第十章 ノートの正体
俺の業務日報のことが、王都に届いた。
翌週、店の前に、教会の使者と名乗る、一人の老人が、立った。
黒い長衣に、銀の刺繍。
胸元に、見覚えのある、二本の翼と、剣と、ひとさし指の紋章。
ただし、その上に、太陽の輪が、加わっていた。
国教会の、上位聖職者の証だった。
「鳴海どの。歴史学の、ローガス・ハーディ司教にござる」
白い長い眉の下で、彼の灰色の瞳が、しっかりと、俺を、捉えていた。
「セバス参謀から、貴公の、業務日報、の、写本を、見せていただいた」
「あ、いや、汚いですよね、字」
「字、は、関係ない。書かれた、その、書式の、ことだ」
司教は、店内に入り、テーブルの前で、震える手で、自分の革鞄を、開けた。
中から、古ぼけた、革表紙の、分厚い、本を、取り出した。
表紙の革は、ところどころ、剥がれていた。
黒く、変色した、銀の留め金。
古文書、というのが、ひと目で、わかる、佇まいだった。
司教は、その本を、テーブルに、丁寧に、置いた。
「鳴海どの。これを、ご覧いただきたい」
俺は、革表紙を、めくった。
ぱりっ、と、紙の擦れる音がした。
中には、手書きの、文字が、びっしりと、書かれていた。
最初のページに、表のような、ものが、あった。
日付。
提供品目。
残量。
所感。
……俺の業務日報と、まったく同じ、書式だった。
いや。
ただ同じ、というレベルじゃ、なかった。
罫線の位置。
欄外の丸印のつけかた。
数字の、揃え方。
俺が、自分流に編み出した、無数の、こまかい、工夫が、すべて、この古文書に、入っていた。
「……これは……」
「鳴海どの。この書を、我らは、《調停の御使いの書》と、呼んでござる」
「調停の、御使い」
「古代の救世主の、お記しになったとされる、伝説の、書、にござる」
「いや、これ、俺のじゃないですよね」
「もちろん、貴公の、ものでは、ござらぬ。三百年前のものにござる」
司教の声は、低く、震えていた。
「だが、書式が、貴公の、ノートと、寸分、違わぬ」
俺は、自分の業務日報を、エプロンから、取り出して、その横に、並べた。
ふたつの、罫線が、ぴったり、重なった。
数字の、揃え方も、同じ。
所感欄の丸印の位置も、同じ。
……偶然じゃ、ない。
司教の手が、組み合わさり、白い指が、震えていた。
「この、《調停の御使い》、の、お名前を――この書には、記されており申す」
彼は、最後のページを、めくった。
そこには、ひとことだけ、銀のインクで、こう書かれていた。
《デシャップ・ロレンス》
「デシャップ……」
俺は、口の中で、その音を、転がした。
その瞬間――
俺の頭の中で、八年分の、現場の記憶が、一気に、巻き戻った。
居酒屋のホールと、キッチンの境界線。
料理の最終検品をして、テーブルの空き具合を見て、調理の優先順位を、指揮する、店舗の司令塔の、ポジション。
その役割の、業界用語の、呼び名が――
……「デシャップ」。
俺が、八年間、立ってきた、現場の、ポジションの、名前。
「あ、いや、デシャップって、別に、特別な意味じゃ、なくて」
俺は、思わず、口を、開いた。
「居酒屋の、業界用語、なんですよ。キッチンとホールの境目で、料理の検品して、提供順を、指揮する、ポジションのこと」
司教の、口が、震えた。
「整え、配し、捌く者……」
「あ、まあ、そうです、まさに、整えて、配って、捌くポジションです」
司教は、両手で、自分の口を、覆った。
白い眉が、震えた。
「鳴海どの。古代語で、《デシャップ・ロレンス》、とは――『整え、配し、捌く者』を、意味、しており申す」
「あ、ほんとに、そのまんまの意味なんですね」
「……それを、まさに、生業と、なされている、貴公こそが――」
司教の声が、ぐっと、低くなった。
彼の瞳に、固い、固い、確信の、灯が、点った。
「貴公こそが、預言の、《調停の御使い》、にござる」
「いえ、ただの居酒屋の、バイトです」
俺は、いつも通り、答えた。
俺は、しばらく、ふたつのノートを、見比べていた。
罫線の、太さ。
欄外の、小さな丸の、つけかた。
数字を、書く時の、わずかな、字の傾き。
俺が、自分流に、編み出してきた、と、思っていた、無数の、こまかな、工夫が――
すべて、三百年前の、誰かの、書き方と、一致していた。
……これは、もう。
学習で、再発明されたとか、たまたまとか、で、説明できる、レベルでは、ない。
誰かが、誰かに、伝わった、形跡。
それも、書物では、なく――
業の、形、として。
俺は、自分の手の中の、ノートを、見つめた。
古ぼけたA5の、量産品の、業務日報ノート。
……これ、誰の、書式、なんだろう。
考えてみれば、これは、最初は、俺が、自分で、考えて、書いた、形だった。
いや、本当に、自分で、考えただろうか。
……ある夏、入社三年目の、夜だった。
深夜、おじいちゃんの板さんが、俺のノートを、横から、覗き込んできた。
「蓮、ちょっと、罫線、こうしてみな」
彼が、シャープペンで、俺のノートに、引いてくれた、横線。
その、横線の、太さと、位置。
……今、俺の業務日報の、罫線と、同じだ。
あのおじいちゃんの板さんは、どこで、その書き方を、覚えたんだろう。
彼は、戦争を経験した、世代だった。
彼の師匠の、そのまた、師匠の……何代も、前の、誰かが――
もしかしたら、三百年前に、この、異世界の、誰かと、つながっていたのかも、しれない。
……ばかげた、想像だ。
でも、目の前の、ふたつの、ノートが、否定しがたい、形で、同じ書式を、見せていた。
でも、自分の手の中の、業務日報と、古文書とを、見比べると――
八年間、毎晩、ひとりで、書いてきた、ノートの、罫線の、ひとつ、ひとつが――
三百年前の、誰かの、罫線と、まっすぐ、重なっていた。
……偶然、で、説明できる範囲を、明らかに、超えていた。
俺は、店の壁際で、リリアナさんが、自分の口元を、両手で、覆っているのに、気づいた。
彼女の青い瞳から、ぽろり、と、ひとしずく、こぼれた。
「……やっぱり、ナルミ様は……ナルミ様、で、おられたのですね……」
彼女の声は、震えていた。
誇らしげに、震えていた。
司教は、震える指で、革表紙の内側の空白の部分を、指さした。
「鳴海どの。この、最後の、空白の頁、を、ご覧いただきたい」
俺は、その頁を、めくった。
たしかに、何も、書かれていない、白い、ページが、広がっていた。
「《調停の御使い》、は、この頁を、空けて、お去りに、なられた」
「空けて」
「『次の御使いが、現れし時、彼の業の、続きを、ここに、記すべし』――そう、最後の、頁に、書き残されておりました」
俺は、その白いページを、見つめた。
三百年、誰も、書き入れることが、できなかった、ページ。
「……俺が、書くんですか」
「もし、貴公さえ、よろしければ」
「字、汚いですよ」
「字、は、関係、ござらぬ」
俺は、しばらく、その白いページを、見ていた。
ここに、何を、書けば、いいのか。
深く、深く、考える前に――
俺の手は、ペンを、持っていた。
空白のページの、いちばん上に、こう、書いた。
「日付。本日。所感――味噌汁を、五十人に、配膳」
いつもの、業務日報の、書き方、だった。
でも、それを、書き終えた瞬間――
古文書の頁が、淡く淡く、銀色に、光った。
司教が、息を、呑んだ。
リリアナさんも、テーブルに手を伸ばしかけて、その光に、目を、細めた。
俺は、特別な感慨も、なく、ペンを、置いた。
……いつもどおり、書いただけだ。
でも、店の空気が、なぜか、その瞬間から、明らかに、別のものに、変わっていた。




