第二章 異世界の朝
俺は、目を、ゆっくりと開けた。
……木漏れ日が、まぶたを刺している。
寝起きの瞳に、青い空。
頭上には、見たことのない巨木の枝が広がっていた。
幹に、淡く青い苔のようなものが浮いている。
光ってる?
苔が、燐光を放っている。
俺は、寝ぼけたまま、上体を起こした。
頬に、湿った苔の感触。
草いきれ。
知らない花の匂いが、わずかに鼻先をかすめた。
甘くて、青い。
……日本の、夏の朝の匂いじゃない。
遠くで、鳥のような、けれど鳥ではない声が、長く尾を引いて鳴いた。
知っている鳥の鳴き声と、ぜんぜん違った。
……ここは、どこだ。
厨房のタイルの代わりに、苔むした地面。
頭上の蛍光灯の代わりに、葉の隙間から差し込む朝日。
ひしゃくは、まだ、俺の右手にあった。
油の匂いも、しっかり残っていた。
でも、俺の背後には、見覚えのある建物が、ぽつんと、森のなかに立っていた。
居酒屋『炉端炎』の、店舗そのものだった。
四階建ての雑居ビルの一階の店舗が、なぜか単独の建物として、森の中央に着地していた。
看板の文字も、入り口の暖簾も、すべて、いつもの通り。
……夢か。
俺は頬を、強くつねった。
痛い。
起きている。
通用口のドアが、内側からバタンと開いた。
現れたのは、寝間着姿の藤堂さんだった。
顔色が白い。
というより、青い。
「お、お、おい鳴海ぃっ、これ、これ、何だよぉっ……」
藤堂さんは、駆け寄ってきた。
俺の胸ぐらを掴んで、ガクガクと揺さぶってきた。
「お前だろ! お前が何かしたんだろ! 元に戻せ!」
「いや、俺は、清掃してただけで……」
「とぼけんじゃねえぞ! 俺の財布も俺の車もここにねえんだよ!」
……どうやら、彼の中では、すでに俺が犯人ということになっているらしい。
俺は、ひしゃくを地面に置き、藤堂さんの手を、そっと外した。
力ずくではなく、関節の動きをずらすだけ。八年間、酔っ払いを何度もいなしてきた経験で、自然に身についた動きだった。
藤堂さんは、自分でバランスを崩して、地面に尻もちをついた。
「……っ、なんだお前っ……」
「とりあえず、店の中、見ます」
俺は通用口から店内に入った。
厨房は、無傷だった。
冷蔵庫もちゃんと動いている。
蛇口をひねると、水が出る。
ガスコンロも、つく。
……ありえない。
ここに電気を運ぶ電線も、ガス管も、水道管も、なにもない、はずだ。
でも、動いている。
俺は、業務用の大型冷蔵庫の扉を開けた。
昨夜の在庫がそのままある。
いや。
あるはずのない、新鮮な肉と、野菜と、米と、ビール樽が、なぜか追加されていた。
補充されている。
誰も、補充していないのに。
俺は冷蔵庫を閉めた。
扉の内側に貼ってある「在庫一覧」のメモ用紙が、昨日の俺の字のままだった。
ねぎま二十本、つくね十五本、合計二十一品目――それが、昨夜の閉店時の在庫だ。
今、扉を開けると、その三倍以上の量が、整然と詰められている。
しかも、ちょうど、入りきる量。
冷蔵庫の容量を、誰かが正確に把握して、ぎっしりと埋めた、みたいな入り方だった。
業務用冷蔵庫の中で、霜が、白く吐息のように立ち上っていた。
俺は、何度か、まばたきをした。
……現実だ。
うん、現実だ。
ストレスで幻覚見てるって可能性も、もちろん、ある。
でも、もう、それを区別する意味は、ない気がした。
「鳴海、今すぐ説明しろ」
藤堂さんが、後ろから、声を張り上げた。
「俺が今、どれだけストレスを感じてるか分かるか? 社長に会う予定だったんだぞ俺は」
俺は、深呼吸をした。
胸の奥が、まだ早鐘を打っている。
でも、騒いでも、何も変わらない。
……まず、状況を、把握する。
頭の中で、ホールの動きを見るときの感覚を呼び起こす。
誰が、どこに、何のためにいるのか。何が動いていて、何が止まっているのか。
今、目の前で動いているのは――
冷蔵庫。蛇口。コンロ。換気扇。
止まっているのは――
俺の常識。
藤堂さんの理性。
日本の、深夜一時のはずだった時間。
……ふう。
俺は息を吐いた。
動いているものを使って、止まっているものを、なんとかするしかない。
現場では、いつもそうだ。
「藤堂さん」
俺は、振り返らずに、淡々と言った。
「分かりません。本当に分かりません。ただ、店は動いてます。今は、それでよくないですか」
「お、お前っ、俺に意見すんのかっ」
彼は、口の端を歪めた。
でも、それ以上、近づいてはこなかった。
扉の外で、何かが、ずるり、と地面を這う音がした。
俺たちは、息を呑んだ。
通用口から、おそるおそる外に出る。
店舗の正面――入口の暖簾の前に、何かが、倒れていた。
最初、俺は、それを、大きな金属の塊だと思った。
でも、よく見ると、人だった。
全身を覆う鎧。
胸当てに、紋章。
鎧の隙間から、血が、ゆっくりと、苔の上に広がっていた。
長い銀色の髪が、頭の横で、地面に這っていた。
女性、だった。
高校生か、中学生くらいに見えた。
「お、おいおいおい、なんだよこれ、なんで死体が……っ」
藤堂さんが、半歩、後ずさった。
俺は、近寄った。
鎧の胸が、わずかに、上下している。
息は、ある。
まだ生きている。
「藤堂さん、店の中、第二テーブル空けてください」
「は? ……何言って、」
「いいから、空けてください。今すぐ」
俺は、その鎧の少女を、抱き上げた。
思った以上に軽かった。
鎧の重さがあるはずなのに、彼女自身の身体は、痩せ細っていた。
長く戦ってきたんだろう、と、なぜか、すぐにわかった。
彼女の鎧の継ぎ目が、深くえぐれていた。
刃でやられたんじゃない。
もっと、何か、噛みつかれたような、抉られたような形をしていた。
胸当ての紋章は、見たことのない図案だった。
二本の翼に、剣と――そして、なぜか、ひとさし指。
ひとさし指?
なんで、紋章に指が描かれているんだろう。
俺はそれを、店の蛍光灯のもとで見て、ほんの一瞬、息を止めた。
その指は、まるで、誰かを、招いているように、まっすぐに立っていた。
俺は彼女の額に、軽く手を当てた。
冷たい。
冷たすぎる。
ぬるい蒸しタオルが、まず、必要だった。
俺は、店の通用口へ、ゆっくりと足を運んだ。
彼女の長い銀の髪が、俺の腕から、夜露のように、こぼれ落ちていく。
暖簾を、肩でかきわけて、店内へ入る。
その瞬間、少女の唇が、わずかに動いた。
俺の耳に、消えそうな声で、彼女は、ささやいた。
暖簾の布が、彼女の銀の髪を、ふわりと撫でた。
居酒屋『炉端炎』と、藍色の布に染められた、見慣れた屋号。
俺の隣で、彼女の睫毛が、ほんの少し、動いた。
まだ、意識はある。
外気の冷たさから、店の中の温もりへ。
その温度の差で、彼女の身体が、ピクリと震えた。
俺は、彼女を、四人がけのテーブル席に、横たえた。
肩当ての金具が、テーブルにかすかな音を立てた。
藤堂さんは、ドアの脇で、両手で頭を抱えて、しゃがみ込んでいた。
俺は、彼を、もう、見ていなかった。
厨房に走り、保冷バッグから氷を取り出し、清潔なタオルにくるんだ。
止血が先だ。
脇腹の出血を、まず、押さえる。
次に、塩。
うちの店には、岩塩がある。
粗塩より、こっちの方が無菌に近い。
調味料の塩を、消毒に使う日が来るとは思わなかった。
「……たすけて……」




