八
午後8時半、一日の勉強ノルマをを終えた広人は部屋の窓を開けた。頬を撫でる五月の夜風は早くも熱気を帯始めていた。目の前に広がるのはいつもの変わらない現実の風景、夜の闇に包まれ一日の終わりを迎えようとしている。この数分後、自分は別世界での短い一日を始めることになる。そんな生活を続けるようになってから一年の歳月が過ぎていた。
マグナスキルオンラインを始めてから、広人の成績は下がるどころか予想外の伸びを見せていた。心おきなくゲームを楽しむために、学校での授業や講習は集中して取り組み、休憩時間には出来るだけ課題と予習を済ませるようにしていたからだ。傍目から見ればただの勉強好きと見られがちだが、その熱意の元はゲームにあるなどとは誰も思いはしないだろう。
別世界と自分とを繋ぎ留める権利を得るための対価として学業をおろそかには出来ない。いつの間にかそういう意識が芽生えていたのかもしれない。行動を共にし苦労や喜びを共感できる彼女達がいる世界は、今の広人にとって生き甲斐そのものだった。
DORSは身体機能の全てを制御しているわけではなく、呼吸や自律神経といった生命維持に関わる脳神経信号には干渉していない。その為ゲーム内で心因的なストレスを受けたり、脳が興奮状態になったりすると、大量の汗をかくことになる。
ログイン前に水分補給をしておこうと、広人は一階に降りリビングのドアを開けた。
母親は入浴中らしく、父親が一人ソファに座り、缶ビール片手にテレビを見ていた。その横を通り抜けキッチンの冷蔵庫に向かおうとした広人は、ふと違和感を覚えた。
エレクトロニックな楽曲と可愛らしい女性の歌声…。
テレビ画面には、とある有名な女性ボーカルのPVが映し出されていた。
グラスにオレンジジュースを注ぎ、無言のまま父親の隣のソファに腰を下ろした。息子の存在を知ってか知らずか、食い入るようにテレビ画面を見つめる父親に、ポツリと話しかける。
「父さん…」
「ん?」
「おれ大人の事情なんて良く分からないけどさ、愚痴くらいなら聞いてあげてもいいから」
広人の言葉に、父親である一春は口をつけたばかりのビールを吹き出しそうになった。
「広人、お前何か勘違いしてない?」
「えっ?」
ティッシュで口元を拭いながら、父親は広人に困ったような顔を見せた。
PVの女性アーティストは「るりきゃろ」と呼ばれる高校生現役モデルにしてボーカリストの女の子だった。主に中高生から支持され、独特の曲調と個性的なファッションとダンスで知られる彼女のPVは、国内のみならず海外での評価も高く、有名な動画投稿サイトでは熱烈な欧米ファンの書き込みが絶えないと聞いていた。
「いくら俺でも50手前で萌えデビューはありえんし」
今度は広人が吹き出しそうになる。
テレビのボリュームを下げると、父親は缶ビールをテーブルに置いた。
「この娘さんDORSのイメージガールになるらしくてな、会社内じゃその話題で持ちきりなんだよ。自分が開発に関わった製品だし、一応どんなものか知っとこうって思っただけだ」
「DORSの?」
「近々新製品の発表会があるんだよ、軽量化とスペックアップした改良型さ。そのうち持ってくるから楽しみにしていろ」
「発表会なんてものがあるんだ」
父親は頷いた。
「形式的なものだけどな、ゲーム会社が関わっている商品ということもあるのさ」
さらに広人を茶化すように言葉を続けた。
「お前もしかして、この娘のファンか?」
「まさか。今のところ勉強とマグナ以外興味ないし」
父親は「そうか」というと、缶ビールを煽った。
「そう言えば、これ…極秘情報なんだけどな」
「極秘?」
焦らすように父親は言葉を区切ると、にやりと笑いながら言った。
「彼女、…マグナのプレイヤーらしいぞ」