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外伝1 廃妃の呪いと死の婚姻 外套の内より出で来て

いつもお読みいただきありがとうございます。

今回は外伝をお届けいたします。

誤字脱字等ございましたらご指摘いただけますと幸いです。

外伝1 廃妃の呪いと死の婚姻 外套の内より出で来て


泣きわめく声が唐突に途切れた。静寂が訪れ、ようやく安息を得ることができたのだと気づいたのはしばし後のことだった。首元まできっちりと着込むことを強いられた、分厚い外套を脱ぎ捨てたような爽快感を覚えた。

そこでハタと我に返った。何故という疑問が浮かんだが、首をめぐらせて合点がいった。足元に転がっているのは彼女が生涯見つめ続けた己の頭部に相違なかった。黒い水溜りの中で目を見開く瞳はドロリと濁り、だらしなく開いた口の端は黒々としている。ちらりと視線を移せば、彼女のものであった幾つもの部品が水溜りの中に浸かっていた。

長く蝕み拘束してきた軛から解き放たれたのだ。自然と彼女の唇から息が漏れた。吹き出すなんてはしたない行為は未だかつて許されたことはなかったが、それ以外に彼女の感情を表す十分な方途が見当たらなかったのだから仕方がない。

バラバラに千切れた身体がドロリと溶け去って初めて自由を得たという事実が、悲劇的だった。実に滑稽だ。片頬で皮肉気に笑みながら、息を吸おうとしてああもう呼吸すら不要なのだと気づいた。


不意に、間近で誰かの悲鳴が響いた。走り寄る足音に振り返ると、その主はバシャリと不愉快な水音を立てながら膝をつき、慟哭した。今や半分も残っていない頭部を震える手で拾い上げると、二度三度と言葉にならない声を漏らした。

「ジェネヴィエーヴ」

途切れ途切れの嗚咽の中でそれだけがはっきりと耳に届いた。

 大国の執政であり、侯爵でもあるその人は、唯の父親として絶叫していた。娘であった残骸を掻き抱いた彼は嗚咽を零しながら血を吐くような声で叫んだ。

他の誰でもない娘を悼む悲痛な叫びに、彼女は恍惚とした。

――なんて、素敵

もっと聞いていたい。頬を僅かに上気させうっとりと目を細める。自由を得た精神は体を失って初めて渇望した。

 思えばくだらない人生だった。僅か十数年の生の中で、彼女が己自身であったのは僅かな年数だけだった。残りの年月、彼女の身体も精神も全てが彼女に成りすましたアレの所有物であった。彼女はすっかり醜悪な悲鳴と嗚咽が反響する狭い場所に押し込められてしまったのだ。

 彼女たちの泣き事を聞かされ続ける位ならば、目をつむり、耳を塞いでしまった方がまだしもよかった。それによって、僅かに残されていた意識は暗闇に閉ざされてしまった。なにより醜悪だったのは、アレが私の精神を間歇的に削り続けたことだった。時折、アレは私の意識を無理矢理に引きずり出すと、他者の悪意と敵意の渦中に放り込み弄んだ。血を流し、癒す間もなく引き戻された私に待っているのは、密やかに涙を零し、つらつらと恨み言を並べ立てる女たちの群れだった。


 うんざりするような年月を経て、ようやく長年の苦痛から解き放たれた彼女に待っていたのは須臾の間の苦痛だった。激烈な痛みは悪夢を灼き尽くし肉体を崩壊させた。狂気が剥がれ落ちた先に待っていたのは、あっけないほどの解放感だった。彼女の命を奪った青年と少女は、悍ましさに思わず顔をそむけていたものの、罪悪感から心を痛めているのが一目瞭然であった。

彼女としては結果的に、自らを縛る鎖を断ち切ってくれた彼らに、感謝ばかりか愛おしさすら感じていたから、それを伝えるすべを持たないことが無念であった。

 暫くは父の慟哭にうっとりと耳を傾けていたが、それにも飽いた彼女は、僅かに憐憫の視線を投げかけてその場を立ち去った。

 行く宛所もなく彷徨いながら、ふと思い立ち、彼女はかつて彼女が生まれた地へと向かった。正確には、領主館の裏手にある森の、その先に。


Amandine


百合の花が供えられた墓石にはそう刻まれていた。青みがかった真白の石をそっと指でなぞるが、何の手ごたえもないことに彼女は苦笑した。もう触れることさえ叶わない。

 何の感興も湧かなかった。こうして同じ境遇になったのだ、何か感じることもあろうかと詣でてみたはよいものの、全く無意味な行為だったようだ。

――無理もないことか

 出産後亡くなった彼女を懐かしむような器用な芸当は到底無理があろう。少なくとも彼女はできなかった。記憶にあるのは屋敷のいたる所に飾られていた肖像画だけ。その絵すら目にする機会を長らく奪われていたものだから、もう輪郭すら思い浮かべることができなかった。彼女が確かにこの地に息づいていて、かつてはその腕に抱かれたことがあるなど想像できようはずがない。

 追憶すら適わない希薄な関係を、残念に思っているのかどうか、それすらおぼつかなかった。

――まあ、義理は果たした

 そうして彼女は墓石の隣に手足を投げ出して寝そべると、ぼんやりと空を見上げた。新月の夜空は黒々としていて、幾つもの星が淡く瞬いている。

これからどうしたものか。そっと瞳を閉じれば、先程まで全く気にも留めていなかった虫の音が響いていた。じっと耳を澄ませていると、幾つもの声音が重なり合っていることに気づいた。

――疲れた

 そんな気がした。目を閉じても聞こえるのは森の葉擦れや虫の音ばかり。衣擦れどころか自分の息づく音すらしなかった。自分が森の一部になったような感覚に陥る。夜の森は何もかもを飲み込んだように穏やかで、彼女の意識は急速に闇に溶け出していった。



 どれほどの時が経ったのだろうか。どこからともなく、泣き声が聞こえたように感じた。幼さを残す声。またか、と僅かに眉を顰める。すすり泣きだろうと助けを求める涙だろうと、若い女の泣き声はもうたくさんだった。ギュッときつく目をつむり、自由になった両手で耳を塞ぐ。そんなことをしても無意味なのに。

 暫くその恰好のまま横たわっていたが、何故だろう、これまでならば彼女が耳を塞ごうが、否応なしに彼女の中に潜り込んでは、頭を掻きまわしていったあの不快な感覚は一向に訪れなかった。

 恐る恐る力を抜いて手のひらをずらす。泣き声がすっかり途切れてしまっていることを、訝しく思いながら、そっと目を開けた。

――なんだろう

 常ならぬ空気に彼女は身を起こした。ジっと身じろぎもせずに闇の中を睨みつける。不意に僅かな風に乗ってきな臭い匂いが鼻を突いた。

――火事だ

 ハッと目を見開く。一体、どうして、と若干慌てて彼女は身を翻した。

 彼女は闇の中を一途、走り抜けた。すぐに方向感覚が分からなくなる。おかしい、こちらに行けば屋敷に続く小道がすぐに現れるはずだった。墓守の家の明かりすら見つけられないとは。

――何が起きているの

 眉間の皺を深くして立ち止まる。引き返すべきか。須臾の間そう考えて、直ぐに皮肉な笑みを浮かべた。危険などあろうはずがない。今の彼女にとってみれば、生物にとっての危機など無意味なものだった。彼女は既に害される肉体を持ち合わせていない。精神はというと、正常かどうかは怪しかったが、だからと言って今更何になろう。

 そう考えるとスッと冷静になった。辺りを見渡すと、遠くの木の陰にチラチラと赤い光が零れているように感じて、彼女はゆっくりと再び歩み出した。


 燃え盛る炎の中で少女が倒れていた。

 少女のすぐ傍では、横倒しになった馬車が今まさに燃え堕ちようと激しく炎を上げていた。その光が涙で濡れたまつ毛に反射して、チラチラと揺れているのが非常に印象的だった。

――なんと美しい

 彼女は魅入られたようにふらりと近づいた。十をいくらか超えた年の頃だろう。豊かな髪が地面に波打ち、一房がはらりと頬に掛かって翳をつくっている。

青ざめた頬が炎に照らされて今や薔薇のように染まっていた。サクランボの様に可憐な唇はゆるく閉じられ、か細い呼吸が時折漏れ聞こえた。身じろぎした少女が浮かべた苦悶の表情ですら、うっとりするほど可憐で魅力的だった。

 バチバチというひときわ大きな音が響いた。馬車から飛んだ火が木々に燃え移ったのだ。油分を含んだ樹木が燃える特有のにおいが鼻を衝く。瞬く間に炎が巻き起こり、辺りを嘗め尽くしていった。

「っは・・・!」

 少女の呼吸は今や喘ぐような呼吸に変わっていた。

――このままでは

 そう時を置かずにこの少女は死ぬのだろう。今やぐったりとした少女は、その顔すら美しかった。

――惜しいな

 と思った。少女の死がではない。この少女であれば永遠の眠りについた後ですら感動するほど美しいものだろう。だが、このままでは少女が炎に飲み込まれるのも時間の問題だった。

 少女も炎もそれそのものは美しいが、生き物が焼け落ちる様は醜悪だった。この少女も黒い虚ろな塊になるのか。それはなんとも。

――不快だ

美しいものが醜く崩れ落ちてゆく様など見たくもない。

彼女の眉間には深い皺が刻まれた。彼女はぐるりと辺りを見渡すと、耳を澄ませた。強いて意識を集中させると、遠くに微かな気配を感じる。

上へと念じれば身体が急上昇した。松明を灯した騎士が見える。そのさらに先には数騎の騎馬と、大型四頭立て馬車が見て取れた。篝火に照らされた紋章は、少女の傍で今まさに燃え落ちようとしているそれと酷似していた。

追手という可能性もある。須臾の間、思考したが直ぐに肩をすくめた。

――だとしても、それがこの少女の運命にすぎない

 仕方ないことだ。何の感興も覚えぬ表情のままで、私は身を翻した。


 騎士たちは唐突に姿を現した彼女のことを、森の妖精か何かだと思っているようだった。藁にも縋るとはこのことなのだろうか、彼女を見止めて驚きの表情を浮かべた騎士たちは、疑いつつも必死の形相で騎馬を進めた。導かれるままに炎に舐められんとしている少女のもとに至った騎士は、異国の言葉を叫びながら炎に飛び込んだ。

 裾や髪の毛はところどころ焼け焦げてはいたが、少女は無事に救出された。あれ程の火と煙に巻かれていたのだ、内傷が懸念されたが、これからどうなるかは全て少女の体力次第だった。

――ああ疲れた

 ここにきてどっと疲労を感じ始めていた。ぼんやりとした輪郭すら保てなくなっている。今すぐに目を閉じてしまいたかったが、ここがどこかも分からないまま、たった一人で眠りにつくのは嫌だった。

 短い呼吸を繰り返していた少女の呼吸は今では落ち着いて、穏やかな表情を浮かべている。

――それもいいか

 重い瞼に抗いながら少女の元へふわりと近づいた。胸に顔を寄せるようにして目を閉じる。抗いがたい安堵感にするすると身体の感覚が解けていった。彼女の温かな温もりに包まれたまま意識は溶けていった。


 それから何度か意識が浮上しては再び眠りに落ちるということを繰り返した。途切れ途切れの記憶の中で、少女は何とか命を繋いでいた。親類だろうか、涙を浮かべる女性と抱き合って喜びを交わしていた。そうして彼らは無事に安全な場所まで逃げおおせたようだった。


夢現の微睡の中で聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのはスラリとした青年だった。爵位を継いだばかりの彼は少女に目を奪われた。


なんだ、そういうことか。私は薄い笑みを浮かべた。また抗いがたい眠気が彼女を襲う。ゆるゆると瞼を閉じながら、二人の手が重なるのを最後に彼女の意識は途切れた。


「ジェネヴィエーヴ」


 次に彼女が意識を取り戻したのは真新しい柔らかな布の中だった。極く優しい手つきで彼女を抱き上げた女性は、かつての幼い面影をどこか残していた。彼女は幼い子どもの頬にひとつ口づけを落とすと、愛しくて仕方がないと言った口調で再び名前を呼んだ。


「可愛い子。なんて愛しいんでしょう」


 ね、と顔を上げた先には、同じようにとろけるような笑みを浮かべた青年が寄り添っていた。二人は甘く微笑み合うと、愛しているよ、と彼女に囁いた。


 そうして、甘くふわふわとした心地のままに彼女は再び眠りについた。

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

次話は本編を予定しております。またお会いできましたら幸いです。

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