過去編3
読書家という共通点を持っていた二人は目についた古本屋に入っていった。
「ここのさ、一冊百円の棚から一つ選んで、お互いに送り合うってのはどうかな?」藤村は笑顔で本棚に手を伸ばした。
「うん、それいいね」嶋咲も頷き本棚を見渡した。
二人は互いに相手に贈る本を探して、うんうん頭を捻りながら考えた。
藤村は大江健三郎の短編集を手に取った。他人の足のような読後感悪い作品が藤村には心地良かった。
「委員長、これ読んだことある?」
「ううん、大江健三郎ってノーベル文学賞の人だよね」
「へえ、そうなんだ。そんな凄い人なんだ」あっけらかんに。
「知らなかったの」驚いて言った。
「まあいいじゃん。じゃあこれにするわ」
「じゃあ藤村は、これ読んだことある?」手に持っていたのはオー•ヘンリーの短編集だった。
「賢者の贈り物なんて短編小説のお手本のような作品じゃないか。俺も大好きな一冊だよ。数ある愛の中の、一つの答えを提示している名作だ」
「……そうだよね」嶋咲は嬉しかった。それは彼女が最も愛する作品であったからだ。夢見心地の喜びに浸り、本棚に戻し違う本を探した。
嶋咲はヘッセのデーミアンを選んだ。
二人は一緒に会計を済ませてお互いに送り合った。
「ありがとう委員長の凄く嬉しいよ」
「うん、私も。早く読みたいな」
「なんか暗くて後味の悪い作品を送っちゃったな。武者小路実篤にすれば良かった」恥ずかしそうに頭をかいた。
「そんなこと言ったら私もだよ」
二人は素晴らしい喜びの温かさを共有していた。
普段は買わない中古の本が、とても大切なもののように思えた。渡した本を読んで、どんなことを想ってくれるだろう、考えてくれるだろう。緊張と恥ずかしさは、互いの心を震わせていた。
夕暮れの帰り道、二人の心は幸福で満たされながらも、あらぬ勘違いから、互いに自らを傷つけていた。
「また、二人きりで遊びに行きたいなぁ」嶋咲の発言は心の声が漏れ出たようだった。
「うん、また絶対に行こう。今日は俺の趣味に付き合わせちゃったから今度は委員長の行きたい場所に行こうよ。それでまた最後は本屋寄ってさ」藤村は嬉しく言葉が止まらなかった。
「あ……」心の声が漏れてしまったことと、予想外の反応がもらえたことが嬉しくもまた恥ずかしく俯いた。
俯いた嶋咲を見て藤村は失敗したと思った。また一緒に行きたいと、ただ社交辞令のつもりで言ったのに、あまりに攻め立てたので引くに引けなくなってしまっている。悪いことをした。いつもそうだ、人の心の機微が分からぬせいで失敗ばかりする。と、そうやって自分を責めた。
「じゃあ、今度プラネタリウム見に行かない?」顔を上げた。
「ああ、そうしようか」嶋咲には悪いと思いつつも、二人でまた遊びに行けることに嬉しさを感じていた。
藤村は嶋咲を家まで送った後、一人ボロアパートに帰った。真っ暗の部屋で差し込む月の明るさを頼りに嶋咲から贈られたデーミアンを読み進めた。
藤村がどんどんやつれてぼろぼろになって行く様を本当に心配してくれる人は二人だけだった。次第に学校に来なくなり、生来の明るさも損なわれてきた。髪はやたらめったら伸びまくり、頬は痩せこけ、その目には薄暗いどんよりとした残滓が澱んでいた。
暗い顔をし、昼過ぎに給食を食べに来て給食を食べ終えるとまた帰った。教師も最初は問題として捉えていたが、藤村の母があまりにおかしく話が通じなかったので、遂にはそのまま放っておかれた。
「ねえ、藤村は大丈夫なの?」嶋咲は不安そうに楓に尋ねた。
「……どうだろう。大丈夫には思えないけど」楓も返す言葉が見つからなかった。
「学校には毎日ご飯食べに来てるって事は、もう家じゃちゃんとしたご飯食べられてないんじゃないの?」
「……そうかもしれない」昔から痩せこけていたが、最近は見るに耐えない様相だった。
「こんなこと言ったら悪いけど、藤村のお母さんは病院にいなきゃいけないような状態なんでしょ。中原家が行政に保護されるべきだよ」大きな声を出した。中原とは、藤村の以前の苗字で嶋咲にとってはそちらの方が馴染み深い名前であった。
「それでも藤村の唯一の家族なんだ。そして藤村は唯一の家族と離れてどこにいく?」楓も辛そうに反論した。
「そりゃあ、施設に行くしかないけど。でもだって、あんな藤村見てられないよ……」手を強く握りしめた。
「俺も一度藤村を助けようと思って、嶋咲が考えていることをしようとしたよ。でも、あいつ泣きだしちまってよ。もう俺から何も奪わないでくれって。縮こまって顔をぐちゃぐちゃにしてさ。俺はもう、何もできなかったよ。俺たちがしようとしてる事はエゴじゃないのかなって」
「そうかもしれないけど……」
「そんなに藤村のことを想って心配しているのは嶋咲くらいだよ。その優しさに藤村は救われるよ。俺には決して出来ない、君にしかできないんだ」真っ直ぐ見据えて言った。
「なによそれ……」嶋咲は既に泣いてしまいそうだった。
「あいつはもう、どれだけ苦しんだかしれない。碌な食事も与えられず毎日菓子パンばかり食い、家に居場所はなく、頑張って取った絵の賞状にも母親は興味もなく、再婚相手の男に暴力を振るわれ、それにあいつは自分の生まれた日も知らないんだ」
「え、誕生日って七月六日じゃないの?」
「それは小学生の頃に自己紹介カードに書かれていた日付だろう? それは違うんだよ」楓は古い思い出を語り出した。
「藤村、いい加減誕生日を教えてくれよ。いつになったら祝わせてくれるんだよ」小学校五年生の頃、楓は藤村に尋ねた。
「いいんだよ。俺の誕生日なんて別にめでたくないしな」
「あれ、四月じゃなかったっけ?」教室の後ろを指さした。藤村と楓を囲んでいた女性との一人がそう言った。それは新学期早々記入するクラスの自己紹介カードに記入されたものだった。
「それ、カードのやつだろ。こいつ毎年違う日付を書くんだよ。なんでか分からないけど」
「えー、なにそれぇ。どういうこと?」笑いながら他の女子が言った。
「別になんでだろうね」なんてことなさそうに。
「じゃあ、今度本当の日の誕生日会やろうよ。そしたら吉乃も来るでしょ?」女子は嬉しそうに。
「勿論行くよ、てか俺が主催だよ」当たり前だろと、言わんばかりだった。
楓と女子たちは勝手に誕生日会の予定を立てて盛り上がっていた。
あいつら、本当は俺の誕生日なんて祝う気がないくせに。藤村は憎たらしく思った。小学五年生の藤村が一番精神を歪めていたし、その出自を考えればそれも仕方のないことではあった。
「ねえ、誕生日プレゼント何か欲しいものはある?」女子は笑いながら尋ねた。
「平穏な生活」ケラケラ笑いながら。藤村の家庭環境を知っている楓はその言葉にどれだけのショックを受けただろうか。
「なにそれ、じゃあこっちで適当に用意するから誕生日教えてよ」
「本当に誕生日が分からないんだ。一応戸籍上の日付ってのはあるけど、お袋は父親が蒸発した時点で俺が生まれたら殺すつもりでさ。堕す金もなかったし、精神も異常なもんで。でも、ボロ小屋のトイレで生まれた俺を見た時、結局殺せなかったんだって。お袋も頭がすっかりおかしくなっちゃてて、日付とかも全然覚えてないでそのまま俺としばらく一緒に過ごしてたんだ。だからこの辺りの日に生まれただろうって予想の日付であって、本当にいつ生まれたかは分からないんだよ。誕生日ってのは嫌いなんだ。殺されるために生まれてきて、祝われるってどういことだよ。乳幼児遺棄の事件とかニュースで見るとさ、自身が本当に生きてるのか死んでるのかもよく分からなくなるんだ……。情け無い話だろ」語り終え、ハハっと虚しそうに笑った。なにを言っているんだろうと、自分でも疑問に思った。
楓は言葉に詰まった。そんなことを初めて聞いたからだ。どうしようもできず、ただ力いっぱい抱きしめたい。藤村は黙ってされるがままにされていた。
その話を聞いた嶋咲も言葉を失っていた。しかし彼女は決意を固め、藤村に会いに行くことを決めた。藤村が生まれてきてくれて良かった。ただ、それだけを伝えたかった。彼女は学校帰りに藤村が住むボロアパートに足を運んび大きく深呼吸をした。震える指先で、チャイムを鳴らした。