第七章①『森の出逢い』
深淵の森でエアが出逢ったのは――。
人間離れした巨体を湛える野人のような――この世のならざる不思議な生命体。
灰色熊の二倍は凌駕する巨体。
大木のように逞しく伸びた手足。
全身はススキの羽葉を彷彿させる長毛で覆われている。
頭頂部の左右には、鹿に似た樹状の角が生えている。
大木のような爪先には、やや尖った漆黒の蹄が仄光る。
毛むくじゃらの巨顔には、目鼻口らしき器官は見当たらず、ヒトらしき言葉も発しない。
やや四足歩行で近づいて来た謎の生命体は、果たして野人か動物なのか、エアには判別がつかない。
「――」
たった今一瞬鳴いたのか、もしくは空耳であったのか、何とも形容し難い声……気配を感じた。
毛深い巨顔には他の存在を視認する眼球は見当たらないが、野人は目の前にいるエアの存在を確かに認識しているようだ。
謎の野人は、エアの小さな顔をじっくりと覗き込みながら、距離を徐々に縮めてくる。
エアにゆるゆると歩み寄る野人は、まるで彼女を動物の仲間か、それとも敵である人間、もしくは食糧なのかを、静かに見定めているようで。
エアの顔を無言で凝視したまま、野人はずいっと身を乗り出してきた。
急激に距離を縮めてきた人外の存在は、己の巨手をエアに向かって伸ばす。
まさか、自分を食べるのだろうか。
本能的な恐怖で震えるエアは、冷え切った手足を凍直させる。
覚悟を決めたらしく、痛みと衝撃に堪えるために、エアは双眸を固く閉じる。
しかし、予期していた衝撃どころか、無骨な巨手の感触すら一向に襲ってこないため、エアは瞼闇の中で訝った。
羽のような睫毛に縁取られたエアの瞼がゆっくりと開く。
瞬間、彼女の海瞳に純粋な驚きが灯った。
「これは……?」
「――」
「もしかして、私に……くれるの?」
「――」
深緑に苔むした巨手の掌には、一輪の可憐な蓮華草が咲いていた。
夜闇でも淡く輝く蓮華草の愛らしさに、恐怖と警戒心が自然と和らぐ。
エアは純粋な驚きを灯した眼差しで、野人と顔を合わせた。
苔むした野人は、ヒトの言葉を発することも、眼球すらない顔に感情を浮かべることもない。
代わりに空気を撫でるような鳴き声を零すと、蓮華草の咲いた巨手をエアの目前に差し出す。
未知なる生命体の奏でた鳴声は、やはり人間とも動物ともつかない、この世ならざる音色に満ちていた。
しかし、空気のように透明で曖昧、けれど存在を確かに感じられる鳴声を、エアは不気味だとはまったく感じなかった。
野人の巨手に咲いた雪色の蓮華草を、エアは雪を摘むような優しい手付きで受け取った。
蓮華草の花びらは雪のように清らかで、先端は少女の頬のように愛らしい薄桃がかっている。
小さくか弱くても、真っ直ぐ佇む新緑の茎の逞しさ、仄かに甘い花蜜の香り。
優しげな可憐、と清らかな美しさを咲かせている蓮華草を眺めると、孤独に凍てついていたエアの心は温まる。
蓮華の花蜜の香りが優しく広がっていくように。
孤独に凍えて涙していた自分を、まるで慰めてくれるようなぬくもりを、目の前の神秘的な存在から感じ取れた。
蓮華草を愛おしげに撫でるエアの瞳から、涙が再び零れ伝う。
「っ――ありがとう。あなたは、とても優しいのね……。このお花も、とても綺麗」
今この瞬間、エアの蒼い瞳から零れる涙は、哀しみや絶望ではなく――温かく澄んだ海水のように、優しい癒しとぬくもりに満ちていた。
蓮華草のように可憐なエアの顔に、喜びがようやく咲くと、謎の野人は、巨体を揺り籠のように左右へゆるゆると揺らす。
「……もしかして、あなたも喜んでくれているの……?」
「―~」
やはり野人はヒトの言葉を奏でることはない。
しかし、どこかご機嫌そうに巨体を小さく揺らしている動作は、まるでエアの笑顔と喜びに共鳴しているようだ。
野人の動作は、言葉にできない喜びや安堵といった温かい感情を、体全体で表現する動物そのもので、不思議と愛らしく映る。
エアの心の機微を敏感に察し、理解すらしているように見える。
神秘的な雰囲気を纏う心優しき野人に対し、エアは親愛の情を芽生えさせた。
愛らしい野花の微笑みを咲かせたエアは、白く小さな自分の手を野人へ慎重に伸ばしてみた。
すると野人は、自分に手を伸ばしている小さなエアの両脇に大木の巨手を挟ませ、そのまま軽々と持ち上げた。
まるで赤ん坊のように抱き上げられたエアは、軽く目を見開く。
儚い花を扱うような存外優しい力加減で、野人はエアを背中に乗せてくれた。
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