第70話 正式オープン前の1週間
厨房の扉を開けると、海路は調理台と作業台の間をゆっくり歩いた。
チカは食堂からそのまま洗い場側へ回る。
まだ料理を始めていない厨房では、冷蔵庫の低い駆動音だけが続いていた。
「じゃあ、食堂チームだけで改めて自己紹介と役割の確認をしようか。俺は朝倉歩。料理全体と食材の仕入れ、最後のメニュー決定を担当します」
俺が先に名乗ると、チカがそれに続いた。
「花森チカです。前の営業では配膳と食器の回収、洗い場、盛りつけをしていました。簡単な調理も手伝えます」
「海路快人です。仕込みと調理を希望しています。献立も必要なら一緒に考えます」
自己紹介を終えると海路は、作業台の高さを確かめ、流し台まで歩いて振り返った。
「基本は俺と海路で調理を分ける。チカには盛りつけと配膳、洗い場を見てもらいたい。ただ、忙しい時はきれいに3つへ分かれないと思う」
「食堂のお客様が重なった時は、私が注文の順番も厨房へ伝えますね。前は、料理を運んで戻る間にも次の注文が入っていましたから」
「それを先に教えてもらえると助かります」
海路の返事は早かった。
厨房へ入りたがっていただけあって、話を聞きながらもコンロなどの機器と作業台の広さを確かめている。
「海路は、宿場の食堂で働いていたんだよな。調理はどのくらいやっていた?」
「実家が料理屋なんです。子どもの頃から手伝っていて、いずれ店へ入るために、父の知り合いがいる宿場へ修業に出ました。そこで食堂の調理を任されていました」
「それなら、俺よりずっと本職だな」
「こちらの食材はまだ知りません。そこは朝倉さんに教えていただかないと」
海路はそう言いながら、加熱台のつまみへ手をかけた。
火は入れず、表示と目盛りだけを確かめている。
「ただ、不思議なんです。この調理場にある物は、ほとんど見たことがないはずなんですが……」
「使い方が分かるのか?」
「はい。全部を使いこなせるわけではないのに、これは火を入れる物、こちらは温度を保つ物だと、感覚だけ先にあります。初めて入った厨房のはずなのに、初めてではないような感じです」
「それ、分かるわ」
洗い場の横で、チカが頷いた。
「私も最初に来た時、冷蔵庫も食器を洗う機械も知らなかったの。でも仕事で触ろうとすると、最低限どこを動かせばいいのかだけは分かったのよね」
「契約の補正は、文字と会話だけじゃなかったのか」
「朝倉さんのスキルが、仕事に必要な知識を少しだけくれているみたいです。たぶん、何でもできるようになるわけではないですけど」
それは助かるし、器具の名前から教えていたら、料理を始めるまでに何日かかるか分からない。
「感覚だけで動かすのは危ないから、最初は俺も一緒に確認する。でも、器具ごとに一から説明しなくていいならかなり早いな」
海路はコンロのつまみから手を離し、今度は食堂用の業務用スマホを見た。
「メニューも、こちらで確認できますか?」
「ああ。注文が入ると厨房側にも出る。今登録してあるのは、この3品だ」
画面には、湖畔まかないセット、ワイルドボア味噌焼き丼、ワイルドボアカツカレーが並んでいる。
昼はそれぞれに汁物や小鉢を組み合わせ、3種類のランチセットとしても出していた。
海路は一通り見終えてから、もう一度画面を上へ戻した。
「随分と少ないメニューですね」
「営業を始めたばかりだからな。前回までは厨房がほぼ俺一人で、チカには盛りつけと配膳を頼んでいた。品数を増やして注文がばらけると、食堂を待たせることになる」
「仕込みも、料理ごとに増えますものね」
チカは以前の営業で使った食器の棚を開け、丼と汁椀の数を確認している。
「そういうこと。海路が入ったから増やせるとは思う。ただ、厨房の負担を見ながら少しずつにしたい」
「分かりました。まずは今ある料理を、同じ味で出せるようにします」
「その確認をしたうえで、もう一つ相談がある」
海路が業務用スマホを作業台へ置き、チカも食器棚を閉めた。
「来週の土曜から正式オープンになる。その目玉として、新しいメニューを一つ作りたい」
「それはいいですね!」
チカは弾んだ返事のあと、冷蔵庫と作業台を見比べた。
「でも、海路さんが入ったとはいえ、仕込みに時間のかかる料理はどうかしら。今ある料理を覚えながら、新しい仕込みも増えるんですよね?」
「海路の【大量調理】がどこまで使えるかは、これから確認する。ただ、新しい料理はあまり手間をかけないつもりだ。むしろ最後の調理は、お客さんにやってもらおうと思ってる」
海路は置いたばかりの業務用スマホを取り上げ、チカの手も食器棚の取っ手で止まった。
「お客様が厨房へ入るんですか?」
「いや、外で食べてもらう」
俺は前回の営業で、宿泊施設の外に広げた草地を思い出した。
屋内の休憩室が埋まり、チカの提案で安全地帯内の草地を一時休憩場所として開放した。
敷物や折りたたみ椅子を持ち込んだ探索者たちは、湖を眺めながら長い時間を過ごしていた。
「前の営業で、チカが外の草地も休憩場所にできないかって言っただろ。あれを見て思いついたんだ。安全地帯の中なら、食材と焼く場所を用意して、最後は自分たちで調理してもらえる」
「なるほど。厨房では食材を切り分けて、下ごしらえまで済ませるんですね」
海路は外の草地を思い浮かべるように、食堂側の扉へ目を向けた。
「その名も、湖畔バーベキュー」
すぐ二人の声が重なった。
「湖畔バーベキュー?」
◇
翌日から、研修時間は9時から17時までにそろえた。
日曜は俺と小坂も朝から入り、受付ではスタッフが利用者役と案内役に分かれ、厨房では既存メニューを同じ時間に出せるか試した。
月曜から金曜まで、俺と小坂は会社へ出なければならない。
平日日中の研修は各班で進めてもらい、出社前にその日の内容を確認し、終業後に木場で結果を聞いた。
宿泊施設は主工場内で維持し、展開し直す日は全員を17時で勤務終了にしてから、俺が仕事帰りに入れ直した。
受付班は、食事だけの利用者と宿泊客が同時に来た想定で何度も役を入れ替えた。
清掃班は使っていない客室を研修用に開け、清掃完了をアプリへ反映して、受付側の表示が切り替わるところまで確認した。
足りない物が見つかると、各班からアプリの補充依頼へ上がってくる。
小坂は終業後に内容を確認し、木場へ来る途中で必要な物を買い足した。
厨房では、既存メニューの仕込みと並行して湖畔バーベキューの試作を続けた。
肉と野菜を厨房でどこまで整えておくか、利用者へ何を説明するか、使い終えた器具をどう回収するか。試作のたびに条件を変えた。
海路は調理する側から手順を詰め、チカは食堂と外を往復する時間を確かめた。
俺が会社から木場へ着く頃には、試した食材が作業台に残され、二人から火の通り方や準備にかかった時間が報告された。
海路に【大量調理】を使ってもらったのは、試作を始めて3日目だった。
スキルを使い終えたあと、俺は作業台の前でしばらく黙った。
「……それ、もう一度やってもらっていいか?」
「構いませんが、今のレベルでは大した量になりませんよ?」
「俺には十分大したことに見えた」
チカが声を立てずに笑い、海路は次の食材を作業台へ運んだ。
詳しい条件は、食材と工程を変えながら改めて確かめることにした。
研修は毎日、17時で終えた。
片づけまで終わると、業務用スマホの各担当欄を閉じた。翌朝は、小坂が別の模擬注文と客室利用を登録してから出社した。
金曜には、受付から送った模擬注文どおりに料理が食堂へ届き、利用済みの客室も清掃完了を確認してから次の受付へ戻せるようになった。
◇
6月30日、金曜日。
東京ダンジョンマテリアルでの最後の出社日も、終業時刻を迎えた。
引き継ぎ用の資料を共有フォルダへ戻し、会社のノートパソコンを閉じる。
明日は早朝から東京湾岸ダンジョンへ向かい、湖畔休憩地を正式に開ける予定だ。
机の私物を鞄へ入れていると、スマホの着信画面が点灯した。
画面には、ダンジョン庁ダンジョン管理課の日下部統真と表示されている。
「はい、朝倉です」
『ダンジョン管理課の日下部です。朝倉さん、今から少しよろしいでしょうか』
「大丈夫です。何かありましたか?」
『湖畔休憩地について、直接確認していただきたいことがあります。本日、庁舎まで来ていただけますか』
電話の向こうから、庁舎内を行き交う足音が聞こえた。
俺は鞄のファスナーを閉じた。
「分かりました。これから向かいます」
通話が切れ、スマホの画面が暗くなる。
「……オープン前日に、これか」
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