第六話 旅立ち
夜明け前。
港には、波の音だけが響いていた。
アオイは荷物を一つずつ艇へ積み込む。
飲料水。
保存食。
救急用品。
防水バッグ。
双眼鏡。
必要最低限だった。
エンジンを始動する。
小さな振動が船体へ伝わる。
桟橋をゆっくり離れ、艇は静かな海へ滑り出した。
⸻
空が少しずつ明るくなる。
街はもう見えなくなっていた。
海図を確認する。
進路を修正する。
波は穏やかだった。
水平線の先に、小さな島影が現れる。
灰島。
写真では何度も見た。
衛星画像でも見た。
それでも実際に見る島は、まるで違っていた。
森が、海の上へ浮かんでいる。
ただそれだけなのに、どこか近寄りがたい。
艇はゆっくり速度を落とした。
⸻
双眼鏡を覗く。
白い砂浜。
細長い舟。
波打ち際には数人の島民が立っている。
こちらを見ている者もいた。
アオイは双眼鏡を下ろした。
まだ遠い。
それでも、これ以上近付けば気付かれる。
ドローンの映像が頭をよぎる。
空を見上げる島民。
飛来物。
大きく傾く映像。
あの距離でも、彼らは侵入者を見逃さなかった。
艇をさらに近付ければどうなるか。
考えるまでもなかった。
⸻
アオイはエンジンを切った。
海が静かになる。
艇は波に揺られながら、ゆっくり漂う。
島民は浜辺を行き来していた。
漁の準備をする者。
舟を動かす者。
子どもたち。
時間だけが過ぎていく。
焦る必要はなかった。
ここまで来たのだ。
数時間くらい待てる。
⸻
太陽はゆっくりと西へ傾いていった。
島民たちの動きにも規則があった。
朝には舟を出し、
昼には森へ入り、
夕方になると再び集落へ戻ってくる。
アオイは双眼鏡を覗き続けた。
時間を忘れるほど、島を観察した。
何度も同じ光景が繰り返される。
生活には流れがあった。
その流れが崩れることは、一度もなかった。
やがて空が赤く染まり、
赤は群青へ変わる。
浜辺から人影が消えた。
集落にも明かりは見えない。
アオイは双眼鏡を静かに下ろした。
「今だ。」
エンジンは使わない。
櫂を手に取り、できるだけ音を立てず艇を進める。
波が静かに船体を押す。
白い砂浜が少しずつ近付いてくる。
夜の海は、不思議なほど静かだった。
⸻
艇の底が、砂へ触れた。
小さく擦れる音がする。
アオイはエンジンキーを抜き、防水バッグを背負った。
艇はそのまま波打ち際へ残した。
必要になれば、すぐ戻れるように。
辺りは暗い。
月明かりだけでは森の様子は分からない。
無理に動く理由はなかった。
夜はここで明かそう。
アオイは波打ち際から少し離れた場所へ腰を下ろした。
波の音だけが、静かに響いている。
目の前には、灰島。
写真でしか見たことのなかった島が、そこにあった。
アオイは静かに立ち上がる。
そして。
ついに、灰島へ足を踏み入れた。
「第一部 研究」は今回で終わりです。
次回からは第二部へ入ります。




