第三章⑦『郷愁』
牛乳香る湯浴みを済ませた後は、サラサラと肌触りの良い薄手の寝巻きに着替えさせられ、自室の寝所で大人しく眠りに就く。
そこで、エアの長く退屈な一日はようやく終わる。
黄金の刺繍を施した海色の遮光布が、さざ波のように揺れる。
真っ青な海色の天蓋付きの寝台へ、エアは身を投げ出した。
雲上に浮かぶような心地よさに、一日の疲れがわずかでも癒されていく中、エアは瞼を静かに閉じる。
しかし、今宵もひどく疲れているにも関わらず、どうも寝付けない。
瞳と同じ海色に艶めく天井を蒼然と仰ぐ。
寝所の脇にある棚上へ視線を移すと、侍女が飾ってくれたであろう花が仲睦まじく揺れている。
小ぶりの花瓶を逆さ釣りにしたような橙のサンダーソニア。
三日月が刻まれた青紫の夜空に似た杜若。
夜風で微かに揺らされ、仲睦まじく揺れる花の姿に幾ばくか心慰められる一方、村への恋しさは増していく。
寂しげに澄んだエアの蒼眼に映るのは城ではなく、遙か離れた故郷と愛しい村人達の姿。
夜の隙間風に揺れ踊る遮光布をまくったエアは、寝台から足を踏み出した。
白煉瓦造りの小窓から覗くのは、真珠色の満月。
郷愁に満ちた祈りと共に、エアは蒼然と輝く夜空を眺める。
広大無辺のアルドゥアラーは、年中灼熱の太陽満ち焼かれているため、夜も温かなそよ風がなびく。
夜の砂漠地帯と山岳地帯を除き、他国やおとぎ話でしか知らない、冬の澄み渇いた冷気と寒さとは無縁の地。
そのためアルドゥアラーの建造物全般は、基本ガラス板や格子を付けず、通気性の高い泥煉瓦で積み建てられている。
エアの自室にある四角形の小窓。
その枠内に、紺碧の夜空と真珠色の満月が耀き、壁にかけられた一枚絵さながらの美麗な風情がある。
この小窓から満月を取れそうだ、とエアは思わず手を伸ばす。
サバブの中心街は、甘い橙色の夜灯りに満ちているせいか、地上も空も比較的明るい。
故郷で幾度と仰いだ煌めく満天の星は、残念ながらザハブの夜空には浮かんでいない。
上空には、真珠色の月が孤独に浮かぶのみ。
もしも、自分が本当に鳥であれば、この城の小窓から抜け出せるのだろうか。
空を羽ばたく自由を謳歌しながら、遥か遠くの故郷へ飛んで帰れるというのに。
もはや、エアは祈らずにはいられなかった。
「(ああ、神よ――もしくは顔も知らぬ女神様……かつてのように野原を駆け、太陽の昇る青空と月の照る星空を仰ぎ、我が手で実らせた自然の恵みを口にする”自由”を)」
確かにザハブは豊かに栄え潤い、エアの暮らしていた窮乏の村とは天と地の差だ。
しかし、エアの胸を常に幸福で満たしてくれた村人の笑顔も、温かな親愛や優しさも、ここでは決して手に入らない。
たとえ、どれほどの財と贅を賭しても。
王の側室の美女達は当然、エアの身近にいる教育係から侍女、従者、兵士達も皆事務的で冷たく、所詮は王に隷属するしかない存在。
エア自身を心から気にかけ、親身になってくれる者は、この城にも街にも存在しない。
「(家族とともに笑い、語らい、助け合う”愛”と”ぬくもり”を。それらさえあれば、それ以外のものも、それ以上のものも、私は一切望みません)」
高価な材質で造られた立派な鳥籠は、美味しい食べ物や水、綺麗な布や宝飾品、教養を磨くのに必要な全てが揃う完璧な環境。
しかしこの城には、エアの希う自由も愛もない。
いくら綺麗な鳥籠で手厚く飼われたとしても、飛ぶ自由も愛を育む番との巡り会いも奪われた鳥はどうなるのか。
きっと、孤独と窮屈によって死ねるのではないか。
窒息感しかない籠の中で孤独に死ぬ鳥のように、いつか自分も死ぬのではないか。
未来への不安、故郷への恋しさのあまり、エアの瞳から涙が零れ落ちた。
「(私に与えられることは何でも捧げます。ですから、どうか、どうか――私をここから出してください――)」
囚われの鳥よりも憐れで不自由な、飛ぶことすらできないか弱き少女エア。
エアに唯一許されるのは、祈る自由のみ。
エアは、祈りに満ちた滴に濡れた両手を強く擦り合わせる。
そして、心裡は切なる無声の祈りを月へ捧げた――。
チチチッ……!
鈴の音のように慎ましく愛らしい鳴き声が、エアの鼓膜を震わせた。
涙の海に濡れた瞳を、エアはゆっくりと開いた。
まさか、自分の祈りが、本当に天へ――。
瞬間、双眸に映り込んだ存在に、エアは驚きを隠せなかった。
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