第十九章 上司との決着
最終決戦の朝、王国軍、五万、と冒険者ギルド、三千、と料理人ギルド、五千が、敵領最深部に進軍した。
俺は本部ではなく、最前線の補給拠点に立った。
ガイウス氏。マルキューズ団長――まだ包帯だらけだったが、片手に剣を握っていた。十日の間、宮廷の治癒術で、ようやく動けるところまで戻していた。ザムザ・ギルドマスター。セバス参謀。アリエル王女。全員、俺の隣にいた。
リリアナさんは、まだ回復、途上だった。
でも、彼女も馬車で、後方に控えていた。
「皆、申し送ります」
俺は業務日報を開いた。
「敵将ガズドラまで、最短ルートで半日。本隊が敵兵を引きつけている間に――敵将の首級を取りに行きます」
「鳴海どの、貴公自ら、ご出陣なされるか」
「ええ」
「危険にござります」
「藤堂さんが、ガズドラの横についてます。あいつを放っておくと、リリアナさんの呪いは、完全には解けない」
マルキューズ団長が、剣の柄に手を添えた。
「私も参る」
「ありがとうございます」
ザムザが肩を回した。
「俺も行くぞ。お前さんの現場の感覚を、信じる」
セバスが両手で自分の白髪を撫でつけた。
「儂もご一緒、いたしまする」
ガイウス氏も、白い口髭を震わせた。
「私は後方の料理人をまとめます。鳴海どののお留守を、お守りする」
「お願いします」
俺はノートをエプロンの内ポケットにしまった。
例の出刃包丁を、布で巻いて、腰に下げた。
あとは、いつものおじいちゃんから受け継いだ業務日報の字と、ひしゃくの柄。
ぜんぶ、八年分の現場の装備だった。
昼過ぎ、俺たちは敵の本陣の近くにたどり着いた。
敵将ガズドラの本陣は、廃神殿の入り口の前に張られていた。
その横で――藤堂さんが黒い焰を両手に灯して立っていた。
でも彼は、もう、藤堂さんの姿ではなかった。
肌は灰色。目は白く濁っていた。口元から黒い煙が立ち上っていた。
闇神の眷属に、ほぼ完全に乗っ取られていた。
「鳴海ぃ……、お前ぇ……、まだ生きてやがったか……」
「藤堂さん」
俺はいつもの声で答えた。
「お前みたいな底辺がぁ……、俺の上に立つことなど、絶対にぃ……」
「藤堂さん。あなたが決定的に勘違いしてること、ひとつ、いいですか」
「あぁ?」
「俺、あなたの上に立ったことなんて、一度もないですよ」
「は……?」
「俺はずっと現場に立ってます。あなたはずっと現場の外に立ってます」
俺はゆっくり続けた。
「上、とか、下じゃないんです。中と外なんです」
藤堂さんの白い目が、ぐにゃりと歪んだ。
「中と外……」
「現場の中の人と、現場の外の人。俺はずっと中の人でいたいだけです。あなたは外でいたいんです。それだけです」
彼は口を開いた。でも、言葉が出なかった。
黒い焰が両手の中でぐらぐらと揺れた。
「だから、お前を消すんだよぉっ」
彼は黒い焰を、俺に向かって振り下ろした。
その瞬間――俺の両脇、左右、上方、後方、すべての方向から、剣戟が降り注いだ。
マルキューズ団長の聖剣。ザムザの双剣。聖騎士団、五十名の長剣。冒険者ギルド、選抜、二十名の各武器。
藤堂さんの黒い焰が、すべての剣戟に押し潰された。
彼は悲鳴を上げる暇すらなかった。
ぐしゃり、と黒い焰が潰れた。
彼の体はボロ布のように、地面に崩れ落ちた。
俺はただ両手で業務日報を抱えて、立っていた。
俺自身は一度も剣を振っていなかった。
俺の味方が――俺の代わりに振ってくれた。
マルキューズ団長が、息を切らせて俺の隣に寄った。
「鳴海どの、無事か」
「無事です」
「あの者の闇焔は、もう消えた」
団長の言葉に、俺は頷いた。
「ありがとうございます」
俺は藤堂さんの、地面に伏した体を見下ろした。彼はもう動かなかった。
灰色の肌が、ゆっくりと人間の肌色に戻りつつあった。
……闇神の眷属の力が、抜けつつあった。
彼の白い目がわずかにこちらを見た。
その目の中に――ほんのわずかに、人間の藤堂さんの目が戻っていた。
彼は唇を動かした。声にはならなかった。
でも、たぶん、こう言った。
「……お前みたいな底辺が……」
俺はただ、いつものお辞儀をした。
「お疲れさまでした」
彼はもう、目を閉じた。
まわりの闇兵たちが、いっせいに霧散していった。
俺はしばらく、藤堂さんの体の横に立ち尽くしていた。
彼の人生の最後の自尊の形を聞いていた。
現場の外で、自分を保ってきた人。現場の誰かを見下すことでしか、自分の立ち位置を確認できなかった人。
……日本にいた頃から、ずっと、彼は不器用だった。
俺は彼の黒い指輪を見た。左の薬指に結婚指輪がついていた。
日本に奥さんがいたはずだ。別居中、と彼はよくこぼしていた。
……彼にも戻る場所があったはずだった。
俺は自分の業務日報の所感欄に、ペンでひとこと書いた。
「藤堂、退場」
いつもの業務日報の書き方だった。
でも、書き終えた瞬間、ぽたりとペンの先から墨が紙の上に落ちた。
俺はその染みを拭わずに、ノートを閉じた。
マルキューズ団長が低く囁いた。
「鳴海どの。あなたは最後まで、彼に剣を向けなかった」
「ええ」
「我らが振った。それでよいのか」
「ええ。職人は自分の道具で、自分の仕事をするだけです。彼の退場は、別の道具で、別の人たちがやるべきものでした」
団長はしばらく無言で、俺を見ていた。
やがて深く頭を垂れた。
「貴公の生き方を見られたことを、私の生涯の誇りといたしまする」
「いえ、こちらこそ」
俺は団長の手を握った。
戦場の土と汗と血のついた手だった。
でも、彼の手の握る力は強かった。
俺はその握り返しをしっかり受けて、立ち上がった。
まだ、これで終わりではなかった。廃神殿の奥に、本物の敵がいる。
その時、廃神殿の入り口の扉が、ぎし、と軋んで開いた。
漆黒の霧が、扉の隙間からゆらりとほとばしった。
神殿の奥に、深い闇が息をひそめていた。
ザムザが口を開けた。
「お、おい、出てくるぞ……」
マルキューズ団長が剣を構えた。セバスが参謀の杖を握り直した。
アリエル王女が後方の馬車のリリアナさんを振り返った。
俺は自分のエプロンの内ポケットに手を当てた。
ノートと、ひしゃくの柄。それだけが、武器だった。
廃神殿の闇の中から――巨大な影が立ち上がった。
千年の闇神の本体、ヴァルガ。
目がふたつ、青白く灯った。
その目がまっすぐに、俺を見た。
その口が低く唸った。
「……来たな、調停の御使い、よ」
声が地面を揺らした。全員が息を呑んだ。
俺はいつも通り、いらっしゃいませ、と挨拶しそうになって、自分の口を噛んだ。
ザムザが俺の隣に立ち、低く声を漏らした。
「鳴海。お前、一度も剣を振らずに、上司を片付けたな」
「ええ、職人なので」
「職人な」
「自分の道具で、自分の仕事をするだけです。剣は職人の道具じゃないですから」
ザムザは、ぶは、と短く笑い、それから真顔になった。
「お前、たまにこえぇこと、しれっと言うよな」
「えっ、そうですか」
「うん。覚えとくわ」
俺は意味がわからず、首をかしげた。
ザムザは肩を一度大きく回し、剣を背中に戻した。




