第一話 分類不能
世界には、人が近づいてはいけない場所がある。
戦場でもない。
災害区域でもない。
そこには、昔から人が暮らしている。
ただ、近づいてはいけない。
灰島は、そんな島だった。
島は本土から数百キロ離れた海上にある。
小さく、緑に覆われた島。
地図にも海図にも載っている。
けれど、その名を知る人は多くない。
理由は単純だった。
島には、外部との接触を拒む人々が暮らしている。
近づく船には矢が放たれ、上陸を試みる者には槍が向けられる。
政府は長いあいだ、この島への立ち入りを禁じてきた。
人々の暮らしを守るため。
そして、余計な争いを生まないため。
ニュースになることも、ほとんどない。
灰島は、世間から忘れられたまま、静かにそこにあった。
⸻
海洋環境研究機構。
第七解析室。
夜中の二時を過ぎると、部屋にはキーボードを叩く音しか残らない。
アオイは机の隅に置いた紙コップへ手を伸ばした。
冷めきったコーヒーを一口飲み、顔をしかめる。
今日はもう帰るつもりだった。
ただ、一つだけ確認したいデータが残っていた。
数年前に行われた沿岸地形の解析結果。
灰島周辺の海底地形を調査した資料だった。
画面には衛星画像が表示されている。
その上を、解析AIが地形や植生を一つずつ識別していた。
砂浜。
岩場。
森林。
浅瀬。
衛星画像から読み取れる情報を分類し、研究者が扱いやすい形へ整理する。
それが、このAIの役割だった。
解析結果は、おおむね問題ない。
画面には緑色のラベルが次々と並んでいる。
だが、島の中央付近だけが違った。
ラベルがない。
アオイは画面を拡大した。
森だった。
少なくとも、人間の目にはそう見える。
高い木々が密集し、濃い影を落としている。
特別なものは見当たらない。
カーソルを合わせる。
解析結果が表示された。
分類不能
アオイは画面を見つめたまま動かなかった。
もう一度、読み返す。
分類不能。
解析ができないこと自体は珍しい結果ではない。
画像が粗かったり、雲が重なっていたりすれば、解析できないこともある。
だが、その場合は別の表示になる。
解析不可。
あるいは、
信頼度不足。
そう返ってくる。
この表示だけは見たことがなかった。
分類不能。
アオイは別の年度のデータを開いた。
五年前。
十年前。
十五年前。
解析に使われたAIは違う。
衛星も違う。
撮影日も違う。
それでも。
島の中央だけは、同じ結果だった。
分類不能
「……何だ、これ」
独り言は、誰もいない研究室へ静かに落ちた。
⸻
翌朝。
「灰島?」
三浦は弁当の蓋を開けたまま顔を上げた。
「まだ気にしてる人がいたんだ。」
アオイは端末を机へ置く。
「知っているんですか。」
「有名だよ。この業界では。」
三浦は資料を流し読みし、小さく笑った。
「若手が一回は興味を持つ島。」
「その後は?」
「何もできないって知って終わる。」
「でも、この結果は。」
アオイは画面を指差した。
「解析できなかったんじゃないんです。」
「分類できなかった。」
三浦は少しだけ真顔になった。
画面を見直す。
「……確かにな。」
「これだけです。」
「ん?」
「三十年分見ました。」
アオイは資料を並べる。
年代も、衛星も、解析AIも違う。
それでも結果は同じだった。
分類不能
三浦は腕を組む。
数秒だけ黙ったあと、小さく息を吐いた。
「面白い。」
アオイは少しだけ笑う。
「ですよね。」
「でも研究にはならない。」
笑顔はそこで終わった。
「島へ入れない。」
その一言で、会話も終わった。
⸻
昼休み。
地下資料室は静かだった。
古い紙の匂いが漂う棚の奥で、柏木が脚立に乗って資料を整理している。
「灰島の資料を探してるそうだな。」
声だけが先に降ってきた。
アオイは振り返る。
「はい。」
柏木は脚立を降りながら笑った。
「君で七人目だ。」
「七人目?」
「灰島を調べようとした研究者。」
棚から一冊の紙ファイルを取り出し、アオイへ渡す。
表紙には手書きで書かれていた。
未採用報告書
中は一枚だけだった。
AIではなく、人による現地観測を提案する。
その下には赤い判子。
却下。
理由。
人的危険が大きく、検証価値に乏しい。
アオイは紙を見つめた。
「誰が書いたんですか。」
「さあな。」
柏木は肩をすくめる。
「灰島に興味を持つ研究者は多い。」
「でも。」
「みんな途中でやめる。」
「どうしてですか。」
柏木は少しだけ考え、
静かに答えた。
「調べる方法がないからだ。」
その言葉は、資料室の静けさより重く聞こえた。
⸻
その日の帰り道。
アオイは研究所の屋上から海を眺めていた。
遠く水平線の向こう。
もちろん灰島は見えない。
それでも、頭の中にはあの表示だけが残っている。
分類不能
その島だけが。
三十年間、一度も名前を与えられていなかった。




