混乱と鎮静
アヤメが礼子に返金の手続きを済ませた翌日の放課後、校長室に呼ばれて行ってみると少し猫背気味の優男と濃紺のスーツをきっちりと着込んだ年配の美しい女性がいた。
「真田さん、こちらは弁護士の笹原さんとあなたの後見人候補の斉藤樹さんです」
校長は柔和な笑顔を浮かべて、二人を紹介してくれた。紹介された二人は、立ち上がってそれぞれアヤメに挨拶をしてくれた。
アヤメはおずおずと校長のとなりに腰を下ろすと、笹原さんが話を始めた。後見人とは、要するに保護者のようなものだという。園長の死後、園にいた子供たちの行先を決めたり、養父母になってくれる人たちとの交渉などで、ばたばたしていたこと。アヤメの生活は後見人だった園長が亡くなってもすぐに何か不自由になることはなかったので、順番として後回しとなってしまったことを笹原は説明し謝った。
「それから、あなたを養子にという申し出もあったのだけれど……斉藤さんが後見人となることを早い段階で話を進めていてね。いろいろと話をした結果、あちらが手を引いたの。本当はあなた自身に決めてもらうのがいいんじゃないかって話もでてたんだけどね」
アヤメは法律のことはよくわからないけれど、他の子たちが行き場を失っていないことを聞いて安堵した。
「あの、みんなはバラバラになって不安になったりしてませんか?」
「生活する場所はバラバラになってしまったけど、修学している子供たちは学校を変わらずに済むように手配したので、今のところ不安は少ないようです。斉藤さんも、できるかぎり子供たちが落ち着くまで様子を見にいってくれてたし」
ねっと、笑顔で斉藤を見た笹原に対して、俺のできることはその程度ですとそっけない態度で出されていたお茶をすする。アヤメは戸惑いを隠せなかった。
こういうときなんといっていいか、わからないのだ。養子縁組の話なら、家族ができるということだからわかりやすいけれど、後見人というとなんだかよくわからない。保護者代理ということなのだということはわかるけれど……。
(家族にはなってくれないのかな……)
アヤメはなんとなく寂しい気持ちになっていた。それを悟ったのか、斉藤はアヤメを見て言った。
「アヤメは養子縁組の方がいいのか?」
「……いえ、特にそういうわけじゃないんですけど。突然のことで……その……どう言っていいかわからないんです」
斉藤はうんとうなずく。
「そうだな。いきなりこんな話されてもな。ただ、俺はアヤメの夢を叶える手伝いがしたいから、後見人になることにしたんだが、迷惑だったか?」
「そんなことありません!」
アヤメは自分でもびっくりするような大きな声をだしてしまって、恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。大声出して……」
「いや、いいよ」
かすかに斉藤が笑った。それを見ていた笹原が苦笑しながら言った。
「彼の仕事は順調だけど安定した収入がある職業でもないし、自分が養子という立場でもあるの。それに若いし。その点で私が養子縁組より後見人としてあなたを支える方がいいと助言したのよ。ちなみに、新進気鋭のバイオレンス作家として今は売れっ子なんだけどね」
「笹原さん、余計なことだよ。それ……」
斉藤は気恥ずかしそうに笹原を睨んだ。そんな二人のやりとりを見ながら、校長はアヤメにもう少し詳しいお話を聞きますかとたずねた。
「法律のことはよくわからないけど、つまり、斉藤さんがあたしの保護者の代わりになってくれるってことですよね」
斉藤も笹原も校長もうなずく。アヤメはそういうことなら、異存はない。
「あの、どうぞ、よろしくおねがいします」
斉藤はこちらこそと照れくさそうに笑った。
そのころ、生徒会室では三ノ宮たちが夜見に関する噂についてどうするか話し合っていた。
「それにしても、事実と虚実がいりまじりって感じだね」
三ノ宮は苦笑する。夜見が中学時代に起こした問題の数々は、ほとんどが表沙汰になっていないものの、暴力沙汰が大半である。そして、すべての確証は得られないという状態だ。なぜなら、相手が暴力団だったり、不良グループだったりで加害者側が警察をあてにできないような、そんな人種だったのである。たとえ、訴えたとしても中学生一人が立ち向かえる人数ではない。過剰防衛と判断されたとしても、現行の法律では勝算は夜見側のほうが大きい。
だから、すべてはうやむやになり、彼女にまつわる噂は噂の域をでないのである。
「問題はぁ……援助交際ってぇ噂かなぁ……」
と富永はつぶやく。
「あれを鵜呑みにして手を出そうとしたら、厄介なことになるな」
と村雨は相変わらず眉間に皺を寄せている。
「えー?でも、喧嘩が強いって噂もあるわけですし、そんなに簡単に手出しなんかするものでしょうか?」
相川は小首をかしげた。三ノ宮はくすくすと笑う。
「人間は都合のいいことにしか反応しないんだよ。一華ちゃん。僕らは彼女の狂暴性を知ってるから、援助交際云々ってのはありえないなって思うけど」
「そう思わない奴らもいるだろうな」
倉橋は深くため息をついた。現状として、夜見は目立たない地味な生徒である。どこをどう見ても暴力沙汰とは縁がなさそうな顔ですごしているのだ。そういう状況であるから、援助交際という噂のほうが広がりが早かった。教師たちの間でもこの噂は根も葉もないこととわかってはいたが、早急に収束させなければならない問題だという意見がでている。
アヤメと佐久間の一件は、柚木と生徒会で極秘裏に片づけたから教師陣は何も知らない。
倉橋が柚木のもとを訪れて、佐久間に対する処置について報告したとき、柚木からはアヤメと佐久間の間で和解が成立したことを知らされた。
「どうやら、佐久間君は自分の罪をきちんと認識したようです。真田さんは彼の行為を許さないかわりに、彼の存在を忘れることにしたそうです」
それを聞いた倉橋は、かなりほっとした。これで、日常業務に戻れると思ったのだ。だが、現実は問題のやまずみ。次から次へと夜見に関する噂が広がっていく。それは日に日に内容がエスカレートしていくのだ。
倉橋にとっては頭の痛い問題だったが、三ノ宮はすでによからぬ企みを実行しようと画策していた。
「富永先輩、全生徒に関する嗜癖データってありましたよね」
富永は三ノ宮がいわんとすることをゆるくおっとりと肯定した。
「教師陣のデータもぉあるよぉ」
三ノ宮はさすが富永先輩とにやにや笑う。倉橋と村雨は苦い顔になった。相川はどぎまぎしながら、お茶入れますっとその場を逃げる。
「やっぱりぃ、噂にはぁ噂で対抗ぅみたいな?」
「そうそう、出所不明で数が多ければ、誰も噂なんか真に受けなくなるでしょ」
「それはそうだろうが……」
村雨はいったいどんな醜聞をまき散らす気でいるのかと気が気ではない。倉橋の方は、三ノ宮の考えはだいたい読めていた。
(学園中がパニックと疑心暗鬼になるなぁ)
そして、翌日から生徒会の醜聞が生徒たちの間に流布されはじめた。その内容ときたら、無茶苦茶である。三ノ宮が会長に就任したのは、前任者の弱みをにぎっているからだとか、風紀委員会は生徒からいかがわしい雑誌などを没収しておいて、自分たちは平然とそれをコレクションしているとか、体育委員会は各部から賄賂を受け取っているとか、図書委員は貴重な蔵書を古書店に売り払っているとか……。
その噂が蔓延する暇もあたえず、教師陣の嗜癖が噂にのぼりはじめ、やがて生徒個人の入学経緯などの根も葉もない噂が飛び交うようになった。そして、その噂の中に岸崎礼子のしてきたことも、当然のように流布された。礼子は表面上、辛うじて平静を装っていたが、自分の部屋にもどると盛大に荒れた。膨大な噂の中に、事実が含まれている。どの生徒も自分についての噂に、否定できない部分を見つけてしまったのか、生徒会に噂の収束を願う投書が相次いだ。
「それにしても、三ノ宮くんは相変わらず無茶苦茶ですね」
職員会議では、誰もがそうため息をつく。噂を流すことについては、生徒会顧問の辻啓介教頭が事前に教師陣に報告しており、教師たちは噂については平然とくだらないという顔をすることができた。
警備隊の方にも、柚木を通して事前通告があり、生徒間のいざこざに適当に介入しておくよう指示があった。
◆
礼子が流した噂はあっというまに掻き消えてしまい、膨大な噂に翻弄された生徒たちはどんな噂がながれようとも、もうほとんど反応をしめさなくなった。とどめを刺すかのごとく、生徒総会が開かれ、校長からは訓戒が示された。
「生徒諸君。君たちは今回のできごとによって、噂や情報というものを鵜呑みにすることの危険性を学ぶことができました。これを機に物事は多面であり、真実は常に一つと言うことがなく、情報とは多角的に検証しなければならないことを肝に銘じてください」
こうして、全校生徒を巻き込んだ膨大な噂は、あっというまになかったことになった。
平穏を取り戻した学園の中で、礼子一人が苛立っていた。何もかもがうまくいかない。はらわたが煮えくり返る。
「なんだか岸崎さんぴりぴりしてない?」
とクラスの女生徒たちは首をかしげる。
少なくとも礼子は、いつも穏やかに微笑む人当たりの良いクラスメイトとして認識されていたのだ。それは礼子の処世術でもあったのだが、今はそれさえままならないほど感情的になっていた。そして、アヤメと何か喧嘩したらしいというふうに、周りは理解しはじめる。
いつも一緒だった二人が、噂による騒ぎがあったあたりから疎遠になっているのだ。そして、礼子のピリピリした雰囲気に近寄りがたさを感じていたクラスメイトたちは自然とアヤメの方に親しみを感じるようになり、アヤメはゆっくりとクラスに溶け込み始めた。
礼子はますます苛立ちを募らせ、クラスからも孤立していくようになった。そして、礼子は自分を隠すのを止めた。
(もう、どうでもいいわ)
礼子の心はささくれていく。もうどうでもいいという言葉だけが、礼子の中で繰り返すため息のようにぐるぐると渦巻いていた。親が捨てた命。養母が捨てた命。意味も価値も何もない自分は、最初から存在するべきじゃなかったのだとさえ、礼子は思うようになっていた。どこにいても、何をしても何も手に入れられなかった。
(何もない……)
最初から。何もないと礼子は心底自分が空っぽで、すべてがばかばかしくなった。自分をあざ笑うように口元が歪む。何のためにじたばたとあがいていたのだろうという思いと、重たい疲労感が礼子を包み込んでしまう。本当にほしかったものがなんだったのかさえ、礼子にはわからなくなっていた。
「礼子ちゃん」
不意にかけられた声はアヤメのものだった。礼子は覇気のない能面のような顔でなんかようと答えた。
「うん、話がしたいの」
「今更……何を話すって言うの?」
礼子はばかばかしいと言わんばかりの態度だ。
「あたし、言ったよね。今のままの関係は嫌だって」
「だから?返金は受け取ったわ。もう、あたしと関わる理由なんてないじゃない?」
アヤメは真剣な目であるよと言った。けれど、礼子はあたしにはないと言って、すたすたと歩きだす。その腕をアヤメは力いっぱいつかんだ。
「なによ……」
礼子はつかまれた腕を振りほどけない自分に戸惑う。
「話、ちゃんとしよう。あたし、まだ、礼子ちゃんに言いたいこといっぱいあるの」
礼子はアヤメのあまりの真剣な目に辟易した。
「いいわ。それなら、週末あたしの部屋にくればいいわ……ねぇ、腕痛いんだけど……」
アヤメはごめんなさいとあわてて礼子の腕をはなした。礼子はアヤメに背を向けて今度こそ一人歩き出す。アヤメにつかまれた腕だけが、いつまでもじくじくと痛むような気がした。




