1. 王子だったら浮気も許されるのかって話よ!
「ふっざけんじゃないわよ、あのクソ王子……!」
感情に任せて腕を振り下ろすと、持っていたグラスがテーブルとぶつかり鈍い音を立てた。もう半分も入っていないお酒が揺れて水滴が頬に跳ぶ。その冷たさも気にならないくらいはらわたが煮えくり返っていた。
「好きな人ができた? ああ゛? 王子だったら浮気も許されるのかって話よ!」
ーー他に好きな者がいる。ヘルミーナ、お前との婚約は破棄だ。
つい先ほどライナー様から言われた言葉が蘇る。お腹の奥底から込み上げる怒りをお酒と一緒に飲み込む。……ことなんてできなかった。
「7歳で婚約して13年。いつ結婚するのかしら、なんて思っていたけどここまできて婚約破棄なんて……!」
もう一度振り下ろした手は、横から伸びる手に止められた。
「ヘルミーナ、気持ちは分かるわ。でもそれはよくないわね。グラスが割れたら掃除をするのは侍女達なのよ」
「お母様……」
先ほどから何も言わずに同じテーブルでお酒を飲んでいたお母様に言われて顔を上げると、侍女達の困ったような笑顔が見えた。
ああ、いけないわ。物に当たるなんて。
心の中で反省をして、空になったグラスから手を離す。ごめんなさいね、と侍女達に笑顔を向けると、侍女達は、いいえ、と引き攣った笑みで答えた。
……いくらなんでも荒れすぎたみたいね。
「お酒もそろそろやめましょう。こんなところテオドールに見つかってしまってはまたお小言を言われるわ」
はっとして窓の外を見ると、いつの間にか木の葉はオレンジ色に染まっていた。ついさっきまで太陽は真上にあったというのに。どうやらライナー様の悪口で盛り上がって我を忘れていたようだ。
「ええ、本当ね。お兄様がお戻りになるまでにお片付けを終わらせてしまわなければ……」
そう言った時だった。
「残念ながら全部聞こえていたよ、ヘルミーナ」
扉の開く音と聞き慣れた声、コツン、と高く鳴る足音。思わず体が固まった。侍女が、フォルスター公爵、と小さく呟くのが聞こえた。
「あの感じだと屋敷中に響き渡っていたのではないかな」
ギギギギギ、と音が出そうなほどぎこちない動きで振り向いた先には、呆れた表情のお兄様の姿が。
「お、おかえりなさいませ、お兄様……」
できるだけいつもの笑顔を浮かべようとしたけれどできなかった。わたくしの引き攣った笑みを見たお兄様は深いため息をつく。
「ただいま。言いたいことはたくさんあるが、とりあえずお前の話を聞かせてくれ」
もう一つ空いていた椅子に腰掛けるお兄様の言葉に、お小言はなしかしら、とほっとしながら、今日お城であったことを思い出した。
わたくしは今日も終えた仕事を持ってライナー様の執務室へ向かった。抱えた書類の重さも靴音を反響する城の廊下も、機嫌を取るように話しかけてくる伯爵や子爵も、いつもと同じ。違ったのはライナー様だけだった。
わたくしの訪れを告げる騎士の声。続いて開けられた扉をくぐろうとした時、鋭い声がわたくしの足を止めた。
「入るな」
視界に入るのは目の前のテーブルに肘をつけてだるそうにわたくしを見るライナー様の姿。仕事しているとは思えないほど綺麗な机の上。それから、戸惑いの視線をライナー様へ向ける文官や侍女、騎士の姿。
仕事をしていないのはいつも通りなのでそれに関しては別に気にならない。
だけど……今、わたくしに入るなとおっしゃったの?
「ライナー様? どういう意味かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
抱えた書類が重くて、痛み出した腕を無視して笑みを浮かべる。ライナー様はそんなわたくしを真っすぐに見た。ライナー様の目を正面から見たのはいつぶりかしら。
「どういう意味も何も、そのままの意味だ。お前が俺の部屋に入ることを今後一切禁ずる」
ざわっとした。比喩ではなく、本当に部屋の中が一気に騒がしくなった。慌てふためきライナー様をなだめようとする文官達、気遣うような視線をわたくしへ向ける侍女達、どう対応していいのか戸惑う騎士達。
その中でわたくしは驚くほどに冷静でいた。というよりもやはり意味がよく分からなかった。
「わたくしは何か失態を犯したのでしょうか?」
昨日まではいつも通りだったはず。そう仲の良い関係ではなったけれどそれなりにうまくやれていたはず。少なくとも仕事に支障がでるようなことはなかった。
ライナー様はわたくしの質問を肯定も否定もせず、ただ言った。
「他に好きな者がいる。ヘルミーナ、お前との婚約は破棄だ」
ざわめきの中でやけにはっきりと聞こえた言葉に、頭を殴られたような衝撃があった。
一層ざわめく室内。廊下に立ったままのわたくしはその中にも入ることは許されない。婚約破棄。呟いた声はかき消された。
「知っているか? オルマン伯爵家のローズマリーだ」
ああ、あの治癒魔法を使うことのできる子ね、と思う。顔を見たことがある。可愛らしい子だった。
「彼女は神の魔法である治癒魔法を使うことができる。お前と違って本物の聖女だ」
途端、水を打ったように部屋の中に静寂が落ちた。
「で、殿下……!」
文官の一人が慌てた様子で立ち上がる。ライナー様を咎めるように呼んだその視線が一瞬だけわたくしへ向いた。口元に笑みを作って手で制すと、その文官は口を閉じた。
「失礼ですが、ライナー様。わたくしが本物の聖女ではないとおっしゃっているように聞こえましたが?」
「そう言ったのだ」
こちらへ向いたいくつもの視線。それは例外なく一点に注がれる。書類を抱えたわたくしの右手。そこにある聖女の証ーー祝福の紋に。
ライナー様も視線をそこに向け、ハッと鼻で笑った。
「祝福の紋だかなんだか知らぬが、そんなものないではないか。父上も言っておったぞ。フォルスター公爵家を持ち上げたい貴族にしか見えぬのだ、と」
くつくつと笑うその目は笑っていない。
「わたくしが神より祝福を頂いたことは、13年前、7歳の時に位ある神官に認められました。ライナー様もそのことはご存じですよね?」
「そうだな」
「聖女となったわたくしは第一王子であるライナー様の婚約者に相応しい、との理由で王より婚約の許可を頂きました」
「そうだな。昔の話だ」
つまり、その時はそうでも今は違う、と言いたいわけね。
祝福の紋は、魔力量が一定以上の人間にのみ見えるもの。わたくしをどう思っていても見える人には見えるし、見えない人には見えない。ライナー様や王に見えないということは魔力が足りていないというだけの話。
魔力量は生まれつきのものではあるけれど、訓練を行えば誰もが増やすことのできるものでもある。かくいうわたくしも幼いころからお母様に鍛えられたおかげで人よりも魔力量は多い。
これが見えないと言うことは、己の努力が足りていないと言うのと同義。
……と、言いたいのをぐっとこらえた。
ずっとライナー様に尽くしてきた。この先もこの方の隣で将来を支えるつもりだった。分かりやすい愛情表現なんてできなかったけれど……わたくしは、ライナー様をずっとお慕いしていた。7歳の時から、ずっと。
「俺とローズマリーは愛し合っている。邪魔なのはお前だけだ。お前がいなければ俺はなんの問題もなく彼女と結婚することができるのだ。俺のことを思うなら大人しく身を引け」
「……分かりました。婚約の件はわたくしの一存ではどうにもできません。兄ーーフォルスター公爵をお通しくださいませ」
そう言う唇が震えた。
ヘルミーナ様、と気遣うような誰かの声が聞こえる。真っすぐにわたくしを見るライナー様の目。あんな目を向けられたのはいつ以来か。この方はいつも退屈そうにわたくしを見ていたような気がする。
……そう、それがライナー様の心だったのね。
ライナー様はふん、と鼻で笑い、わたくしを見下すように見る。
「用は済んだ。それを置いてさっさと失せろ。目障りだ」
心の中に落ちた感情は静かなものだった。悲しみと諦め。
それがライナー様の望みならわたくしは……と言うとでも思ったか。このクソ王子め。
ーー怒りに呑まれた時は心の中で罵倒なさい。決して表には出してはなりませんよ。
お母様の教えが蘇る。はい、と小さく返事をして意識して笑みを浮かべた。
手に持っていたままだった書類を見る。第一王子であるライナー様の仕事。とっても大事な仕事。国のため、民のため、ライナー様のため、わたくしが必死で終わらせたもの。
それが一瞬にして炎に包まれた。
「なっ……!」
ライナー様が目を見開いてわたくしを見る。わたくしの手の中で燃えて灰になっていく書類。炎の中で祝福の紋がきらめく。
書類はひとかけらも残らずに灰となって散った。
「ヘ、ヘルミーナ様、お怪我は……!」
「大丈夫よ。わたくしの魔力がわたくしを傷付けることなんてないもの」
呆然とするライナー様には先ほどまでの傲慢さは見えなくて、ライナー様の傲慢な心も書類と共に灰になったのかしら、と思うと笑いがこぼれた。
「執務室に入ることも禁じられるほどですもの。わたくしの手が入ったものなんてお気に召さないでしょうから」
処分する手間を省いてあげましたわ、とわざとらしくにっこりと笑ってみせた。ライナー様はカッと顔を真っ赤にして口を開けたり閉めたり。
「では、わたくしはここで失礼いたしましょう。どうぞ、お元気で」
さっと踵を返して廊下を進む。少しして、ヘルミーナァ! と叫ぶライナー様の声が聞こえたような気がしたが無視した。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
胸の内で暴れまわる怒り。この13年間は何だったのか。わたくしの心があんな奴の元へあったとは。
肩から前へ流れる髪が邪魔くさくて、歩きながらばさっと後ろへ流す。
なんと情けない。多少性格に問題があるのも、能力で劣るのも構わない。ライナー様に出来ないことはわたくしがすればいい。二人で補い合っていけばなんでもできる。そう思っていた。でも、まさか浮気をするような人だったとは。
なんと情けない。そのような人だと見抜けなかった自分が。情けなくて仕方がない。
……クソ野郎が。
口元には笑みを浮かべたまま、心の中で罵倒する。震える拳をスカートで隠すようにして廊下を歩いた。




