どうして僕はこんな家に生まれてしまったのだろう。そもそも どうして僕なんてしまったのだろう…。こんなに傷ついて悲しい事ばかりならば この世に生まれてこない方が幸せだったのかも知れない。
流れる雲を見ながら、空が穏やかな時でも曇っていても、しとしとと降る雨の日でも 気が付けばいつもそんな事ばかりを考えるようになった。
異変に気がついた淳史が祐介を強い一人前の男に改造しようと仲間と一緒に夜の街に連れてゆき初体験を済まさせた。快楽に正直な身体と傷ついたままの心の狭間で少年は更に大きく混乱する。
一度だけあまりに心が情緒不安定で忌々しい気分が頂点に達した瞬間、わけがわからなくなって気がつくと奉仕中の女の子を殴っていた。裸の女の子は悲鳴をあげ店の男2人が風呂場に入ってきた。
それから二度と淳史は祐介をそういう場所へ連れて行かなくなったし祐介もついて行かなくなった。
嫌な思い出ばかりが常に付きまとうから他人に上手く心が開けない。一件、楽しんでいる素振りは見せるものの警戒心がほどけずに心から楽しむ事ができなかった。それは大学で親しい友達が出来るまで続いた。
大学へ入ってようやく祐介にも明るく楽しい学生生活が始まった。気の合う仲間が出来て車の免許も取り行動範囲もうんと広がる。バイトをしたりファッションにも少し目覚め始めた。
実家の事は誰も知らないし言う必要もない。
普通の学生である自分しか知らない仲間との関係が心地よくて楽しかった。
ただ女の子と付き合うのはやっぱり高校の時のトラウマがあって気が進まない。女は恐い。昨日までは好きと言ってくれたのに翌日には完全なる無視。理由も教えてくれないままに目の前から去ったりするから。
実家と縁が途絶えてから、金銭面で親の世話にならなくても生きてゆけるようになったら誰かと付き合いたい。人には言えないそんな小さな目標さえ芽生えたのもこの頃。
学生同士の合コンで気になる人に出会っても祐介は電話番号を聞かなかった。番号を聞いてそこから始まるかもしれない恋の関係に期待を抱きつつもどうせ終わる関係ならば始まる必要なんてない。そうんな風に淡い期待を消去するのだ。
二回生になった時、可愛らしい1年生の子から告白されたけどそれも断った。悲しい結末にしかならないなら 何も始まらない方がずっといいから。いつも決まって同じ結論にたどり着く。
彼女は今にも泣きだしそうだった。祐介は少し心が痛んだが、その後にやがて自分に起こるだろうもっと深い傷を恐れて目をそむけてしまうのだった。




