どこもかしこも
根は、彼の身体の一尺ばかり上で止まっていた。
そして、その五寸ばかり下に、桜女の身体があった。
紙のように白い肌と紙のように白い単衣が茶色く染まっていた。
「さくら……め……?」
「ほんに、弁丸は、頼りない、男ノ子だこと」
にこりと笑った桜女の黒々とした瞳から、徐々に精気が消えて行く。
やがて黒い瞳は、ただ墨の丸になった。
紙のような色の顔は、ただの紙に変わった。
墨で書かれた呪文が汚い茶色の染みで被われ尽くすと、襟首と手首の数珠がばらけて散り、キラキラと落ちた。
弁丸の顔に、身体に、地面に、小さな水晶の珠が降り注いだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
弁丸は大粒の涙を両のまなじりから吹き出させ、叫び、目の前の汚れた炭の固まりを、おのれの拳で殴りつけた。
ぐらりと、朽ち木が揺れた。
揺れて、倒れた朽ち木は、しかしすぐに立ち直り、
『紙切れ一枚を破かれたくらいで、なにを泣き叫ぶか』
せせら笑いながら、三度太い根を振り下ろした。
根は何もない地面を砕いた。
弁丸は飛び込んできた協丸と一塊りになって、石くれだらけの山肌を転がり落ちていた。
転がって転がって、谷底まで落ちてようやく兄弟は止まった。
岩場に狂い咲きのツツジが咲いている。
協丸は体中をしたたか打っており、やっと顔を上げるのが精一杯だ。
他方、弟の方はすっかり呆けている。顔も上げられない。まぶたも動かせない。
協丸ようやく持ち上げた顔の、うっすら開いた目に映ったのは、山肌の遥か上から銀色の固まりが降ってくるようすだった。
「シロ?」
真っ白なトカゲは口に刀をくわえている。
シロは山肌に沿って急降下したかと思うと、兄弟の間際でいきなり突き進む向きを上へ変えた。
「キュゥー!!」
上昇しながら、シロは大きく一声啼いた。
くわえていた刀がストンと落ち、放心したまま倒れ込んでいる弁丸の頬をかすめて、地面に突き刺さった。
「痛い」
弁丸の口が僅かに動いた。協丸がのぞき込むと、彼は頬からほんの少し血を流していた。
「どこが痛い?」
ざらついた声で訊く協丸に、弁丸は、
「どこもかしこも」
洟と涙を袖でぐしゃりと拭い、飛び起きて、
「腕も腹も背中も脚も頭も顔も胸の中も、全部痛い!」
喚きながら地べたから霊剣を引き抜いた。
「シロ、来い!」
呼び声に応じて、天空からシロが舞い降りてきた。
ただし、その姿は珠でも大トカゲでも無かった。
銀色の鱗に覆われた身体に、蝙蝠に似た巨大な翼が生えている。大きな角を一対生やした頭から尻尾の先まで、これも銀色のたてがみが生えている。
遠目には、腹の出た大蛇に見えた。だが、四つ足があり、身の丈は人の三倍はある。
その異形が、聞く者の頭が割れそうなほどの大声で、
「ゴォォウ」
と咆吼いた。
「あれは、シロか?」
協丸は震えながら訊いた。弁丸は相変わらず洟をすすりながら、
「そうらしい」
とだけ答え、巨大なシロが突き出した後足に跳び掴まった。
そのままシロは舞い上がった。あの朽ち木のあやかしのいる場所の、そのまた遙か上まで、一息に飛んだ。
朽ち木の燃えさしが枝や根を空高く突き上げたが、届かなかった。
『おのれ銀龍! 何故その人間の小童に味方する!? おのれも我と同じモノであろうがぁ!!』
口惜しげに叫んだ朽ち木の上に、天空の銀色のモノの脚から人間の小童が落ちてきてた。
弁丸は落ちる勢いと己の体重と剣の霊気とを、その切っ先の一点に掛けている。
一点の先には朽ち木があった。
朽ち木は真っ二つに割れた。だが、あやかしは動くのを止めなかった。
二つに割れたその裂け目から、どす黒い霧が溢れ出て、それが弁丸ににじり寄った。
『よこせ、身体をよこせ。器をよこせ。器があれば我は生き物になれる』
黒い霧の先端が弁丸の首にあと三寸ばかりに迫ったとき、
「身体が欲しいなら、来い」
天地が震える声がした。
今までに聞いたことのない声音だ。
銀色の鱗を光らせて、巨大な姿のシロが黒い霧を睨め付けている。
「我はうぬと同じモノ。人でないモノ。人とは違う器を持つモノ」
シロは大きく口を開けた。つむじ風が起き、黒い霧の塊はシロの口の中に吸い込まれていった。
塊を飲み込むと、シロは身悶え、
「ゴォォウ……コォォゥ……クォォゥ……」
しばらく啼いていたが、次第にその声は小なものになっていった。
やがて、苦しげな啼き声は止んだ。
地面の上に、人間の赤子ほどの大きさの白いトカゲが、後足立ちに立ち上がっている。それは、
「きゅうぅぅ」
という愛らしい声を上げた。