第九章 兵站という新概念
王都からの使者は、五十代の、老兵だった。
白髪交じりの、整った口髭。
左目に、深い、古い、剣傷。
彼は、店の入り口で、姿勢を、正した。
「儂は、王国軍参謀本部所属、セバス・グレンヴェルと申す」
「いらっしゃいませ」
「鳴海どの。早速だが、王命にて、お力添えを、賜りたい」
俺は、彼を、ホールの席に、案内した。
お通しに、漬物。
水も、出した。
セバスは、座るなり、地図を、テーブルに広げた。
羊皮紙の、手書きの地図。
右上に、王都。
左下に、敵領。
その間の、いくつもの、駐屯地と、街道が、線で、結ばれていた。
「鳴海どの。今、我が王国軍は、敵に押されておる」
「はい」
「兵が、足りぬわけではない。武器も、まだ、ある。だが、勝てぬ」
「なぜですか」
「兵が、飢え、装備が、届かぬのだ」
俺は、地図を、覗き込んだ。
「補給ですか」
「ホキュウ……?」
「物資の、補充のことです」
セバスは、両目を、見開いた。
「物資の、補充。そう、まさに、それだ」
彼は、地図の上で、王都から、前線までの線を、指でなぞった。
「ここから、ここまで、十日、かかる。荷馬車が、敵の襲撃に、ことごとく、遭う。途中で、食料が、腐る。前線に届く頃には、半分も、残らぬ」
「ふむ」
「鳴海どの。我らの、戦の、半分は、敵兵ではなく――この、十日間との、戦に、ござる」
俺は、地図を、じっと、見た。
頭の中で、いつものホールの動線の、計算が、はじまった。
ピーク中、注文が、十件たまっていて、お客様の卓は、二十卓、ある。
料理の提供時間は、平均で、六分。
ファーストドリンクは、三分以内。
……これは、それと、同じだ。
ただ、規模が、桁違いに、大きい、だけ。
「セバスさん」
「は」
「途中の駐屯地に、中継拠点を、作りましょう」
「中継、拠点、と、申されますか」
「ええ、まず、王都から、五日先の、ここ」
俺は、地図の真ん中の、丘の街を、指さした。
「ここに、保冷倉庫を、用意してください。氷魔法でも、地下倉でも、いいです。三日分の食料を、常に、ここに、ストックする」
「ふむ」
「次に、その先の、二日先の、ここ。同じく、保冷倉庫」
俺は、ずれた指で、もう一つの街を、指した。
「そして、前線に、もう一つ。前線の倉庫は、一日分しか、ストックしない」
「なぜ、前線は、一日分、のみ、なのでござるか」
「敵に、奪われた時の、被害を、最小にするためです」
セバスの口が、わずかに、開いた。
「鳴海どの。それは、まさに、敵の襲撃を、織り込んでの、配分にござるか」
「ええ、敵は、必ず、襲ってきます。だから、一箇所に、まとめて置かない。三カ所に、分けて、それぞれの中で、回転させる」
「カイテン……」
「先に入れた物資から、先に、出していく。あ、これ、先入れ先出し、と、言います」
俺は、業務日報を、エプロンから、取り出した。
ぱらぱらと、めくって、過去の在庫管理の、ページを、開いた。
「ほら、こんな感じで、日付ごとに、在庫を、管理します。古いものから、先に出す。期限切れは、出ない」
セバスは、その、手書きの表を、両手で、押し戴いた。
「鳴海どの。これは……」
彼の声が、震えた。
「これは、まさに、我が国の、参謀本部が、十年、議論しても、結論の、出なかった、補給線、運営の、根本、答えにござる……」
「いえ、居酒屋の、在庫管理、ですよ」
俺は、笑った。
「ピーク中の、ホールと、同じです。注文の数と、客の出入りと、料理の提供時間を、計算して、効率よく、捌くだけです」
セバスは、その手書きのノートに、頭を、押し付けるように、深く深く、お辞儀した。
セバスは、地図を、見つめていた。
彼の左目の、古い剣傷が、灯火の影で、深く、見えた。
彼は、長く、戦場で生きてきた、人だった。
「鳴海どの。儂が、若い頃、初めて参謀本部に、配属された時、上官に、言われたことが、ある」
「はい」
「『戦は、矢を射る者と、矢を運ぶ者の、二つで、できておる』と」
「ええ」
「だが、王国は、長らく、矢を射る者にだけ、勲章を、与えてきた。矢を運ぶ者は、いつも、影、にあった」
彼の手の中で、ノートの紙が、わずかに、しわになった。
「あなたが、見せてくださった、この、表は――まさに、矢を運ぶ者の、誇り、を、初めて、形にした、書、にござる」
「いえ、業務日報、です」
「業務、日報……」
セバスは、その言葉を、噛みしめるように、口にした。
「業務、日報――日々の、業の、報、にござるか」
「ええ、そうです」
「我が国の、参謀本部にも、これを、置きとうござる」
「どうぞどうぞ」
俺は、別段、特別な気持ちもなく、うなずいた。
「鳴海どの。我らの、十万の、兵の命が、救われる」
「あ、いえ、まだ、計画段階ですから」
「いや、これだけ、明確な、骨子を、頂戴したならば、儂の参謀本部の、若い者たちが、すぐに、実装に、入る」
セバスは、地図と、ノートを、両手で、抱えた。
彼の頬は、興奮で、赤く、染まっていた。
その夜、店の外で、王国軍の伝令が、何度も、駆け抜けていった。
参謀本部から、駐屯地へ。
駐屯地から、保冷倉庫の建設地へ。
夜通し、命令が、走った。
俺は、厨房で、いつもの、賄い飯を、炊いていた。
米を、研ぎ、味噌を、溶き、串を、打つ。
手は、いつもの、動きを、している。
でも、頭の中では――
日本の、深夜のチェーン居酒屋の、ホールの感覚で――
夜が、深まった。
厨房の小窓から、月明かりが、わずかに、差し込んでいた。
俺は、ふと、手を、止めた。
まな板の上に、半分、刻んだネギが、残っている。
日本の、見慣れた、深谷ねぎ、ではない。
もっと、白くて、太い、ここの、ネギだ。
でも、刻む音は、同じだった。
包丁の刃が、まな板を、叩く、トン、トン、という、規則的な、音。
その音が、なぜか、今夜は、安心する音、に、聞こえた。
俺は、ふと、自分の手元の、業務日報を、見た。
今日の日付の、所感欄に、ひとこと、書き足した。
「セバスさん、来店。地図持参」
……いつもどおりだ。
誰が、客で来ようと、ノートの形式は、変わらない。
俺は、ノートを、閉じて、エプロンの内ポケットに、戻した。
厨房の蛍光灯が、ジジ、と、一度、瞬いた。
古い建物だ。
いや――もう、古い建物ですら、なかった。
この異世界の、森の真ん中で、なぜか、店だけが、独立して、生きている。
セバスが、ふと、こちらを、振り返った。
「鳴海どの。最後に、もう一つ、伺いたい」
「はい」
「あなたの、その、ノート――内容、写本に、させていただいてよろしいか」
「ええ、どうぞ。ただ、汚いですよ、字」
「いや」
セバスは、静かに、首を、振った。
「字の、上手下手では、ない。書かれている、内容、にござる。あなたの、八年分の業の記録――王国の、宝、にいたしたい」
「宝、ってほどじゃ、ないですけど」
「鳴海どの。あなたは、ご自分の価値を、半分も、ご存じない」
セバスは、ノートを、両手で、しかと、抱えた。
彼の左目の、剣傷の縦線が、誇らしげに、灯火に、揺れていた。
俺は、ふと、考えた。
この店は、いつから、こんなに、生きていただろう。
今、敵国の前線まで、続く、補給路を、再設計、していた。




