陽子の家で
所沢の下山口付近の、高級住宅街に最近越した陽子の家族の家に送り、陽子の母親との会話。
陽子の母は晩婚で、両親との世代の差があります。
昭和の、良きお母ちゃん、という風情です。
7、陽子の家で
コーヒーサイフォンのお湯が上がり切って、ゴボゴボと軽い音がしてから、僕はアルコールランプを引き出し、蓋をして消した。
暫くして、シュー・・・と吸い込まれるように下に落ちていくコーヒーを恵子は見ながら呟く。
「映画の一場面みたいだ・・・」
陽子は、イーグルスのジャケットを見ながら、ボケッとしている。まだ起きたばかりだからかもしれない。
僕は三つ並べたカップに少しずつ均等に分けながらコーヒーを注いだ。
「はい、出来ました!」
二人は砂糖を入れ、ミルクを注いでスプーンで軽く回す。
「あ、今飲むと眠れないかも」恵子が言った。
「あたし、眠気覚ましに丁度いいかも」陽子が言った。
レコードは長いタイトル曲が終わって、ニュー・キッド・イン・タウンが始まった。
少し明るい雰囲気の曲だが、以前のイーグルスよりは、やはり落ち着いた曲だ。
「どうでしたか、今日は」改まって僕が聞く。
「見ることがなんだか全部知らない事だし、でも沢山の人とお話できたし・・・」
「私も恵子と同じかな、でもここが落ち着く。なんだろう、この安心感」
「ここって親の居る部屋から離れてるし、周りからも距離があるから音出しても窓閉めれば迷惑にならないみたい。冬は寒いけどね。壁が薄いから。朝なんか窓に出来た水滴が凍ってる」
知らずのうちにレコードは終わって、ポチポチと音を出して中心に針が来ていて、僕は針を上げた。
「・・・そろそろ、行こうか」
「え?もう行くの・・・」陽子が言った。
「また、ゆっくり来ればいいじゃん」恵子が言った
「恵子はいいけど・・・」
「ううん、構わない。一緒に来れば」
僕が言うと、恵子が僕を見て少しぷっと口を膨らませた。
「大丈夫、大丈夫。あたし其処まで趣味悪くないから」
陽子が言った。
「えっと・・・ボールは・・・」僕はラケットとボールを持ってドアを開けた。
僕はそっと恵子の左肩に右手を添えて外に送ると、ドアのカギを掛けて再びセリカのドアを開けて二人を乗せ、エンジンキーを捻った。
「所沢のどの辺かな?」
僕が尋ねた。
「あ、あたし下山口の上のところ」
陽子が言った。
「ああ、旭丘住宅?」
「うん、最近引っ越したの、多摩湖から坂降りて踏み切り渡ってまっすぐまた上るでしょ、そこを右に行ったスーパーの近く」
「へぇ、良い所に住んでるね、お父さん頑張ったんだね」
「お母さんは、支払いが大変だ、っていつも頭抱えてる。私はどうせいい人見つけてさっさと出るけどね、恵子はどうするの?」
「え?家のこと?それともきょう、これからのこと?」
「うふふ・・・」
陽子は少し悪戯っぽく笑い、外を見ていた。
僕は多摩湖を過ぎて西武園のジェットコースターを右に見ながら下山口に出て、踏切を渡り、そのまま坂を上っていった。
「あ、次の交差点を右に曲がると、左手にスーパーが見えるから、そこで停めてください」
陽子が言うところで僕は車を止め、陽子はスーパーで買い物をしてそのまま家に帰るようだった。
「三崎さん、あたしの家、あそこだよ」
陽子は指差して教えてくれた。
「恵子は何か買ってくの?」
「うん、少し」
二人がスーパーで買い物するようなので、僕も一緒について行った。
「あれ?お母さん?」
陽子は少しびっくりして、母親らしい人と話をしていた。僕と恵子を見ながら何か説明しているようだった。二人で近づいてきた。
「陽子の母です、偶然ここでお会いしたので。今日はお世話になったみたいでありがとう御座いました」
「あ、いえ、僕たちの方も海で偶然知り合いまして・・・」
「そうですか、良かったら少し寄って頂けますか、恵子ちゃん?いいよね?」
「え?はい、それじゃ・・・」
恵子は少し困った僕の顔を見ながら、僕のTシャツの、左腰辺りを引っ張った。
「すみません、少しお邪魔します」
僕が言った。
母親が少し荷物を抱えていたので陽子が持とうとするのを、僕は目配りして渡して貰った。
「あれぇ、すみませんねぇ、お客さんに」
「あそこの家でしたか?」
「そうです、ちょっと坂が多くてねぇ、日当たりはいいんだけどねぇ・・・どっこいしょ」
「やだぁ~」
陽子は少し恥ずかしそうだ。
「ああ、うちの母も、どっこいしょ・・・ですから」
ぼくは少し笑いながら喋った。
陽子の母は、白い壁に濃い茶色の細い木目が入った瀟洒な造りの家の、ヤマハ製のドアをゆっくり開けると、三人を広いリビングに誘った。
「へぇ・・・吹き抜けがおしゃれですね」
「三崎さん・・・でしたっけ、恵子さんとは今日初めて?」
陽子の母は急須に入ったお茶を僕たちに注ぎながら、訊いていた。
「はい・・・」
「やだ~、だからお母さん、今日みんな初めてなの」
「あら、やだよ~、初めての人に車乗せて貰って此処まで送って貰ったのかい、まったく」
「僕の家にも、先程寄りまして・・・」
「えっ?そうなのかい・・・お母さんには分からないねぇ、貴女方のすることは・・・」
「三崎さん、そんな悪い人じゃなさそうだったから・・・」
「そりゃお母さんだって見りゃ分かるよ、少しは遠慮しなさい、って言いたいわけ。でも真っ黒だねぇ、まだ夏前だって言うに・・・」
「三崎さんは、サーファーなの!やだ~、もう・・・長い髪の毛潮焼けしてるから分かるでしょ」
僕は少し笑いを堪えきれずに肩が笑ってしまったが、陽子の母には好印象だったらしい。
「あら!そうなのかい・・・凄いねぇ、恵子ちゃん、私も30年若かったらねぇ、彼氏にしたいねぇ・・・」
「え?おばちゃんには渡せないな!」
「あら、恵子ちゃんしっかり囲ってるねぇ。そういえば陽子、最近あのひと、連れて来ないねぇ」
「ああ、もう一ヶ月位会ってない」
「そうなのかい?普通の男の子だよねえ・・・少しお父さんに似てるかな・・・」
「おばちゃんは、おじちゃんとどうして結婚したの?」
恵子が訊いていた。恵子は小学生の時から陽子の母のことはおばちゃん、と呼んでいたらしい。
「あらやだ!・・・そうだねぇ・・・もう随分遠い話だねぇ。長い戦争が終わってから暫くしてね、学校にもちゃんと行けるようになって・・・気がつたらもう、いい年でね、近くにいる人で縁談があったからねぇ・・・好きも嫌いもなかったねぇ・・・」
「え?好きでもないのに結婚できるの?なんか昔の人って言いなりだった、って良く聞くけど・・・」
「恋愛もまともにしていないおばちゃんが言うのも変だけど、結婚と恋愛は別なんじゃないのかなぁ・・・恵子ちゃんは恵まれてんのかねぇ・・・名前はそういう願いも込められてるかもしれないねぇ・・・」
「ああ・・・うちの母さん、そんな事言ってた気がする。今度聞いておこうかな」
「だからねぇ、皇太子様(今の天皇)が美智子様とご成婚なさったいきさつなんかが凄く羨ましい、って言ったら撥が当たるけど、憧れて自分の娘に一文字頂いたり、って名前が多いんだよねぇ・・・」
「ふ~ん・・・あ、すいません、なんか感心しちゃって・・・」
「あら・・・やだよう・・・おばちゃんちょっと恥ずかしいねぇ・・・」
僕は恵子の両親が名前を付けた時の事や、その時の幸福が少しわかった気がして、暫く考えてしまった。
「ごめん恵子、きょうテニスするのやっぱりやめよう。小手指のドライビングシアターでも行ってそれで解散でいいかな?」
「え?私は構わないけど・・・おばちゃん、ちょっと電話借りるね。家に電話したいんだ」
「ああ、心配するから電話しときな、遅くなるようだったら口車は合わせるから、取敢えず連絡しとかないといけないよねえ・・・おばちゃんも出ようか・・・暫く話してないからねぇ・・・」
恵子と陽子の母は、暫くの間、電話口で話していた。
僕は今日一度にけっこう遊んだので、この落ち着いた陽子の家の中で、今になって急に疲れが出てきてしまった。
「三崎さん、そろそろ行こうか?」
恵子が言った。
「あら、お茶だけでごめんなさい・・・ちょっと待って」
陽子の母は、買い物の袋の中から、チーズケーキが二つ入った箱を、中を確認してから持ってきて恵子に渡した。
「あ、すみません。ご遠慮なく頂きます」
恵子がお礼した。
「じゃあ、また、連絡ちょうだいね」
陽子が言った。
「うん・・・」
恵子はそう言って靴を履き、ドアを開けた。
「あ・・・また雨降ってるよ」
恵子は外を見て言った。僕も外を見た。暗くなった道路とスーパーの駐車場が、光って濡れていた。
「恵子ちゃん、これ貸して上げるから・・・」
陽子の母は、男物の黒い傘を恵子ににっこり笑って渡した。
「ありがとう御座います・・・やったぁ」
「うふ・・・小さい時の恵子ちゃんと変わんないねぇ・・・」
「じゃ、お邪魔しました、失礼します」
僕はそう言ってドアを閉めた。
「じゃ、行こうか・・・」
「あん・・・傘、さしてよ・・・」
「え?いきなり?」
陽子の母はそっとドアを開け、覗いて笑っていた。
「しょうがないなぁ・・・」
僕は大きめの傘をさして、恵子を入れた。
「階段、滑るからよくつかまるんだよ」
陽子の母は、そう言って見送っていた。
恵子は傘を持った僕の右腕をしっかり掴み、暖かい胸を充てていた。
一段ずつゆっくりと階段を下りる度に腕が揺すられて恵子の体が近づき、恵子の気持ちが伝わって来た。